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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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資料編1(考古編)
((1)祭祀と仏教文化の波及)
(1)祭祀と
仏教
文化の波及 青森県内のこれまでの調査では、7世紀後半~10世紀の祭祀遺構は終末期古墳以外,一方、律令期の代表的な宗教文化である
仏教
文化については、寺院の痕跡は確認されていない。 / (1)祭祀と
仏教
文化の波及
通史編3(近世2)
(神仏分離とは)
このように、新政府は神道国教化を推進したが、その過程で神社から
仏教
色を取り払おうとした政策が神仏分離であり,つまり、新政府が当初意図したことはあくまでも
仏教
と神道の分離であり、必ずしも
仏教
を弾圧することではなかった,しんぶつこんこう)は長年にわたってなされてきた現象であり、広く庶民にも根付いた信仰形態であったため、何が
仏教
,また、それまで
仏教
勢力に押されていた神官たちの一部には、この時とばかりに新政府の威を借りて廃寺・廃仏運動,このような
仏教
に対する排撃を廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)というが、それは地域の宗教の在り方を濃厚に反映
通史編4(近・現代1)
(児能花(このはな)幼稚園の設立)
設立者は西茂森の泉光院住職柿崎素明で、
仏教
の教えのもとに幼児の保育に当たった。,これは、本県における
仏教
関係の最初の幼稚園で、各方面から注目された。
通史編3(近世2)
(藩士の信仰)
仏教
では、死後の世界冥土に行く途中に三途の川があり、善人は橋を渡る。,日ごろ、藩士は神道・儒教・
仏教
・兵学を学んでいるが、寺請(てらうけ)・檀家(だんか)制度が整備されてくると,、日常生活の中にも
仏教
思想が浸透し、死を覚悟する際も
仏教
による説明がなされた。
通史編1(古代・中世)
(文永の蝦夷の乱)
また中世の
仏教
説話集である『地蔵菩薩霊験記』には、この安藤五郎が
仏教
を夷島に持ち込もうとして苦労したり,鎌倉建長寺の本尊の地蔵の化身が蝦夷に馬鹿にされる話がみえているが(史料五八六)、安藤氏による、こうした
仏教
通史編3(近世2)
(修験道(しゅげんどう)の整理)
しゅげんどう)の整理 神仏分離令は神体・仏体を厳しく峻別(しゅんべつ)した宗教政策であったが、従来
仏教
,また、残り二三社は観音堂・大日堂など
仏教
色が強い堂社であり、神体を上納して神道色を抜いたうえで修験者による,このように藩は修験道より
仏教
色を徹底して取り除いたため、多くの修験者は復飾神勤願いを出して、生活の方途
通史編5(近・現代2)
(禅林街・太平高等学校)
昭和二十三年には太平高等学校と校名を改めたが、課程は普通科と
仏教
科に分かれており、一般人の入学も認めた,仏門の繁栄とそのための後継者の育成、そして戦後の荒廃を
仏教
で乗り切って救済しようと発足した太平高校ではあったが
通史編3(近世2)
((二)神職組織)
(二)神職組織 各堂社には、それぞれ
仏教
系の修験と神道系の神職が存在してきたが、その実態は明らかでない
通史編4(近・現代1)
(アメリカに伝える禅の心)
133 仏苗学園の資金難を訴える三メートルの手紙 初めは仏苗学園の資金稼ぎの上、自らの勉学、
仏教
,キリスト教を知らずして白人に
仏教
を説けない」と語った。それは禅語の「歩々是れ道場」の生き方である。,しかし、深く如幻に接し、如幻から信頼され、如幻の著『アメリカ人の
仏教
』を訳した徳沢龍譚は、如幻は春風駘蕩,如幻は、禅宗を
仏教
の一宗派としてでなく、その原型において伝えようとした。,しかし、彼の志は日本の
仏教
界ではなかなか認められなかった。
通史編5(近・現代2)
(弘前大谷幼稚園)
その保育は
仏教
的教育理念に基づき、幼児の心身の発達を助長し、宗教心の萌芽を培って人間形成の教育の礎とすることを
通史編1(古代・中世)
(四 執権時頼の東国廻国をめぐって)
この
仏教
説話が前の幕府の「禅密主義」
仏教
政策をその背景にもつであろうことは、ほぼ察しがつこう。 ,直接的な改宗を伴わないが、時頼の廻国をとおして幕府の「禅密主義」なる
仏教
政策が宗教的祭祀権の行使という,幕府による「禅密
仏教
」政策の北奥地域への遂行は、ひとり臨済禅への改宗だけではない。,「褝密
仏教
」という臨済禅と真言密教の総和の上に成り立つ
仏教
政策である以上、真言密教の扶殖も当然存したことは,、鎌倉幕府-北条時頼-「禅密
仏教
」によって彩られようとしている。
通史編5(近・現代2)
(児能花幼稚園廃園と附属幼稚園)
児能花幼稚園は明治四十二年に設置された
仏教
を基本とする幼稚園であったが、同幼稚園は青森師範学校に貸与され
通史編1(古代・中世)
(三 北奥宗教界の中世的転回)
においては幕府と東国地域とが宗教史的にそう際立ったかかわりを持つことは少なく、その意味で鎌倉前期の北奥の
仏教
界,その宗教政策とは、ごく簡単にいえば公家政権が標榜する天台宗中心の「顕密主義」
仏教
に対して、幕府が公権力,の立場から採用した真言密教と臨済禅の和合たる「禅密主義」
仏教
を中核とした政教運営のことをいい、このような,言葉を変えていえば、幕府の志向・創作した「禅密主義」
仏教
政策が、幕府の宗教的祭祀権として、東国の地に現実,これまで天台宗一色に彩られてきた北奥
仏教
界が、この幕府による反天台宗の立場からする「禅密主義」の宗教指導
通史編1(古代・中世)
(一 古代における北奥の宗教世界)
奈良朝を経過した古代律令国家が「攘災殖福」「誘善利生」のスローガンのもと、
仏教
による鎮護国家政策を九世紀,事実、その両宗は鎮護国家の期待に応えるべく、地方における
仏教
行政官たる講師(こうじ)および仏事・法会を,この天台座主のポストをほぼ東国出身者が独占したという意味は決して小さくはなく、陰に陽に東国
仏教
の世界と,この異常ともいえる東国
仏教
と天台宗の関係は、では一体どのような歴史的背景から生じたものであろうか。,こうしてみれば、古代東国の
仏教
界は、八世紀に道忠禅師の蒔いた天台宗の種が、九世紀における慈覚大師や道忠
資料編1(考古編)
(第7節 出土遺物と生活)
例えば、
仏教
関係の遺物を抽出しようとすると、中世以前の資料から見なければならない。,きされた須恵器の皿(硯として使っていたらしい)や、尾上町下安原遺跡出土の錫丈、など古代・平安時代の段階から
仏教
通史編3(近世2)
(浄土宗)
金戒光明寺の末寺であったことと(遠藤聡明「宝永五年の弘前新寺町稲荷神社の勧請と別当浄土宗白狐寺の造営」『
仏教
論叢
資料編1(古代・中世編)
(第三節 宝篋印塔)
第三節 宝篋印塔 宝篋印塔は、
仏教
の塔婆の一形式であり、内部に「宝篋印陀羅尼経」を納めて礼拝したところから
通史編3(近世2)
(盆行事)
盆とは盂蘭盆(うらぼん)のことで、祖先の霊に食物を供えて、餓鬼(がき)の苦しみから解放し冥福を祈る
仏教
行事
通史編3(近世2)
(庚申信仰)
これに、
仏教
の帝釈天(たいしゃくてん)の使者青面金剛童子(しょうめんこんごうどうじ)や、神道では猿田彦
通史編1(古代・中世)
(奥大道と文物の流通)
後白河院が六六国に建立した国分寺の一つであるとされており(写真78)、奥大道を通じて伝えられた平泉の
仏教
文化,モノだけでなく文化、京都風の
仏教
儀礼や生活様式も流入した。
通史編3(近世2)
((二)本末制と僧録制)
(二)本末制と僧録制 江戸幕府は慶長年間(一五九六~一六一四)から、中世以来の特権を保持してきた
仏教
諸宗派
通史編3(近世2)
(概観)
二〇世紀末の弘前に現存する
仏教
美術に関しては『弘前の仏像』(一九九八年 弘前市刊)を参照されたい。
通史編4(近・現代1)
(関東大震災後の巡錫布教)
東奔西走、
仏教
界の大同団結を図った。佐藤禅忠は彼の衣鉢を継いだ。
通史編5(近・現代2)
(山鹿学の影響)
『中朝事実』は『日本書紀』などから日本こそが中国(なかつくに)であり、儒教は従であり、
仏教
は異教であり
通史編3(近世2)
(寺院の動向)
寺院の動向 本項の冒頭でも述べたように、神仏分離といった場合、多分にそれは神道の隆盛の対極に
仏教
の衰退,また、明治初期の
仏教
界はどのような様相を示していたのだろうか。
通史編1(古代・中世)
(津軽地方の古代信仰)
仏教
系文化については、寺院の痕跡は確認されていないが、細越遺跡の土壙からは「寺」の墨書土器、平賀町鳥海山遺跡,図26
仏教
文化の遺物 おそくとも六世紀頃から、日本の民俗信仰の展開の方向は、空間的には畿内を
通史編3(近世2)
(神仏分離政策の転換)
ところが、もし庶民に神葬祭が広まれば村の産土神や鎮守の神社で葬式が執り行われ、自然、
仏教
色が神社、特に
通史編3(近世2)
(館神)
稲荷宮の神体の稲荷神倚像(弘前市立博物館蔵)は、
仏教
系の変形荼吉尼天(だきにてん)像であるが、ここに祀
通史編1(古代・中世)
(一 中世寺院の建立)
その点、同じく油川に建立された法源寺も同列であり、蓮如の直弟子敬了が「夷浄願寺」で「
仏教
之真如を熟得」,次に考慮すべきことは、日持の北奥・渡道の
仏教
史的背景ともいうべき、永仁三年の頃の北方地域における
仏教
受容
通史編3(近世2)
(キリシタン改め)
明治二年(一八六九)に
仏教
諸宗は明治政府へ耶蘇教(やそきょう)禁制を建白していて、領民は翌三年でも「寺請証文
通史編3(近世2)
(大社の神仏分離)
(現南津軽郡碇ヶ関(いかりがせき)村)、観音堂別当久渡寺(くどじ)(現市内坂元)については、もともと
仏教
通史編1(古代・中世)
(稀有な北の富)
写真60 鷲の羽 毛布狭布とは、麻・苧(からむし)の狭布に山鳥・野兎の毛を混ぜて織ったもので、
仏教
思想
通史編1(古代・中世)
(四耳壺の出土)
さらに、
仏教
の伝来を示す資料が経容器であり、これまで経塚文化の波及がなかったとされる津軽からの出土品として
通史編1(古代・中世)
(「蝦夷・蝦狄」表記の創造)
その中心となったものが
仏教
的な世界観である。 ,ところが
仏教
の教義では、世界の中心はかの須弥山(しゅみせん)(写真12)である。
通史編3(近世2)
(信政の教養)
惟足の神道説は吉田神道を基礎としつつも、その
仏教
的色彩を除き、朱子学との習合を推し進め、理学神道をもって
資料編1(古代・中世編)
(第二節 五輪塔)
五つの石は、
仏教
の五大思想の教えによる宇宙観を示している。
通史編1(古代・中世)
(平安時代の律令祭祀)
九世紀初頭に優れた呪術体系を備えた密教が国家
仏教
として採り入れられてから、九世紀後半には都城では、道教的呪術
通史編3(近世2)
(藩政中期四代信政)
⑬神道、
仏教
によらない奇怪、非常の話をして、領民を集めることを禁止する。
通史編4(近・現代1)
(肉食と牛乳)
仏教
で四足・二足を食べることを忌んだ影響が最も大きかったが、そのほか民間信仰で、ウブスナ様の神使と信じられていた
通史編3(近世2)
(民衆の精神世界)
弘前藩の正式宗教は
仏教
を別とすれば、岩木山を神体とする岩木三所大権現(現岩木山神社)信仰であり、それ以外
通史編3(近世2)
(宗教と交通統制の低下)
藩は寺社奉行を頂点として、
仏教
は薬王院(やくおういん)・百沢寺(ひゃくたくじ)・神宮寺(じんぐうじ)・
通史編3(近世2)
(江戸時代中期の建築)
丸龍を描き、内陣は、箔押し貼り壁の技法を用いて、その天井には迦陵頻伽(かりょうびんが)を左右に描いて
仏教
的雰囲気
資料編1(考古編)
((2)文字資料と文字文化)
特筆されるものとしては、
仏教
との関係が深い「寺」(青森市細越遺跡・木造町石上神社遺跡・青森市朝日山遺跡
通史編1(古代・中世)
(二 津軽の修験道と神社)
そのベースの上に、天台宗とか真言宗という宗派的な
仏教
や羽黒派とか当山派や本山派という派閥的な修験が展開
資料編1(考古編)
(新編 弘前市史 資料編1-1 考古編 目次)
4.古代の文化と信仰 ……………………………… 346 (1)祭祀と
仏教
文化
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