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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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資料編1(考古編) ((2)人骨の出土した土壙墓)

(2)人骨の出土した土壙墓 昭和49年(1974)夏、八戸市の是川中居遺跡が発掘調査され、8体の人骨,発見された人骨は姿勢の明らかなものはすべて屈葬であり、発見順に付した番号の4・7・8号が仰臥(ぎょうが,そのほかの人骨は、一時期前の後期のもののようである*212。  ,人骨は、このほか昭和58年(1983)に十和田市滝沢の明戸遺跡で発見され、埋葬姿勢は屈葬を示し、頭部付近,なお、畑内遺跡では、1体の人骨を出土する当該土壙が数例見られる*219。 / (2)人骨の出土した土壙墓
資料編1(考古編) ((1)石棺墓)

第2次世界大戦以前はともかく、戦後数年を経てから注目され、中から人骨や歯などが発見されるようになり、当該遺構,人骨は腐敗し、土と化して残っていなかったらしい。,3基 長方形 円形 2.00×0.70 ~0.80 〔後期〕十腰内Ⅰ群(式)土器期 人骨,南津軽郡 平賀町唐竹堀合 1基 長方形 1.60×0.90 〔後期〕十腰内Ⅰ群(式)土器期 人骨,基 長方形 1.92×0.70 ~2.55×1.32 〔中期〕大曲1式土器期 人骨
資料編1(考古編) (第7節 出土遺物と生活)

中世人骨出土事例を見ると、下北郡川内町宿野部遺跡出土人骨は、珠洲の擂鉢をかぶせて埋葬し和人の形質が認められた,浪岡町浪岡城跡北館出土人骨は土壙埋葬であり、女性骨で瓦質土器の出土から16世紀頃と推定される。,堀越城跡出土人骨は三ノ丸の堀跡改修に関連するものであろうか、明確なことは分からない。,東通村の浜通遺跡出土人骨は、火葬土壙8基と土壙埋葬1基が検出されている。,さらに琴湖岳遺跡出土人骨も火葬骨という。
資料編1(考古編) ((1)縄文時代の甕棺墓)

(1)縄文時代の甕棺墓 大型の土器の中から人骨が入った状態で発見される遺構を、単に甕棺墓または改(再,甕棺の中から人骨も発見され、喜田は、これに対し笠井と同様な洗骨を伴った改葬を考えている*233。,③…翌年5月に行われた慶応大学江坂輝彌らによる調査で、同遺跡から出土した人骨入り甕棺1個*236。,④…昭和46年(1971)8月に近接する堀合Ⅱ号遺跡から、青森山田高校の葛西励らは人骨の入った中期の最花式,に属する甕棺を発見(人骨は18~19歳位の女性骨、頭部を基に復元され、〝縄文美人〟と称し、県立郷土館の
通史編1(自然・原始) (大正時代)

この大型土器の内部から人骨が検出され、笠井は洗骨を経た再葬墓(さいそうぼ)であるという結論を下した(34,遺跡の中でも、特に貝塚から埋葬人骨が発見されることがある。,翌大正十二年(一九二三)には、伸展の葬法で埋葬された一体の人骨が現れたのである(37)。,この人骨の発見を契機として、大正十四年(一九二五)には、当時東北大学医学部に在職中の長谷部言人(はせべことんど,やまのうちすがお)(一九〇二~一九七〇)がオセドウ・笹畑の貝塚を発掘し、多数の円筒土器を発見したが、人骨
資料編1(考古編) ((2)弥生時代の甕棺墓)

弥生時代の甕棺墓 弥生時代になると、九州などの西日本では埋葬用の大型合口甕棺が作り出されており、内部から人骨,なお、この壺型土器は高さ47.5cm、口径30.8cmあり、発見当時人骨が入っていたか否かについては不明,なお、両土器ともに、内部には人骨その他副葬品は検出されていない*245。,図27 甕棺(土器棺)墓 甕棺(土器棺)3基…倉石村・薬師前遺跡(後期) 3号棺内の人骨発見状態
通史編1(自然・原始) (第四節 注および引用・参考文献)

第四節 注および引用・参考文献 (1)A 松下孝幸 「九州と中国の古人骨を読む」『稲-その源流への道,』 東アジア文化交流史研究会 一九九〇年  B 韓康信 「九州の古人骨をみる」『稲-その源流への道』
通史編1(古代・中世) (北東アジア人の渡来)

写真17 土井ヶ浜遺跡人骨(山口県豊北町)
通史編1(自然・原始) (弥生文化の伝来と稲作農耕の開始)

これら渡来人は在住の人々(縄文人の後裔(こうえい))とは異なる骨格を示し、本州西端や北九州などでその人骨
資料編1(考古編) (第1節 中世・近世遺跡の概観)

平賀町 16 陶磁器 8 33 富山遺跡 平賀町 15 銭貨 3 34 鶴ケ鼻遺跡 大鰐町 17 銭貨・人骨,44 鞍越遺跡 川内町 16,17 陶磁器・他 77ほか 45 上野平遺跡 川内町 15 陶磁器・人骨
通史編1(自然・原始) (土壙墓)

八戸市・是川中居遺跡で検出された土壙墓(後期) フラスコ状ピットに埋葬されていた人骨 (左
通史編1(自然・原始) (旧石器時代)

なかでも宮城県北部を流れる江合(えあい)川流域に多くみられ、化石人骨などの発見はないが、石器の形態と出土土層
通史編1(古代・中世) (日本人の起源)

写真16 縄文美人  縄文時代に先行する旧石器時代については、日本で発見されたこの時代の人骨はそれほど
資料編1(考古編) ((1)縄文時代の土壙墓)

、間違いなく墳墓(土壙墓)であろうと思うが、残念ながら内部から遺体を埋葬したという明らかな証拠となる人骨
通史編1(自然・原始) (発掘調査の成果)

⑩埋葬に関する遺跡調査の進展…大型土器の内部から人骨が発見され、その土器がいわば棺の役割を果たしていた,一九七八)五月末に三戸郡倉石(くらいし)村薬師前(やくしまえ)で、長芋畑の造成中に発見された三個の甕棺は、人骨,従来発掘調査の際に一~二基の当該遺構を発見してはいたが、人骨ならびに副葬品等の検出がみられぬため、性格不明,さらに土壙墓の範囲に含まれるものとして、人骨が出土するフラスコ状ピットがある。,では昭和五十七年(一九八二)五~六月に調査された上北郡上北町大浦の古屋敷貝塚の例があり、壮年期の女性人骨
資料編1(考古編) (第4節 中世・近世の生活用具)

革製品) その他 銭貨,下駄,棒,墨書付札,井戸枠,鉄滓,銅滓,キセル,麻紐,縄紐,炭化米,堅果,人骨
資料編1(考古編) ((5)縄文時代後期)

大型の壺形土器の内部から人骨がしばしば発見されているが、土器の大きさから見て遺体をそのまま入れることは
通史編1(自然・原始) (土器棺墓)

薬師前の人骨は、頭骨に接して立てられていた手の橈骨(とうこつ)と尺骨にベンケイガイの貝輪(腕輪)が七枚着装
資料編1(考古編) ((3)縄文時代前期)

状況が考えられ、上北郡天間林村に所在する二ツ森貝塚は、現海岸線まで直線で約16kmあり*41、若い女性人骨
資料編1(考古編) ((5)骨角牙器(こっかくがき))

垂飾品が、薬師前遺跡(三戸郡倉石村=後期)*110と前ノ沢遺跡(三戸郡名川町=晩期)において、甕棺内から人骨
通史編1(自然・原始) (人類の進化)

その北京原人骨は第二次世界大戦の余波を受けて所在不明となり、その行方は現在も探索中といわれる。
資料編1(考古編) (3.縄文時代の集落)

としてその外側に竪穴住居跡群が存在し、遺跡の西南側には環状列石が営まれており、中心部の墓域(土壙から埋葬人骨
通史編1(自然・原始) (第三節 注および引用・参考文献)

石原道博編訳 『新訂 魏志倭人伝 他二篇』 岩波文庫 一九九六年 六三刷 (48)鈴木尚 「相模平坂貝塚の人骨
通史編1(自然・原始) (太平洋戦争終結後)

なお、伸展葬(しんてんそう)の人骨一体と頭骨も出土したといわれる(67)。  
資料編1(考古編) (〈注一覧…第2章〉)

368』 1993年11月 *212 八戸市教育委員会 『是川中居遺跡地内発掘調査概要-土壙墓・赤染人骨,平賀町教育委員会) 1972年3月 *238 小片・森本・江坂 「青森県表館発見の縄文文化後期初頭の甕棺と人骨
通史編1(自然・原始) (第一節 注および引用・参考文献)

相内村の貝塚」『人類学雑誌』三七-一 一九二二年一月 (37)A 宍倉宣孝 「陸奥北津軽郡相内村より人骨発見,青森県埋蔵文化財調査報告書一一三) 一九八八年三月 (172)八戸市教育委員会 『是川中居遺跡地内発掘調査概要 土壙墓・赤染人骨
資料編1(考古編) (第6節 金属製品)

釘)を埋納した上に内耳の鉄鍋をかぶせて埋めていた事例(図19、20参照)があるし、根城東構地区では、人骨
資料編1(考古編) (〈注一覧…第4章〉)

中世陶磁について」(北奥古代文化第6号) 1974年 *7 橘善光・森本岩太郎 「下北半島西通発見の人骨
資料編1(考古編) (新編 弘前市史 資料編1-1 考古編 目次)

         (1)縄文時代の土壙墓 …………………………  161          (2)人骨
資料編1(考古編) (〈注及び参考文献一覧…第3章〉)

*23 田名網宏 「古代蝦夷とアイヌ」(蝦夷)朝倉書房 1956年 *24 鈴木尚 「東北地方の古人骨
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