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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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通史編2(近世1)
(豊臣再仕置軍の奥州下向)
豊臣秀次が七月上旬に出馬することと、六月十四日に蒲生氏郷(がもううじさと)が会津から二本松に兵を進め、
伊達政宗
,そして、いまだ独立的気運を持っていた八戸氏と東氏に九戸一揆鎮圧に精力を傾けるよう督励する一方で、
伊達政宗
,この朱印状とほぼ同文の六月二十日付の秀吉朱印状は、確認できる限りで為信のほか、
伊達政宗
・秋田実季(さねすえ,この間、大崎・葛西一揆を六月までに自らの兵で鎮圧することに成功した
伊達政宗
も、天正十八年以来、和賀・稗貫,図12.
伊達政宗
画像
通史編2(近世1)
(関ヶ原の戦いと奥羽の情勢)
した豊臣政権の五大老の一人である会津の上杉景勝と、それに対する東軍の出羽山形の最上義光、陸奥岩出山の
伊達政宗
,そして
伊達政宗
・佐竹義宣・最上義光・南部利直ら東北・関東の大名が国元に戻った後(「政宗君治家記録引証記,七月下旬には
伊達政宗
が自領に接する上杉領である刈田郡白石城を落とした。,義光は甥に当たる
伊達政宗
に援軍を求め、これに応じた政宗は叔父の留守(るす)政景を名代として派遣した。,47,000 〃 盛岡 南部利直 100,000 〃 仙台
伊達政宗
通史編2(近世1)
(城破(わ)り)
九月二十日には、大谷吉継(おおたによしつぐ)が
伊達政宗
に城破却と武具狩を督促している。,一方、陸奥国では、葛西・大崎の一揆は、蒲生氏郷(がもううじさと)・
伊達政宗
の出陣により沈静化するものの,この第七条には、葛西・大崎旧領はことごとく平定し、城については
伊達政宗
に従い、多くはならないように普請
通史編2(近世1)
(奥羽大名の名護屋参陣)
図13.肥前名護屋城跡全景 図14.肥前名護屋城復元模型 この朝鮮出兵に際し
伊達政宗
,文禄元年二月二十五日に名護屋への参陣の途中に京へ到着し(『多聞院日記』天正二十年二月二十五日条)、三月十七日には、
伊達政宗
,総勢一六万七五二〇人・六軍編成であり、「もくそ城とりまき候衆」の中に、すでに釜山に渡っていた
伊達政宗
を
通史編2(近世1)
(人質徴収)
人質徴収 天正十八年(一五九〇)七月二十六日付で
伊達政宗
に宛てられた木下吉隆からの書状では、秀吉が宇都宮
通史編2(近世1)
(津軽信枚の越後転封)
しかし、二十五日になると事態は一変し、幕府は処罰方針を打ち出し、上杉景勝・
伊達政宗
・義宣の家臣一人ずつが,福島正則の赦免情報を知る 25 福島正則の処罰方針を知る 福島正則の処罰方針決定 26 (
伊達政宗
,5. 8 (上洛ヵ) (上洛ヵ) 秀忠上洛へ 11 上洛供奉の条々出る 16 (
伊達政宗
入京
通史編2(近世1)
(九戸一揆の背景)
はこのような状況に対し、天正十八年七月から行われた奥羽仕置の際に、和賀・稗貫・南部領の仕置については
伊達政宗
通史編2(近世1)
(伏見滞在と派閥抗争)
秀吉政権はすでに妻子の上洛を強制し、天正十八年八月には、奥羽の有力大名である
伊達政宗
、最上義光、南部信直,当時の政権内では、前田利家・徳川家康・
伊達政宗
・浅野長吉らの分権派と、政権の強化を図る集権派に分裂し激
通史編2(近世1)
(関東・奥惣無事令)
また、天正十六年(一五八八)十月二十六日、家康は
伊達政宗
に書状を遣わして、最上義光(もがみよしあき)との
通史編2(近世1)
(知行安堵と検地)
この時に知行給与を受けた大名は、
伊達政宗
(だてまさむね)・最上義光(もがみよしあき)のほかに、佐竹義重
通史編2(近世1)
(鷹献上による豊臣政権との折衝)
伊達政宗
によれば、徳永寿昌は豊臣秀次に仕える「出頭第一」の人であり、関白秀吉へも直接ものごとを言上できる
通史編2(近世1)
(北奥羽の領知確定)
旧大崎・葛西領の大名であった木村吉清・清久は改易され、同地には
伊達政宗
が国替えされた。
通史編2(近世1)
(江戸時代初期の大名課役)
諸大名は江戸に参集した後、
伊達政宗
・上杉景勝らは独自編成、相馬利胤(そうまとしたね)・南部利直・秋田実季
通史編2(近世1)
(津軽家宛ての領知宛行状と領知高の変動)
一斉に発給されるのは、寛永十一年(一六三四)の徳川家光上洛を機に実施されたときで、実際にこの時仙台藩主
伊達政宗
資料編2(近世編1)
(編年史料 (天正十七年~明暦二年))
●天正十九年(一五九一)六月二十日、豊臣秀吉、
伊達政宗
へ朱印状を下し、徳川家康等、九戸一揆討伐軍の道筋,●天正十九年(一五九一)七月二十日、
伊達政宗
、九戸政実と南部信直の間を調停せんとする。
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