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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編2(近世1) (伏見築城と奥羽大名)

この普請は、伏見指月城の築城のことであるが、秀吉は秀頼の誕生早々、伏見城の拡張工事を企画していた。,伏見城の普請は、関東や奥羽大名に対し、伏見城下への参勤と、伏見城普請への動員という二つの条件を大名に突,朝鮮侵略と伏見城普請とは、軍役の全国的な分担関係によって成り立っていたのである(中川和明「豊臣政権の城普請,『当代記』によれば、春から伏見城普請として日本の大名衆が上洛していることを記し、『太閤記』では二月初め,伏見城の普請役に代替する役儀として材木調達を命じられたものであった。
通史編2(近世1) (伏見指月城の普請)

伏見指月城の普請 文禄元年に普請が始まった伏見城は、伏見指月(しづき)の地に造営されたため伏見指月城,秀吉は、政権を秀次から実子秀頼に譲りたいと考えるようになり、秀頼に与えるための城として伏見城を考え始めたのである,伏見城は、これ以後関白秀次の居城である聚楽第の規模をはるかに上回る城として規模が拡大されていった。,これが木幡山の山上を本丸とする新しい伏見城、すなわち伏見木幡山城である(小和田哲男『城と秀吉』一九九六年,図27.伏見城図
通史編2(近世1) (伏見滞在と派閥抗争)

名護屋在陣において、結局奥羽の大名は朝鮮渡海を免除され、文禄二年の末には帰国することになるが、これ以降伏見城,奥羽の大名を含む日本全国の大名らは、これにより伏見城下に屋敷を構え妻子を居住させるとともに、自身も上洛,図39.伏見城および城下町図 図40A.津軽右京亮の屋敷 図40B.津軽越中守の屋敷,南部氏も津軽氏も「日本之つき合」を名護屋から今度は伏見城下に移して行わねばならなくなった。  ,しかし、この最中の慶長三年八月、伏見城において太閤秀吉が死去する。  
通史編2(近世1) (一 伏見杉板の賦課)

これが伏見城である。
通史編2(近世1) (浅利頼平の怪死)

前年の慶長三年八月十八日に秀吉が死去し、秀吉政権が急速に弱体化しつつあるなかで、豊臣政権の政庁である伏見城,実季は従来から佐々正孝や長束正家ら集権派の奉行と深く結合していたが、秀吉死後、伏見城に移り「天下様」と
通史編2(近世1) (伏見木幡山城の築城)

つまり、伏見城は、当初の秀吉隠居城という性格が完全に払拭(ふっしょく)され、木幡山城の段階には、明確に
通史編2(近世1) (浅利騒動の停戦命令)

、この停戦命令によって浅利騒動の決着は、当事者間の実力による自力解決から、豊臣政権における政治の拠点伏見城
通史編2(近世1) (初代為信の動向)

為信と信枚は伏見に屋敷を構えていたことが知られており(資料近世1No.七一、図40)、為信の屋敷は、伏見城,の東端と南西端の二ヵ所、信枚の屋敷は伏見城の南、外堀の内側にあった。  
通史編2(近世1) (太閤蔵入地の設定)

七月には秋田実季をはじめとして、津軽氏は由利五人衆らとともに「隣郡之衆(りんぐんのしゅう)」として、伏見城築城
通史編2(近世1) (北奥羽の領知確定)

することにより、太閤蔵入地の代官職を遂行させるとともに、太閤蔵入地からの収益を利用して朝鮮出兵の軍船や伏見城普請用
通史編2(近世1) (関ヶ原の戦いと奥羽の情勢)

家康が下野国小山で西軍諸大名が伏見城攻撃を開始したとの情報を聞き、直ちに西へとって返したのは七月二十五日
通史編2(近世1) (津軽信枚の越後転封)

が秀忠の上洛を発表したのは、この年三月二十五日のことであり、秀忠は五月八日に江戸を立ち、二十七日には伏見城
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