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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編2(近世1) (地方支配機構の確立)

地方支配機構の確立 前期の津軽弘前藩の地方支配の体制は、代官がその要となっていた(以下は、浪川前掲「,遣には、代官所が置かれ、一遣に二人ずつ任命された代官のうち、一人がその任地、一人が弘前で職務に当たっていた,また、代官が前期農政の上(うえ)で特色づけられるのは、その在地性である。,代官の任期は長く、固定的な役職であったと思われる。,蔵米制下の代官は、代官支配地を替えられることによって在地性を失い、地方役人としての性格が強くなった。
通史編2(近世1) (請作)

そして、蔵入一年作請作地の年貢は、代官により、地所に応じて決定するとした(「御定書」四五)。,また、代官のみならず、一年作奉行が設置され、奉行には番方上士(本参、または手廻組)が多く選ばれている。,これらは、一年作地の年貢決定権が代官に属するということもあってか(同前四五)、一年請作奉行が請作地で、,「国日記」貞享三年(一六八六)二月二十八日条の外浜上磯(そとがはまかみいそ)代官の申し立ては、 ①代官,つまり、請作地の決定は、代官が、耕作希望者に斗代を競わせて、高い者に落札するという、「渡方入札」という
通史編2(近世1) (大庄屋制の成立)

郷士という新たな中間的身分の設定は、彼らを代官―村役人の中間に位置させることによって、農政単位の広域化,宝暦五年(一七五五)三月二十一日、代官を削減して、在方の「重立(おもだち)之者」二四人が大庄屋に任命された,大庄屋は俵子(ひょうす)五〇俵で帯刀御免、年始登城を許され、おおよそこれまでの代官の勤めを果たすこととなった,従来の郡奉行―代官―庄屋―五人組体制から、郷士身分の大庄屋の設定によって、郡奉行―代官―大庄屋―手代―,にわかに武士となった大庄屋たちは、金銀にまかせて大小の刀を差すなど、その威勢はもとの代官の一〇倍もあったという
通史編1(古代・中世) (得宗被官の入部)

もっとも彼らの本拠は鎌倉付近にあって、北条氏にも近侍しなければならないから、現地でさらに所務代官を登用,いずれにしろ、多くは庶子かその一族の者、ないしは家臣が代官として下向してくることが多かった。
通史編5(近・現代2) (スーパーマーケットの登場)

S37.11~40.10まで) イマイフード・ストア 土手町21 36.8.1 食品 グリンマート 代官町,食品(41.11.15まで中央百貨街) (株)今勝土手町店 土手町45 37.11.1 衣料   〃 代官町店,代官町3 41.11.19   〃  中三弘前店 土手町61 37.11.16   〃  中央百貨店
通史編5(近・現代2) (市街地の交通緩和対策)

昭和三十八年十月十四日弘前市が行なった交通量の調査結果によると、代官町調査地点に於ける自動車類の交通量,この路線は、弘前市においても、和徳町、代官町、土手町、松森町を経て石川を通り秋田に至っているが、代官町
通史編2(近世1) (堀越城への移転)

太閤蔵入地は、岩木川・平川・浅瀬石川の三つの河川を分岐点とする津軽平野中心部一帯に設定され、為信はその代官,この太閤蔵入地の代官という地位は、太閤蔵入地が重点的に設定された大浦城を中心とする地域の支配強化を実現,また、岩木川東岸地帯で平川沿いの太閤蔵入地の代官の地位は、為信が同地へ統治を及ぼすことを比較的容易にし,また為信は太閤蔵入地の代官となることによって秀吉政権の庇護を受けることになり、領内の小土豪層や小館主層
通史編1(古代・中世) (奥羽地方の地頭制)

彼らは現地へ自ら下向することはなく、庶子かその一族、あるいは家臣を、郷・村ごとに代官として派遣したり、,現地の住人を代官・沙汰人として登用したりした。
通史編5(近・現代2) (道路の整備)

昭和六年十二月二十一日可決  県費負担道改築ニ付意見 一、弘前市大字代官町地内弘前停車場線分岐点ヨリ,土手町地内弘前市元標ニ至ル間 一、国道第五号路線延長百九十間 幅員五間 同市大字代官町和徳町地内弘前停車場分岐点
通史編1(古代・中世) (蝦夷管領)

安藤氏は、鎌倉幕府の北方支配の現地代官に登用されるに際して、古代の「以夷制夷」政策とも共通するような、,『保暦間記』(写真129)に「彼等カ先祖安藤五郎ト云ハ、東夷ノ堅メニ、義時カ代官トシテ、津軽ニ置タリケルカ,末也」とある「代官」(史料五五二)、『鎌倉年代記』の「代官職」(史料六一九)、『安藤系図』の「津軽守護人
通史編1(古代・中世) (津軽安藤氏)

北条得宗領の最重要拠点の一つであった津軽地方の地頭代官は、これまで見てきたような有力御家人の一族と目される,人々が大半であったが、そうしたなかで津軽安藤氏は、例外的に津軽生え抜きの武士から地頭代官に抜擢された一族
通史編4(近・現代1) (小学校のスキー備え付け)

同校学校日誌に「此ノ日代官町大石無人ヨリ中野式スキー一組(価格六円)ヲ寄附サレタリ」と記載されている。
通史編2(近世1) (その他の諸政策)

 さて、以上のような農村の全体的な把握の中で、藩士土着策に対応すべく、大庄屋(おおじょうや)制や代官制度,代官制度の手直しは、天明七年から寛政元年にかけて行われた大庄屋制の失敗を受け、土着策の遂行を円滑にするために,行われたものであるが、その内容は、寛政六年にこれまで各組に置いた代官を、大組は二~三組、小組は四~六組,を単位として置いた(『平山日記』寛政六年条)ことと、寛政九年十一月に代官の人材をこれまでの「御目見得以下軽,この時期の代官の機能は、在宅藩士の不正に対する「村役懸合(かけあい)」の処理(「地方割御川留」寛政八年二月四日条
通史編4(近・現代1) (その他の会社)

明治32年12月 北瓦ケ町 竹内機業株式会社 100,000 30,000 織物製造 大正9年3月 代官町,同 8年3月 百石町 弘盛株式会社 50,000 23,750 木通蔓細工販売 明治28年11月 代官町
通史編3(近世2) (焼成について)

瓦用粘土は代官町(だいかんちょう)(現市内代官町)東方の土取場や和徳(わとく)村(現市内和徳)の田から
通史編2(近世1) (漆の集荷・販売体制)

城下近在の者は直接弘前の「漆実買入所」に納入し、遠在のものはいったん最寄りの代官所に納め、俵数を確認したのち,漆守のもとで各村庄屋が一村単位で買い集め、代銭は代官を通じ漆守に渡され、さらに庄屋が通帳によって受け取
通史編2(近世1) (土着策実施への布石(Ⅱ期))

その結果、代官を農村支配の前線に置き、しかも代官職にこれまで以上に強力な権力を持たせ、上級藩士を任命することにした
通史編4(近・現代1) (道路改修問題と佐和知事)

弘前市土手町 弘前市山道町、清水村富田 中津軽郡役所 停車場道 弘前停車場 弘前市元寺町 山下町、坂本町、代官町,、和徳村 弘前停車場 黒石道 弘前市土手町 代官町、和徳村、豊田村、猿賀村 尾上村尾上 国幣社道 弘前市元寺町
通史編2(近世1) (九戸一揆の意義)

また、一揆鎮圧直後の九月十七日、信直は糠部郡五戸の代官であった木村秀勝(ひでかつ)に、代官所廻りの町に
通史編4(近・現代1) (日清戦争後の会社、銀行と工業生産)

6 同 弘前金融合資会社 同    百石町 貸金業 10,000 6 同 弘盛合資会社 同    代官町,弘前農具株式会社 同    土手町 銅鉄物雑貨販売 60,000 24 同 津軽物産株式会社 同    代官町
通史編5(近・現代2) (弘前相互銀行と青南信用組合の合併)

そして、三十五年九月一日、弘前市代官町に本店を新築するが、四階建ての建物は、当時の弘前では「角は」宮川
通史編4(近・現代1) (学区の改変)

元大工町、塩分町、元長町、森町、覚仙町、鍛冶町、新鍛冶町、南北川端町などとなり、和徳小学学区は、和徳町、代官町
通史編2(近世1) (元禄の大飢饉と家臣召し放ち)

馬廻組士の二〇人が組士からはずれて代官となり、郡奉行の支配に入ったことも支配機構上見逃せない(「国日記,馬廻組士が代官を務めるということは従来もあったが、それは一時的に務めるという場合で、馬廻組士があくまでも,藩ではこの事態に配慮して、藩主信政から家老の津軽広庸(ひろつね)に対して、今回代官になった者の子供の番入,り(手廻・馬廻組士になること)はそのままに差し置く一方、また今後代官の子供の番入りは従来どおりにはいかないので
通史編2(近世1) (太閤蔵入地の設定)

また太閤蔵入地の石高は、出羽国を例にすると、蔵入地の代官を命じた大名の領知高の半分であるといわれる。,そして、津軽地方に太閤蔵入地が設定された時期は、秋田実季が秋田郡内の太閤蔵入地の代官に任命されたのと同,そして、その支配形態も、秋田氏と同じように、太閤蔵入地・津軽氏知行地の双方が各村に含まれ、代官として津軽氏,そして、津軽氏が蔵入地の代官となったということは、豊臣政権の一翼を担う大名としての位置を確認することであり
通史編2(近世1) (民兵の登場)

後潟組)・浦町両組(浦町・横内組)・金木両組(金木組・金木新田)・広須両組(広須・木造新田)・赤石組の各代官,彼らの出自は村役人・代官所の下役人・百姓・漁師・猟師等さまざまであり、それぞれのものが普段から仕事の道具
通史編1(古代・中世) (秋田家系図)

、「従二貞秀一以来、以二安東太郎一、為二当家仮名一」とし、その子堯秀(安東五郎)について「為二平義時代官一
通史編5(近・現代2) (弘電の反攻)

会社は、一月十九日から断線を土手町・和徳町・代官町の一七〇戸に行ったが、暗黒になるはずの町並みに相変わらぬ
通史編2(近世1) (綱紀粛正・倹約奨励)

さらに同年十一月八日には検見(けみ)役人への賄賂について(同前No.八九九)、翌四年閏二月五日には代官,代官と台所役人については、その勤め方がはなはだ緩んでおり、ただその日のことのみにかかわり、その職務の全体
通史編2(近世1) ([口絵])

口絵2 大浦光信倚像 口絵3 伝津軽為信下賜卍船印 口絵4 上野国勢多郡津軽領代官足立氏
通史編2(近世1) (大名の改易と幕領検地)

就任当初から幕府の財政再建にも熱心であり、財政機構改革や新田開発や改易大名領を加えた幕領の増加、不正代官,これは、在地と密接な関係を有する代官の不正を防止する目的があったとされるが、確かなことはわからない。
通史編3(近世2) (楮町取り立て)

それには、代官町後ろから猫右衛門(ねこえもん)町(現市内松森町)の後ろ、小比内(さんぴない)街道から高崎近所
通史編4(近・現代1) (女学生の風俗)

この袴地は、当時、代官町の「角は」と土手町の「角み」両呉服店が一手に引き受け、その注文に大多忙であったと
通史編4(近・現代1) (戸長の配置)

佐藤勝之丞  富田町                              村谷勘左衛門  代官町
通史編3(近世2) (農兵の組織)

まず、農兵隊を統括するのは郡奉行とされ、実際の小隊長には農民の事情に詳しい代官が起用された。,から交番で出すこと 小計 42 5 足軽目付 1 郷夫1名貸し付けられる 6 弾薬取扱宰料兼 1 代官小使,付の賞典禄下賜(かし)状が伝わっているが、これは同家を興した前田万助宛(あて)に、柏木(かしわぎ)組代官田中元一
通史編4(近・現代1) (特別大演習と天皇の弘前行幸)

、南郡の各小学校児童は御順路沿道で奉迎したが、和徳小学校は「午後五時二十分天皇御着三年以上ノ男女一同代官町角
通史編2(近世1) ((四)改革の諸政策と藩士土着政策)

代官機構の再編や縁組み規定の解消、知行の蔵入化および切米取・金給家臣の知行に召し直された分の切米・金給
通史編2(近世1) (毛内宜応の「秘書 全」)

領内の五穀をもって融通すること、(4)定免制(じょうめんせい)とすること、(5)諸役職、特に四奉行・代官,そこで重要とされる役職であるが、土着の側面から、勘定・郡・町奉行、代官が挙げられ、町人への役金の負荷の,特に代官は郡奉行支配から離し、格上げをして郡奉行と同程度の扱いとして人数も減らし、その下に従来の代官レベル,これは、土着藩士が在方においては代官の統制に入ることを意図しており、土着による藩政機構改変の必要性を説
通史編2(近世1) (その後の漆栽培奨励策)

でさえどれだけ現実に実施されたか不明であり、九〇〇万本増殖計画がどの程度現実性があったか疑わしいが、少なくとも代官所
通史編3(近世2) (新楮町の取り立て)

翌五年三月、去年秋から漉き出した二〇締め(四万枚)ばかりの半紙の中から一万枚を、各組代官、楮仕立て方世話役
通史編2(近世1) (福島正則の改易)

文禄元年(一五九二)の文禄の役には朝鮮に渡海して、竹島で代官を務め、兵粮輸送などにも携わっている。
通史編2(近世1) (浅利頼平の比内帰還)

において合計五万二四三九石二斗七升三合を宛行(あてが)われるとともに、二万六二四四石八斗三升の太閤蔵入地の代官,浅利領にも太閤蔵入地を設定し、七〇〇〇石の内、五〇〇〇石を浅利氏の知行、二〇〇〇石を太閤蔵入地としてその代官
通史編4(近・現代1) (請願建白文の審議)

なお、中市稲太郎は五戸代官所の五〇石の御給人(地侍)であるが、福沢諭吉の書に親しみ、息子を慶応義塾に学
通史編4(近・現代1) (洋風建築と蔵造り)

呉服店が蓬莱橋から下土手町に移転して堂々たる三階建ての洋館を建て、あたりの商店を圧したが、三十四年には代官町
通史編5(近・現代2) (富田大火と第一・第二大成小学校の焼失)

これを「富田の大火」と呼び、焼失区域は富田大通りの一部、偕行社通りの一部、住吉町、品川町、松森町一部、代官町
通史編1(古代・中世) (南北朝の動乱と曽我氏)

七月には再度、鹿角に若党鱸鎌治(すずきかまはる)を代官として派遣している(史料六七七・六七八・六九九)
通史編2(近世1) (津軽領内のアイヌ民族)

このことからわかるように、アイヌの米購買の構造は、彼らの飯米要求を代官(居住地の関係から後潟組代官)が
通史編2(近世1) (海防報告書にみる天保期の海防体制)

表53 黒石藩平内領海防人数とその配置(天保14年3月調べ) 代官 目付役 諸士 浦役人 小頭 小役人,番人 下番 足軽 土屋村浦番所 2 4 田沢村遠見番所 2 5 小湊村代官所,月調べ) 弓(張) 長柄(筋) 鉄炮(挺) 土屋村浦番所 5 5 田沢村遠見番所 3 小湊村代官所
通史編2(近世1) (消極的な藩の救済策)

天保七年の凶作では、御救米を一人当たり籾で三合を支給したが、「窮民への対応は藩では行われず、組ごとに代官
通史編2(近世1) (続発する強訴の動き)

大勢徒党を組み、大光寺組の本町村(もとまちむら)(現南津軽郡平賀町)に集合し、柏木町村(現同郡同町)の代官所
通史編1(古代・中世) (嘉元鐘銘文に登場する鎌倉武士)

この山川氏一族の本拠は関東または南奥であるから、津軽方面にはさらに代官を派遣していたのであろうが、そうした,代官たちのなかには土着していったものもあろう。  
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