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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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通史編2(近世1)
(賃銭・物価の統制)
もちろん無家業・日雇家業・
借
宅などの小者については、この二、三ヵ月のうちに手寄(てより)のある在方に引,在方では、
仮
子
給銭の高騰で百姓潰れの状況が起こっていたのであり、家中においては仲間・小者(こもの)・召使,藩はこの
仮
子
や家中奉公人についても給銭を下方修正して定めている(同前No.四七~四九)。,なお、
仮
子
については前述したようにその統制を
仮
子
頭から手代・庄屋に切り替え、相対で
仮
子
を抱えたり、出奔
通史編5(近・現代2)
(新制中学校の開校式)
にあった旧第三一連隊兵舎(当時は市立高等女学校校舎)の一部を使用することになった第三中学校は、机、椅
子
はもちろんのこと,した桔梗野旧歩兵第31連隊兵舎跡 しかし、第一中学校の場合は、高等科生徒が使用していた机、椅
子
、,第二中学校の場合も市立商業の校舎を
借
りていたので同校講堂で、また、第四中学校は青森師範学校の
仮
用附属になることが,第二中学校 工藤秀俊 一三 1 一六三 七 弘前市蔵主町四 城西小 2 二〇一 弘前商工学校の一部を
借
用,第四中学校 須貝清一 一四 1 二七一 六 弘前市元町一 朝陽小 2 三〇 青森師範学校附属小学校の一部を
借
用
通史編2(近世1)
(宝暦改革の課題)
一七八七)の朱印改め時のそれは一九万六三五三石余となっており、年貢収納高が頭打ちになっていた(浅倉有
子
「,藩は、廻米を担保として、江戸や上方の有力商人からの
借
財によってこれをしのいでいくことになるが、特に寛延二年,(一七四九)の大凶作によって、藩財政は困窮の極みに達し、宝暦四年(一七五四)時点での藩の累積
借
財高は、,特に上方からの
借
財が多く、全体の七割ほどを占めている。,そして、この増大化した下層農・日雇取層が、それぞれ小作・
仮
(
借
)
子
(かりこ)として一部の上層農の再生産
通史編4(近・現代1)
(北部無産社)
北部無産社 野呂衛は、和徳村の地主の
子
で、弘前中学、法政大学を卒業、幸徳秋水や大杉栄の無政府主義を信,堀江は、洋風建築で名高い堀江佐吉の
子
だが、藤田謙一の弘前市公会堂の建築を請け負って
仮
借
(かしゃく)ない,障
子
をあけたら髪の長い人間が三人もいて、動天してしまったわけですよ。,そしてみずからレーニンの弟
子
をもって任じた。,その後、昭和五年、六年と弾圧が続き、六年二月八日からは「弘高弾圧分
子
検挙」が相次ぎ、「弘高二・七事件」
通史編4(近・現代1)
(生い立ち)
しかし、本多庸一の計らいで伝道の
仮
免状をもらって北海道八雲に派遣された。,かつ
子
は弘前女学校で教え、さらに横浜の女
子
神学校で学び、弘前教会で働いていた。,択捉の生活は厳しく、重治は生まれて間もない長男を失い、妻かつ
子
も重態となったため秋田県大館へ転勤した。,資金は妻の援助と
借
金だった。,ドゥワイト・ムーディ(一八三七-九九)はボストンの靴店の売り
子
だったが、十八歳で回心、シカゴで伝道生活
通史編5(近・現代2)
(善蔵と洋次郎)
月前、私は、学校卒業以来の浪人生活からようやく浮びあかって現在のミッション女学校に奉職し、それまで親
子
三人,で籠城していた実家の物置小屋を引き払って町端れの閑静な
借
家に
仮
寓した。
通史編3(近世2)
(出開帳)
(現大杵根神社、弘前市)の入口に
仮
小屋を建てての開帳が認められた。,付き添いの一行は開帳の前後の期間を、江戸藩邸上屋敷の長屋を
借
用していた。,六月に入ると藩へ、紫紋幕二、晒紋幕三、金屏風一、天水桶三、番手桶三〇の
借
用を願い出た。,支払いを残したままでは回向院を引き払うことができず、百沢寺は藩邸へ三〇〇両の
借
財を申し入れたが、一度は,②開帳中は菓
子
を供えるだけで、他の供物は不必要である。
通史編3(近世2)
(松前徳広の領内落去)
も届かない状況下では、自力で津軽領へ脱出するよりほかなく、松前藩主一行七一人は、熊石村関内で長栄丸を
借
用,その様
子
を青森で聞いた杉山上総や西舘平馬(にしだてへいま)は、急ぎ弘前へ迎える準備を整えるように城下へ,青森沿岸に防御のため砲台を築くとともに、十二月九日、朝廷よりミニエー銃一〇〇〇挺を
借
用し(同前No.五六二,また、総裁以下の役職を設定し、
仮
の政権を成立させたのであった。,そして、そんな
仮
政権が、旧幕府勢力の一掃を目指す明治政府に認められるはずもなかったであろう。
通史編3(近世2)
(大政奉還時の状況)
慶応元年七月に西舘は近衛忠熈(ただひろ)に召し出され、同家から五ヵ年にわたり五〇〇両の助成金の拝
借
を許,雑事日記」に西舘の名前がみえるのは慶応二年(一八六六)十二月であるが、この時には承昭と近衛忠熈の六女尹
子
(,慶応三年十二月八日、西舘と京都出役中の家老杉山八兵衛は禁裏御
仮
立所に招集され、赤石はそれに随行した。,になり、御所を退出した赤石は藩邸に帰る途中で近衛家警備に出張していた実弟土岐万之助に出会い、京都市内の様
子
を
通史編2(近世1)
(赤石安右衛門・菊池寛司の「覚」)
隠田畑等も手伝って、百姓は着々と生産を回復していたのであり、また人口不足から諸職人や日雇取(ひようどり)、
仮
子
,(2)は、江戸や大坂の商人からの
借
財によって当座をしのいでいるという点である。,そこで、両都銀主に対して、
借
金のうち多少なりとも一〇年間の返済の「休年」を申し渡し、余裕が生じたら徐々,この
借
金休年案はそれ自体として完結性を持つものであり、土着策展開のための布石としてとらえられるものである,さらに、村に「手引・近付」もなくそれができない場合は、土着藩士の家来や在方の「
仮
子
・若勢(わかぜ)」となって
通史編4(近・現代1)
(鉄道事業の伸展)
規模が小さく小範囲であることから免許を受ける資格として株式会社である必要はなく、また、普通鉄道のように
仮
免許及,ただし、岩木鉄道の計画は政府から営業の免許が下りたが、
仮
創立事務所が東京市に置かれたため、大正十二年の,大正十五年十二月一日付発行の『陸奥の友(更正第四号)』の「郷土便り」では当時の様
子
を次のように記している,◇弘南鉄道計画 弘南鉄道株式会社建設事務所は七月一日から弘前駅前大室旅館支店の東向き一室を
借
受芳賀事務主任以下四五名
通史編2(近世1)
(災害の続発とその影響)
小屋を建てて救米の支給などを行ったが、一人一日一合、一ヵ月一〇日分、一〇歳以上の支給に限定したため、
子
供,岩木川・平川出水,橋の流失,堤防決壊,溜池決壊 2月29日 風害 碇ヶ関,西海岸,青森
仮
屋,寛延三年(一七五〇)、藩は、家中の知行・俸禄の五割
借
上を命じた。藩財政の破綻による非常手段である。,その一方、藩は家中が知行地から
借
米すること(年貢を先納させること)を認め、代官に対して徴収を命じた。,を皆済した村として「奇特」とほめられたが、この
借
米徴収が、飢饉で疲弊している領民にとって非常に重い負担
通史編2(近世1)
(土着策と弘前城下)
俵
子
四〇俵・金六両以上で現在住居の者はそのまま。 ,べたように、寛政九年から弘前藩は箱館警備を命じられており、また同十一年十一月からは、同年一月の東蝦夷地の
仮
上知,ここにみえる「公儀御用」とは東蝦夷地
仮
上知の動向とかかわるものであり、幕府から蝦夷地警備にかかわる長屋切組,寛政十一年末、在宅引き揚げの者は、たいていが
仮
小屋に住居したり、親類に同居したり、さらには町々の
借
家に
通史編2(近世1)
(毛内宜応の「秘書 全」)
そしてそこに田屋所(たやしょ)を置き、家来・妻
子
を召し連れて手作りせよ、と。,(1)は、耕作力の補充源(労働力)として、藩士およびその家来・妻
子
をとらえることで、廃田開発を行いうる,農村疲弊は、単に、生活に困窮した農民が商人から金銀を
借
り入れたものの、返済できずに抵当に入れた田畑を取,(2)の点は、後に戸籍調査や営業規定等によって三民の計画的配分の方向に向かい、非人や乞食も不足がちな
仮
子
,八方塞がりの逼迫した
借
金財政の中で再び
借
金を重ねている状態を脱するには、藩士自らが生産手段を持ちうる土着形態
通史編2(近世1)
(知行宛行状の発給)
現存する同藩の黒印状としては最も古いものであり、四代藩主信政が延宝三年(一六七五)三月五日に円明寺から
借
り,勘助は当時の家老服部康成(やすなり)の息
子
であり、大身の家臣へ発給された知行宛行状としては、現在最古のものといえる,下中川河原を中川村と
仮
定した場合、正保二年(一六四五)の「津軽知行高之帳」では同村は平賀郡の新田として,村名が、国吉・中畑・大沢・八幡館・石川・中野・境関・堀越・独狐(とっこ)・高杉・宮館・鬼沢・町田・青女
子
(,外崎は慶安五年(一六五二)二月五日に青女
子
村で高二〇石の加増も受けている(同前No.七三七)。
資料編2(近世編1)
(編年史料 (天正十七年~明暦二年))
●慶長六年(一六〇一)五月十八日、津軽信枚、参議西洞院時慶より道具を
借
用し、返却する。,●慶長七年(一六〇二)二月二十三日、津軽信建、参議西洞院時慶より啓迪集を
借
覧する。,●慶長七年(一六〇二)四月二日、津軽信建、参議西洞院時慶へ啓迪集を返却し、再度次巻を
借
覧する。,●寛永九年(一六三二)、この年、青森に御
仮
屋を建造する。,ついで、嫡
子
平蔵も初めて江戸へ登る。
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