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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編3(近世2) (答礼使の出発)

ただ、弘前藩の意見は仙台藩が提出した先日の建白書にみえるような明確な批判的意見の表明までは言及していないが,仙台藩使者がより具体的な情報と方策を持って訪れたこともあるが、自藩のためにも和平策による事態の解決を望,そのためには仙台藩の戦争回避の建白は有効にみえたのである。  ,仙台藩は新政府から会津征討を催促されており、和平策を模索しつつも、違勅を避けるために出兵するという知らせを,その中では、前回知らされた仙台藩の目指す内容とは違った局面展開が生じてきたが、依然仙台藩使者が伝える方向性
通史編3(近世2) (各藩使者の来弘)

三月初めには秋田藩使者に続いて仙台藩使者が、相次いで弘前へ到着した(同前)。,三月四日、仙台藩より一日早く到着した秋田藩使者の申し出は、勅命に従い国恩に報いるべく互いに尽力しようと,一方、仙台藩からの使者がもたらした内容は、新政府に決して積極的な内容ではなく、戦争を避けるべく建白書を,しかし、仙台藩への返答の根拠には、仙台藩使者来弘以前の二月二十五日に江戸からの知らせで徳川慶喜の謹慎を,つまり、弘前藩は、仙台藩の征討中止策に賛意を示し、奥羽諸藩が同意見ならば、独自に建白して仙台藩を側面から
通史編3(近世2) (白石会議)

白石会議 白石周辺ではこのころ、仙台藩と米沢藩が、会津藩と交渉して、同藩の謝罪降伏によって事態を収めようとさらなる,討庄応援に兵力を投入することで新政府の指揮に従う方向をとりつつあったのであるが、会津征討に動いたはずの仙台藩,結果、仙台藩は閏四月四日、総督府に対しても会津藩主の降伏嘆願を伝え、進撃の中止を申し入れた。,弘前藩への白石会議招請状は、仙台藩に滞在中の杉山八兵衛の許へ、翌五日に届けられた。,それによると、五日に仙台藩家老但木(ただき)土佐より書状によって、会津藩主松平容保の降伏謝罪の件について
通史編3(近世2) ((一)東北諸藩と弘前藩)

よって、新政府と会津藩の降伏恭順を押し進める仙台藩等との関係が悪化するのである。,後に世良は、大山へ宛てた「奥羽皆敵」の密書が仙台藩の手に渡ったため、暗殺される。,早速、総督府は奥羽諸藩に会津征討を命じたが、仙台藩をはじめどの藩も動く様子はなかった。,その間、弘前藩が、戊辰戦争の勃発から奥羽列藩同盟結成に至る過程の中で、仙台藩や秋田藩などの周囲の動向にどのように
通史編3(近世2) (白石同盟の動き)

その途中で山中は、秋田藩出役桜庭富蔵が帰藩するのに出会い、仙台藩と米沢藩の談合内容に接したのであった。,それは、①庄内征討の件、②会津藩の謹慎と助命嘆願が米沢藩と仙台藩でなされている件、③仙台に山中兵部を派遣,閏四月十三日に新庄在陣中の沢副総督、十七日には岩沼在陣の九条総督を見舞っており、翌十八日には白石(しろいし)で仙台藩主伊達慶邦
通史編3(近世2) (軍事情勢の膠着)

は二月に総督九条道孝(みちたか)・参謀醍醐忠敬(だいごただゆき)らと奥羽鎮撫総督府に任命され、三月に仙台藩,に出陣したが、総督府付き参謀の長州藩士世良修蔵(せらしゅうぞう)が高圧的態度で仙台藩士に奥羽鎮撫を命じたため,ともかく目前の危機は回避されたが、七月上旬までは同盟か勤皇かの対立はくすぶり続け、秋田・盛岡・仙台藩等
通史編3(近世2) (庄内征討命令をめぐって)

そこには戦況のほかに、風説としながらも、仙台藩の動きが総督軍の意に反するものであること、庄内藩から仙台,また翌日には、奥羽鎮撫総督府参謀世良修蔵が、強硬な態度で事に当たり、奥羽諸藩を敵視したために、仙台藩等,の反感と危機感を強めさせ、仙台藩士たちに暗殺されるという事件が起こった。
通史編2(近世1) (有史以来最大級の大量死)

他の北奥諸藩も同様で、史料によって違いはあるが、盛岡藩は約四万余、仙台藩は一四万~一五万、八戸藩は約三万人,『南部史要』 過去帳推計(岩手県) 9万2100人 飢饉死者 『寺院の過去帳からみた岩手県の飢饉』 仙台藩
通史編3(近世2) (奥羽列藩同盟の成立)

この席では、仙台藩が起草した太政官建白書が討議にかけられたが、それは、去る二十日に暗殺された鎮撫総督参謀世良修蔵,結局、仙台藩の草稿は衆議で否決され、この過激な箇所は削られることになった。
通史編3(近世2) (総督軍の集結)

さらにこの時、仙台藩使者等も秋田城下へ訪れており、秋田藩の動向が注目されていた。  ,この秋田藩の藩論決定により、秋田城下に滞在していた仙台藩士のうち六人が斬首され、五丁目橋のたもとに並べられた
通史編3(近世2) (鎮撫総督軍の領内通行問題)

秋田藩は、この仙台藩の行動が、盟約の精神に沿ったものではないことを理由に挙げ、既に秋田へ入領している副総督一行,閏四月二十七日には、奥羽鎮撫総督府のうち九条道孝(くじょうみちたか)総督と醍醐忠敬(だいごただゆき)参謀は、仙台藩重臣,の邸に移され、軟禁状態下に置かれており、さらに、同盟諸藩の中には、秋田から沢副総督をも呼び戻し、仙台藩下,仙台藩使者水野邦助が弘前に到着し、五月三日の奥羽列藩同盟の成立を伝えたのであった。
通史編2(近世1) (宝暦の飢饉)

ほかに遠野通一一五一人)、仙台藩では全体で二万人程度の餓死者(『宮城県史』二二)を出したという。
通史編2(近世1) (対蝦夷地政策と青森商人の商業活動)

万延元年(一八六〇)、青森の商人は、滝屋が仙台藩、藤林家が会津藩、金沢屋が庄内藩の御用達に任命された。,滝屋は仙台藩の御用達として、船の調達や、渡海する藩士・物資の輸送、青森における藩士の旅館としての役割を,江戸で津軽家の都合どおりに渡す代わりに、青森と箱館で蝦夷地勤番に必要な津軽米を受け取りたいという提案が仙台藩
通史編3(近世2) (藩論の紛糾)

、奥羽諸藩が同盟を結んだのは、会津・庄内の恭順謝罪を嘆願し、和平的な解決を望むためであったのに、特に仙台藩主戦派,さらに、十八日にはこの間の事情を説明する書翰が杉山上総ら三人の連名で盛岡藩および仙台藩重役へ送られた(,さらに、この五月下旬には仙台藩を脱した九条道孝総督も盛岡から津軽領を抜けるべく、弘前藩へ転陣を打診してきたが
通史編3(近世2) (討庄応援兵の派遣)

そして、仙台藩が、総督府に従う方向をみせていた藩執政の三好監物と坂本大炊を藩中枢から退けるという動きを,岩沼へ到着して、翌二十九日、予定どおりに九条総督へ機嫌を伺い、閏四月一日には、さらに白石へ進み、ここで仙台藩主伊達慶邦
通史編3(近世2) (政府軍の苦戦)

その後も仙台藩などを中心とする同盟軍に対して総督軍の苦戦は続き、応援の米沢兵が同盟軍に合流したこともあって
通史編3(近世2) (藩論の統一)

さらに西舘平馬は、京都で会津・米沢・庄内・仙台藩等、同盟の中心藩が京都役宅を没収されたうえ、入京を禁止,挟み撃ちにする手はずを整えていたのだが、今回立場を明らかにしたので、それらを庄内藩に送り返し、また、仙台藩
通史編3(近世2) (近隣諸藩の動向)

まず、秋田藩については、先述したように、弘前藩とは連絡が密であったが、京都から仙台藩等が朝敵の対象となった,仙台藩からは同盟遵守の圧力をかけられ、秋田藩・弘前藩が同盟離反を表明する中で、二月より京都に派遣されていた
通史編2(近世1) (「分領」と津軽弘前藩)

に対して、幕府は蝦夷地の開発と守衛が時節柄重要になってきたとの認識を示したうえで、蝦夷地を分割して、仙台藩,、盛岡藩主南部利剛(としひさ)の名代盛岡新田藩主南部信誉(のぶのり)にも津軽家と同内容の達しがあり、仙台藩主伊達慶邦,この早川の回答から、仙台・秋田・庄内・会津の各藩には、従来仙台藩と秋田藩が警備していた地域を領地として
通史編2(近世1) (津軽領の知行制)

その中で、北奥諸藩の中には形式的でなく、仙台藩・盛岡藩のように実質的にも幕末まで存続させていた藩もあった
通史編3(近世2) (庄内戦争の結末)

既に九月十五日には仙台藩も降伏をしており、庄内藩としても孤立した中での戦争続行は不可能であった。
通史編2(近世1) (幕末期の蝦夷地交易)

さらに、仙台藩や会津藩では津軽弘前藩に申し入れ、蝦夷地警備の入用米をわざわざ国元から送ったのでは輸送費
通史編3(近世2) (野辺地戦争の開始)

図62.藩境塚  この時、米沢藩と仙台藩はそれぞれ降伏しており、さらに、まさにこの日は会津藩鶴ヶ
通史編4(近・現代1) (道路改修問題と佐和知事)

佐和知事は同じ東北の仙台藩士、維新政府のもと司法、警察、内務の諸官に就き、欧州に派遣されて警察制度を調査
通史編3(近世2) (庄内征討応援命令)

まず、庄内征討を命じられたことについて、既に一月十七日に仙台藩の会津征討に対する応援命令を出されており
通史編2(近世1) (東西蝦夷地直轄下の勤番体制)

翌五年には秋田・鶴岡両藩に代わって仙台藩と会津藩が出兵し、四藩の総動員数は四〇〇〇人に及んだという。
通史編2(近世1) (開国と箱館警備)

表64 堀利煕の蝦夷地警衛構想(安政元年) 警衛担当大名 佐竹義睦(秋田藩) 伊達慶邦(仙台藩) 上杉斉憲,表65 蝦夷地警衛持ち場割り当て(安政2年) 警衛担当区域 元陣屋 出張陣屋 仙台藩 東蝦夷地シラヲイ
通史編3(近世2) (戦線の北上)

まず、閏四月末から仙台藩の保護下にあり、事実上は軟禁状態下にあった九条道孝(くじょうみちたか)と醍醐忠敬
通史編2(近世1) (飢饉のその後)

が表高二万石のうち一万九二二三石の損毛、盛岡藩が表高新田高合わせて二四万八〇〇〇石のうち一九万石余、仙台藩
通史編3(近世2) ((三)主要人物)

同九年諸国を遊歴して諸家と交わり、文政二年(一八一九)仙台藩白石(しろいし)の俳人、松窓乙二(しょうそうおつじ
通史編3(近世2) (弘前藩の画事と絵師)

をみたとき、二代信枚の「松鶴図」(図183)にいくぶんの雅趣がうかがえる程度で、同じように狩野派に学んだ仙台藩
通史編3(近世2) (戦局の展開と兵員の不足化)

奥羽列藩同盟形成を強く主張していた仙台藩や米沢藩、朝敵とされた会津藩や鶴岡藩等は周辺の勤皇諸藩に進攻を
通史編2(近世1) (安政期の蝦夷地警備と交通問題)

やがて安政五年(一八五八)五月には日米修好通商条約の内容が仙台藩留守居を通して報知され、国元へも回覧された
通史編2(近世1) (幕府の蝦夷地政策)

田沼の政策に影響を与えたのが仙台藩の医師、工藤平助(くどうへいすけ)であった。
通史編2(近世1) (寛文蝦夷蜂起と津軽弘前藩)

また、松前藩からの要請に応じて、津軽弘前藩、秋田藩、盛岡藩、仙台藩が兵器・兵糧の貸与という具体的な形での
通史編2(近世1) (津軽家宛ての領知宛行状と領知高の変動)

領知宛行状が一斉に発給されるのは、寛永十一年(一六三四)の徳川家光上洛を機に実施されたときで、実際にこの時仙台藩主伊達政宗
資料編3(近世編2) (【解説】)

と、反対に戊辰戦争は薩摩・長州藩の私怨から出たもので、朝敵とされた会津・米沢藩らの寛典処分を主張する仙台藩
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