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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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通史編2(近世1)
(伏見指月城の普請)
伏見
指月城の普請 文禄元年に普請が始まった
伏見
城は、
伏見
指月(しづき)の地に造営されたため
伏見
指月城,これが木幡山の山上を本丸とする新しい
伏見
城、すなわち
伏見
木幡山城である(小和田哲男『城と秀吉』一九九六年,秀吉は、これより半年後の慶長二年(一五九七)五月五日には「
伏見
御城殿守ノ丸」へ入っているが、この
伏見
木幡山城,この要衝を押さえた
伏見
木幡山城が、以後、江戸初期まで政治の中心となっていく。,図27.
伏見
城図 /
伏見
指月城の普請
通史編3(近世2)
(鳥羽・伏見の戦い)
鳥羽・
伏見
の戦い 明治元年(一八六八)一月三日夕刻、下鳥羽赤池(現京都市南区・
伏見
区境)付近で、砲弾,この日、京都南郊で始まった鳥羽・
伏見
の戦いは、やがて上野戦争・北越(ほくえつ)戦争・東北戦争・箱館戦争,図44.鳥羽・
伏見
戦争周辺地図 大坂城にいる徳川慶喜を中心とした旧幕府軍は行動を開始した。,一月二日朝、「討薩表」を携えた幕府大目付滝川具挙(たきがわともたか)が先鋒となって北上した幕府軍は、
伏見
,この日、鳥羽・
伏見
で薩摩・長州軍四〇〇〇人余りと衝突した旧幕府軍は、数では圧倒的な優位を誇っていたが、 / 鳥羽・
伏見
の戦い
通史編2(近世1)
(伏見築城と奥羽大名)
この普請は、
伏見
指月城の築城のことであるが、秀吉は秀頼の誕生早々、
伏見
城の拡張工事を企画していた。,
伏見
城の普請は、関東や奥羽大名に対し、
伏見
城下への参勤と、
伏見
城普請への動員という二つの条件を大名に突,さらに秀吉は、二月一日までに
伏見
に参着するよう諸大名に下命した。,)は人足三〇〇〇人を
伏見
に動員するよう下命された。,、二五万人の普請人足が
伏見
に集まったとされている。 /
伏見
築城と奥羽大名
通史編2(近世1)
(一 伏見杉板の賦課)
一
伏見
杉板の賦課 天正十九年(一五九一)九月の九戸一揆鎮圧から間もない十二月、豊臣秀吉は関白(かんぱく,としての聚楽第(じゅらくだい)を秀次に譲り渡し、自らの隠居のための城普請(ふしん)をその年の八月から
伏見
,これが
伏見
城である。 / 一
伏見
杉板の賦課
通史編2(近世1)
(伏見木幡山城の築城)
伏見
木幡山城の築城 秋田実季が
伏見
作事板の運上を命じられたのは文禄四年(一五九五)のことであったが、,なお、文禄四年には
伏見
指月城の杉板廻漕が秋田氏単独であったものが、翌慶長元年の
伏見
木幡山(こはたやま),しかし、
伏見
木幡山城の築城がすでに始められていた慶長二年からは「
伏見
御作事為御用」「公儀御板」「天下御作事之杉板,この「御材木」は、
伏見
作事板のことであるが、この作事板運上の秀吉朱印状を受領するために南部信直は
伏見
へ,またこの時、南部信直だけではなく、仙北の小名衆や秋田実季も
伏見
作事板運上の朱印状下付を待って
伏見
に詰めていた /
伏見
木幡山城の築城
通史編2(近世1)
(伏見滞在と派閥抗争)
しかし、
伏見
での「日本之つき合」の時点では、すでに朝鮮侵略が西国大名、
伏見
城普請が関東・奥羽の大名というように,の運上であり、この
伏見
作事板の秀吉朱印状を獲得するための
伏見
滞在が新たな「日本之つき合」となっていった,図41.
伏見
作事杉板に関する豊臣秀吉朱印状 しかし津軽氏は、この
伏見
作事板を慶長二~四年分廻漕,為信はこの時期
伏見
作事板の廻漕を拒否し続けており、
伏見
において為信は朱印状受領のための交渉を行っていなかったのであろう,しかし、この最中の慶長三年八月、
伏見
城において太閤秀吉が死去する。 /
伏見
滞在と派閥抗争
通史編2(近世1)
(伏見作事板の運上と太閤蔵入地)
伏見
作事板の運上と太閤蔵入地 豊臣政権にとって秋田氏領内の太閤蔵入地(豊臣政権の直轄地)は、
伏見
指月城,・木幡山城の築城に必要な
伏見
作事板の廻漕費用調達に必要なため設定された(長谷川成一『近世国家と東北大名,慶長元年以降の
伏見
作事板の切り出しと廻漕は、秋田氏を中心としながらも北羽の大名・小名を動員して行われ、,この津軽氏の太閤蔵入地も
伏見
作事板の廻漕費用に充当されていた。,なお、南部氏も秀吉から
伏見
作事板の運上を下命されている。 /
伏見
作事板の運上と太閤蔵入地
通史編2(近世1)
(豊臣政権の奉行衆)
なお、
伏見
作事板は、越前敦賀・三国(みくに)、若狭小浜(おばま)の豪商によって担われ、すべて敦賀湊に一旦陸揚,げされ琵琶湖を経て
伏見
へと廻漕されたが、木村重茲は若狭府中城主であり、杉板が集結する敦賀の城主は、後に,財務に秀でた奉行や家臣らを北国海運の拠点に据え、その海運によってもたらされる太閤蔵入地からの年貢米や
伏見
作事板等,太閤蔵入地の選定には、三成の意向が大きく影響していたのであり、太閤蔵入地からの収入によって廻漕される
伏見
作事板,長束正家らの奉行は、豊臣政権の集権化を推進する核になっており、秀吉は集権化にとって大きな意味を持つ
伏見
作事板運上
通史編2(近世1)
(初代為信の動向)
初代為信の動向 関ヶ原の戦い後、家康の覇権が成立するが、政治の中心地は依然
伏見
や大坂であった。,参勤先が江戸ではなく
伏見
であったと考えればよいわけである。, 9・22
伏見
10・12 11・ 7 大坂,
伏見
12・25
伏見
慶長 9・ 3・ 慶長 9,)、為信の屋敷は、
伏見
城の東端と南西端の二ヵ所、信枚の屋敷は
伏見
城の南、外堀の内側にあった。
通史編3(近世2)
(幕府・朝廷の攻防)
幕府・朝廷の攻防 鳥羽・
伏見
戦争に勝利した新政府は、この戦争を仕掛けたのは旧幕府軍であり、徳川慶喜の,その内容は、
伏見
付近において戦争が起こったということなので、兵を引き連れ早々に出府するようにというものであった,新政府側には戦利がなかったが、徳川慶喜の深い見込みもあって、兵を引き揚げ、東帰したというように鳥羽・
伏見
戦争
通史編2(近世1)
(浅利頼平の怪死)
この二通の覚書は、浅利氏が秋田氏へ納めた軍役や物成、太閤蔵入地からの年貢米や
伏見
作事板の運上の決算報告書,前年の慶長三年八月十八日に秀吉が死去し、秀吉政権が急速に弱体化しつつあるなかで、豊臣政権の政庁である
伏見
城,実季は従来から佐々正孝や長束正家ら集権派の奉行と深く結合していたが、秀吉死後、
伏見
城に移り「天下様」と,図37.浅利氏支援に関する実季の詰問に答えた信建の書状写 頼平死後、
伏見
にいた浅利妻子はなお秀吉側近
通史編3(近世2)
(維新期の弘前藩)
慶応四年、同年九月八日に明治に改元されるが以後、繁雑さを避けるため、明治元年の表記に統一する)一月鳥羽
伏見
,鳥羽・
伏見
の戦いをはじめとする一連の内戦は、翌年の箱館戦争(はこだてせんそう)終結まで続いたが、この内戦
通史編5(近・現代2)
(軍隊と皇室(皇族))
閑院宮載仁や
伏見
宮博泰のように、それぞれ参謀総長・軍令部長(後に軍令部総長)という地位に就任した事例もある,とくに
伏見
宮は軍令部総長を辞めてからも、後任海相の最終人事権を掌握しており、宮の承諾なしに海相が決まることはなかった
通史編2(近世1)
(浅利騒動の停戦命令)
、この停戦命令によって浅利騒動の決着は、当事者間の実力による自力解決から、豊臣政権における政治の拠点
伏見
城,この
伏見
において、浅利騒動は次のような裁定が下された。,文禄三年・文禄四年・慶長元年の三年間、杉板運上にかかわる秀吉朱印状を秋田実季へ取り次いでおり、秋田領からの
伏見
作事板徴収
通史編2(近世1)
(津軽信枚の越後転封)
が秀忠の上洛を発表したのは、この年三月二十五日のことであり、秀忠は五月八日に江戸を立ち、二十七日には
伏見
城,とすれば、正則が江戸にいた幕閣に対して、津軽への国替は遠いのでやめてほしい旨依頼し、その願いが
伏見
に届,将軍秀忠は九月十八日
伏見
を立って帰途につき、京都二条城の経営について指示を出し、その後は東海道を下り、,上洛ヵ) (上洛ヵ) 秀忠上洛へ 11 上洛供奉の条々出る 16 (伊達政宗入京) 27 (
伏見
着,ヵ) (
伏見
着ヵ) 秀忠
伏見
着 6. 2 福島正則津軽転封の老中奉書を江戸へ遣わす 8
通史編2(近世1)
(太閤蔵入地の設定)
また、慶長元年(一五九六)三月、秀吉は仁賀保(にかほ)兵庫ら由利五人衆に、秋田実季より「
伏見
向嶋橋板」,(
伏見
作事板)を受け取り、敦賀へ廻漕することを指示した(『能代市史』資料編中世二)。,七月には秋田実季をはじめとして、津軽氏は由利五人衆らとともに「隣郡之衆(りんぐんのしゅう)」として、
伏見
城築城,保護と秀吉への上納の際の費用として、さらに、北羽地域の大名・小名と同じように「隣郡之衆」の一員として、
伏見
作事板
通史編2(近世1)
(知行安堵)
年大名帳 11 3 5 3 3 F
伏見
普請役之帳,) 5,2440 3,1600 4,4350 表2は、慶長元年(一五九六)から慶長四年までの
伏見
作事板,表2
伏見
作事板の割り当て(慶長元~同4年) 大名(朱印高) 慶長元年分 慶長2年分 慶長3年分 慶長
通史編3(近世2)
(庄内征討応援命令)
鳥羽・
伏見
の戦い後の一月十日に発表された朝敵諸藩の中にも庄内藩の名は挙げられておらず、出兵するには是非
通史編3(近世2)
(大政奉還時の状況)
この後、事態は徳川慶喜の京都離脱、慶応四年(明治元)一月三日の鳥羽
伏見
の戦いと推移していくが、戦局の展開
通史編2(近世1)
(人質徴収)
が可能となり、最終的には、文禄元年(一五九二)の肥前名護屋への出陣、慶長元年(一五九六)からの秋田の
伏見
作事杉板
通史編2(近世1)
(公家との関係)
津軽氏にとって、西洞院親子の役割は、政治の中心地であった上方(京・
伏見
)で、関ヶ原の戦い直後の流動的な,十三日、辛巳、 陰、時々細雨、
伏見
へ越、内府(徳川家康)ニ見参、大蔵道知死去云々、八十六歳云々、
資料編2(近世編1)
(編年史料 (天正十七年~明暦二年))
●慶長二年(一五九七)二月、これより先、秋田実季、津軽為信へ
伏見
作事用杉板を渡す。,●慶長三年(一五九八)十二月、これより先、秋田実季、津軽為信へ
伏見
作事用杉板を渡す。,●慶長三年(一五九八)、この頃、津軽為信、同信枚、山城
伏見
に屋敷を構える。,信建、
伏見
にて徳川家康へ拝謁するという。,為信、
伏見
へ赴くという。
通史編3(近世2)
(幕末の政情と近衛警備)
小御所会議を開催 慶応4年 1868 1月3日 鳥羽・
伏見
の戦い勃発。
通史編2(近世1)
(中世の北国海運)
文禄四年(一五九五)からの
伏見
作事板の運送に、北陸の運送業者が秋田実季(さねすえ)領から敦賀への杉板の
通史編2(近世1)
(北奥羽の領知確定)
することにより、太閤蔵入地の代官職を遂行させるとともに、太閤蔵入地からの収益を利用して朝鮮出兵の軍船や
伏見
城普請用
通史編2(近世1)
(関ヶ原の戦いと奥羽の情勢)
家康が下野国小山で西軍諸大名が
伏見
城攻撃を開始したとの情報を聞き、直ちに西へとって返したのは七月二十五日
資料編2(近世編1)
(【解説】)
ひのもと)仕置から始めて、同政権下における津軽氏の九戸一揆(くのへいっき)出陣、肥前名護屋(なごや)出陣、
伏見
作事板
通史編2(近世1)
(江戸時代初期の大名課役)
鞍皆具役」が課せられており、たとえば、寛延元年(一七四八)の通信使来聘の際には、山城国淀(よど)(現京都市
伏見
区
通史編2(近世1)
(新編弘前市史 通史編2(近世1) 目次)
……………… 70 第四節 豊臣政権への軍役 …………………………………………… 80 一
伏見
杉板
資料編3(近世編2)
(【解説】)
一方、戦局は翌明治元年正月の鳥羽・
伏見
の戦いが勃発して、戊辰戦争が開始する。
通史編3(近世2)
(城下での生活)
八日、櫛引源左衛門・成田七郎右衛門・
伏見
屋六右衛門等来訪。
通史編2(近世1)
(掲載図版・写真の典拠・所蔵一覧)
年8月26日付 東北大学附属図書館蔵秋田家文書能代市史編さん室写真提供 38 大阪城天守閣蔵 39
伏見
桃山御殿太閤摂政関白太政大臣正一位豊臣朝臣秀吉公御城並大小名御屋舗之図
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