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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編2(近世1) (一 九戸一揆と動員大名)

陸奥国では葛西(かさい)・大崎(おおさき)一揆、和賀(わが)・稗貫(ひえぬき)一揆が起こり、出羽国では仙北,、検地奉行として津軽の検地を終え帰国の途次にあった前田利家(まえだとしいえ)は、この起こったばかりの仙北
通史編2(近世1) (北奥羽の領知確定)

この七月の仕置によって、出羽国仙北郡角館城主戸沢光盛や南部信直は秀吉の領知朱印状を得ることができたが、,この後、表4にも明らかなように、戸沢氏は翌天正十九年一月十七日に仙北の北浦郡において四万四三五〇石の知行,を認める朱印状を改めて受け取り、秋田氏や仙北・由利の大名・小名衆も、天正十八年十二月から翌十九年正月にかけて,ねのい)氏・下村(しもむら)氏らはわずか一ヵ村のみを知行する小名であるが、豊臣政権はこれら由利の小名や仙北衆, 4,518石 天正19年正月17日 小野寺孫十郎 出羽国仙北之内上浦郡三分二 31,600
通史編2(近世1) (伏見木幡山城の築城)

であったものが、翌慶長元年の伏見木幡山(こはたやま)城の築城からは、津軽右京亮(うきょうのすけ)のほか、仙北,またこの時、南部信直だけではなく、仙北の小名衆や秋田実季も伏見作事板運上の朱印状下付を待って伏見に詰めていた,結局、この朱印状は三月になってようやく発給され、秋田実季や仙北の小野寺義道(よしみち)には三月六日に出
通史編2(近世1) (近世最後の大飢饉)

の藩政改革に反発して久慈通(くじどおり)で大一揆が起こり、秋田藩でも買米制(ばいまいせい)をめぐって仙北郡
通史編2(近世1) (伏見作事板の運上と太閤蔵入地)

津軽氏のほか秋田・仙北・由利郡の大名・小名は「隣郡之衆(りんぐんのしゅう)」として編成され、その新たに,  津軽右京亮 90  145  140   なお、太閤蔵入地は、この秋田氏のほか、由利郡や仙北,また、翌慶長三年、秋田・仙北の大名・小名衆とともに伏見作事板運上の秀吉朱印状獲得を待ちわびていた南部信直,南部領には太閤蔵入地は設定されておらず、秀吉政権は太閤蔵入地を領内に設定した秋田・仙北・由利・津軽の大名
通史編2(近世1) (人質徴収)

の在京を命じられ(資料近世1No.一六 なお、以下の記述は長谷川前掲書による)、八月二十七日には出羽仙北,さて、上洛を命じられた北出羽の大小名は、天正十八年(一五九〇)九月中ころから十月末にかけて起きた、仙北
通史編1(古代・中世) (下国伊駒安陪姓之家譜)

安陪仲丸(阿倍仲麻呂)の子である広庭が、父の仇討ちのために奥州に走り、下国氏と同族であると称して出羽国仙北
通史編2(近世1) (伏見滞在と派閥抗争)

奥羽の大名、つまり津軽氏をはじめ、南部氏、秋田氏、仙北・由利の小名らにとって文禄・慶長期における軍役とは,つまり、「御前之衆」は秀吉と大名との間に立ってその意向を伝える取次であり、その取次を行う相手は秋田氏と仙北,秋田山からの杉板廻漕は、秋田実季を中心とし仙北・由利の小名衆や津軽氏をも含む「隣郡之衆」であったが、この,すでにみた慶長三年正月四日付の信直書状では、秋田氏と仙北の小名が伏見に滞在して朱印状の受領を待っていたが,天正十八年の仕置当初から出羽や津軽の杉・金・鷹に目をつけていたが、その安定した供給のためには、秋田氏や仙北
通史編1(古代・中世) (秋田の唐糸伝説)

・二七日(ふたなぬか)山釈迦堂光明寺(秋田市旭北寺町)・三七日(みなぬか)山阿弥陀堂(現大国主神社、仙北郡西木村
通史編3(近世2) (藩営紙漉座と蘭医星弘道)

さらに、先進地秋田仙北の紙漉周吉・金蔵らを招いて製紙改良の指導を仰いでいた喜兵衛と、共同経営者今井(いまい,吉五郎は仕立方下取扱、秋田仙北の紙漉周吉が紙漉座頭取に任命され実務を担当、今井屋俊蔵は紙漉座下取扱として
通史編1(古代・中世) (後三年合戦)

清原氏は本拠の仙北三郡(雄勝・平鹿・山本)に加え、安倍氏の所領であった奥六郡(胆沢・江刺・和賀・稗貫・
通史編1(古代・中世) (応永十八年の衝突)

衝突 応永十八年(一四一一)、南部師行は葛西持信(かさいもちのぶ)の支援を受けて、秋田湊の安藤鹿季と仙北刈
通史編2(近世1) (浅利頼平の比内帰還)

天正十八年七月以後の奥羽仕置において、秋田の検地奉行として木村重茲、津軽の検地奉行として前田利家、仙北,なおこの時、出羽国では庄内藤島一揆、仙北一揆が起こっているが、同年中に鎮圧され、翌天正十九年正月十七日
通史編1(古代・中世) (協力機関および協力者一覧(機関・個人順、五十音順))

センター 岩手大学附属図書館 円覚寺(西津軽郡深浦町) 円明寺(弘前市) 大国主神社(秋田県仙北郡西木村
通史編2(近世1) (城破(わ)り)

城破りの実際は、戸沢光盛領の出羽山本・平賀・仙北三郡では、光盛居城の角館(かくのだて)一城だけが残されたと,さて、仕置が一応の終了をみたころ、陸奥国では和賀・稗貫、そして、葛西・大崎旧領、出羽国では仙北・由利・
通史編2(近世1) (豊臣政権の奉行衆)

図32.越前国敦賀湊・若狭国小浜交通図  仙北の六郷氏・本堂氏・戸沢氏の太閤蔵入地は、「惣而川沿之地
通史編1(古代・中世) (南部晴政の登場と一族間の対立)

り、岩手郡滴石(しずくいし)(雫石)城(岩手県岩手郡雫石町)を攻略し、城主の戸沢(とざわ)氏は出羽国仙北郡角館,(かくのだて)(秋田県仙北郡角館町)に移っていった。
通史編2(近世1) (中世の比内浅利氏)

この時、大浦為信は、浅利勝頼の子頼平を援助し、浅利氏遺臣をその家臣団に組み入れるとともに、仙北角館(かくのだて
通史編2(近世1) (天明六年以降の飢饉)

もっとも、秋田領も仙北郡(せんぼくぐん)の作柄はよかったが、大館周辺は大変悪く、乞食も多く出たという。
通史編2(近世1) (九戸一揆の鎮圧)

・堀尾吉晴・井伊直政ら上方の軍勢が参陣したが、ほかに出羽国鹿角(かづの)郡浄法寺(じょうほうじ)より仙北
通史編2(近世1) (飢饉のその後)

同書では同年秋になって秋田や仙北・本荘・亀田・庄内の周辺から帰国する者が多く、「在方もかなりにぎわしくなってきた
通史編2(近世1) (九戸一揆の背景)

しかし、この奥羽仕置軍が去った直後の天正十八年十月、すでに述べたように出羽国では仙北・由利・庄内藤島一揆
通史編2(近世1) (北奥羽の大名の動向)

また、最上氏の侵攻にさらされていた仙北(せんぼく)の本堂道親(ほんどうみちちか)も、豊臣勢の出羽出動に
通史編2(近世1) (刀狩り)

また、たとえば、出羽仙北郡では、仕置を命じられた上杉方の奉行人である色部(いろべ)氏から豊臣方に差し出
資料編1(古代・中世編) ([十六世紀])

下国安東愛季、「深浦口逆意之方」を成敗したことを仙北六郷氏に告げる。,●天正十六年(一五八八)八月五日、仙北の本堂道親、南部信直の斯波御所攻略を賀するとともに、最上義光の仙北介入
通史編2(近世1) (知行安堵と検地)

さたけよししげ)(常陸(ひたち))・岩城貞隆(いわきさだたか)(岩城)・戸沢九郎(とざわくろう)(出羽仙北
通史編2(近世1) (関ヶ原の戦いと奥羽の情勢)

つがねたねひさ)は、家康の命を受ける形で北奥羽の諸大名に対して書状を発し、南部利直・秋田実季、さらに出羽仙北
通史編2(近世1) (二代信枚の動向)

たまたま憲忠は仙北地方へ出かけていたため、政景が交渉に当たることになった。
通史編2(近世1) (豊臣再仕置軍の奥州下向)

 浅野長吉が南部信直の家臣東朝政(ひがしともまさ)に宛てた四月十四日の書状によれば、「津軽・仙北口
通史編2(近世1) (津軽家宛ての領知宛行状と領知高の変動)

豊臣政権下で北奥羽の大名に課された役である秋田杉板の作事板搬出割り当ての状況から検討すると、津軽氏と出羽仙北
通史編1(古代・中世) (掲載図版・写真の典拠・所蔵一覧)

弘前市 万蔵寺蔵 写真106 津軽一統志首巻 弘前市立図書館蔵 写真107 撮影 写真108 秋田県仙北郡西木村
資料編1(古代・中世編) (第一章 綱文・史料一覧)

下国安東愛季、「深浦口逆意之方」を成敗したことを仙北六郷氏に告げる。,…………………… 盛岡南部家文書 344 ●天正十六年(一五八八)八月五日、仙北の本堂道親、南部信直の,斯波御所攻略を賀するとともに、最上義光の仙北介入に対し、信直の援助を求める。
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