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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編3(近世2) (白石会議)

白石会議 白石周辺ではこのころ、仙台藩と米沢藩が、会津藩と交渉して、同藩の謝罪降伏によって事態を収めようとさらなる,弘前藩は討庄応援に兵力を投入することで新政府の指揮に従う方向をとりつつあったのであるが、会津征討に動いたはずの,仙台藩は米沢藩とともに、会津藩と交渉して同藩の降伏謝罪による事態の収束を目指していたのである。  ,結果、仙台藩は閏四月四日、総督府に対しても会津藩主の降伏嘆願を伝え、進撃の中止を申し入れた。,この結果、会津藩家老名による「嘆願書」と、仙台・米沢藩主連名の「会津藩寛典処分嘆願書」、そして、白石会議
通史編2(近世1) (「分領」と津軽弘前藩)

、幕府は蝦夷地の開発と守衛が時節柄重要になってきたとの認識を示したうえで、蝦夷地を分割して、仙台藩・会津藩,また、仙台・秋田・庄内・会津の各藩に対しては、同日、北蝦夷地の警衛を重視するよう達しが出されていて、これらの,さらに庄内藩と会津藩は、蝦夷地警衛を命じられたのに伴い、従来両藩が行ってきた江戸湾内海警備が免除された,①仙台・秋田・庄内・会津の各藩は、これまで仙台・秋田両藩が警衛を担当してきた「奥地」を分割して「不毛之地,この早川の回答から、仙台・秋田・庄内・会津の各藩には、従来仙台藩と秋田藩が警備していた地域を領地として
通史編1(古代・中世) (東北地方の古墳文化)

現在、東北地方最古の古墳とされているのは、会津坂下町(あいづばんげまち)の杵(きね)ガ森古墳で全長四六,写真18 会津大塚山古墳全景  四世紀中には、福島県域ではこうしたかなりの規模と構造をもった古墳,会津大塚山古墳からはほかにも多数の刀剣・玉などが出土しているが、これらも西日本的色彩の強いものである。,こうした事実は、すでに四世紀には、会津地方が西日本と同じく大和政権の支配下に入っていたことを意味している,残念ながら東北地方では、この会津大塚山古墳のほかに、その内部構造まで詳細に知られる古墳がまだ知られていないので
通史編3(近世2) ((一)東北諸藩と弘前藩)

この二人は、朝敵諸藩に対して強硬な態度を通し、会津征討を高圧的に強行した。,よって、新政府と会津藩の降伏恭順を押し進める仙台藩等との関係が悪化するのである。,早速、総督府は奥羽諸藩に会津征討を命じたが、仙台藩をはじめどの藩も動く様子はなかった。,前年幕府から江戸市中取り締まりを命じられ、薩摩藩邸を焼き打ちにして朝敵とされた庄内(しょうない)藩は、会津藩,次いで四月ころからは、会津・庄内両藩対政府軍の戦いとなり、徹底的に両藩を攻め落とそうとする政府軍の態度
通史編3(近世2) (戦線の北上)

一方、奥羽鎮撫総督一行の仙台脱出を許した奥羽越列藩同盟は、六月十六日、会津に身を寄せていた上野輪王寺宮公現,会津・庄内両藩の恭順嘆願、和平的解決を目指すどころか、逆に全面的対決への変質を明らかにしつつあったといえよう,五月一日に政府軍が白川を押さえて以後も仙台・会津両藩は奪還を期すべく攻撃を続けていた。,会津藩とともに朝敵として厳重処罰の矢面に立たされた藩に桑名(くわな)藩があった。,その後は、会津方面へと主戦線が移動し、政府はようやく東北平定に全力を傾けることができるようになった。
通史編2(近世1) (知行安堵と検地)

大名権が確立している大名は、惣無事令以前に領国がそのまま安堵され(伊達氏の場合、小田原参陣の際にすでに会津,会津での仕置令の内容は、一つには小田原不参の大名の所領没収と新大名の配置、そして、二つ目には所領没収に,小田原不参により所領を没収された大名は、おそらく、宇都宮での知行割の段階ですでに決まっており、会津での,また、さきに触れたように伊達氏は会津・安積・磐瀬を没収され、秋田・小野寺・戸沢氏などは太閤蔵入地が設定,秀吉が会津で出した仕置令は、「撫切令(なできりれい)」として有名であるが(資料近世1No.二四)、その
通史編3(近世2) (庄内征討応援命令)

会津征討ならわかるが、庄内征討の理由はこの時期、勤皇色の強い秋田藩でさえ理解していなかったのである。,まず、庄内征討を命じられたことについて、既に一月十七日に仙台藩の会津征討に対する応援命令を出されており,次の問いは、会津征討の際には、その罪状が明らかにされたのだが、今回は不明であり、あらためて庄内藩の罪状
通史編3(近世2) (答礼使の出発)

弘前藩が返答をした二十五日には、仙台・米沢両藩代表が会津若松で会津藩救済について相談の場を設けていたが,仙台藩は新政府から会津征討を催促されており、和平策を模索しつつも、違勅を避けるために出兵するという知らせを
通史編2(近世1) (「分領」はなぜ行われたのか)

われたのか 安政六年(一八五九)、幕府は従来蝦夷地の警衛に当たっていた津軽弘前・盛岡・仙台・秋田の各藩に、会津
通史編3(近世2) (庄内征討命令をめぐって)

四月十日には、ともに朝敵として征討の対象となった会津藩と庄内藩の間に会庄同盟が結ばれた。,やがて、二十九日には今市(現栃木県)での戦闘に敗れ、大鳥らは会津へ退却したのであった。,図47.砲弾を受け破壊された会津若松城  討庄応援命令に従う方針を定めた弘前藩は、続々と応援兵を
通史編2(近世1) (関ヶ原の戦いと奥羽の情勢)

奥羽での戦いの中心となったのが、西軍に味方した豊臣政権の五大老の一人である会津の上杉景勝と、それに対する,慶長三年に越後から、陸奥国会津・出羽国置賜(おきたま)地方に転封してきた景勝は、秀吉死後の政治的に不穏,五大老の一人であった家康は、慶長五年六月六日に諸大名を大坂城西丸に集めて、諸大名の会津攻めを命じた。,七月七日、家康は最上義光に書状を発し、その中で会津への出陣日を七月二十一日とし、諸将が同心して義光のもとに,また米沢から会津に侵入する先陣を最上義光が務め、これらの軍勢の兵糧は最上氏から借りることを命じた(資料近世
通史編2(近世1) (津軽氏の鷹保護)

また、詳細に関しては羽柴会津少将が述べるであろう、とある。,羽柴会津少将とは蒲生氏郷(がもううじさと)を指す。
通史編3(近世2) (総督軍の集結)

秋田城下明徳館(めいとくかん)に陣を置いた総督府の中では、会津・庄内討伐に加え、仙台・米沢藩ら新たに朝敵,とりもなおさず、越後方面、会津方面に加え、平潟からも政府軍が上陸し、戦線が同盟諸藩に迫っている時期である
通史編1(古代・中世) (津軽惣地頭宇佐美実政)

前掲の葛西清重もそうであるが、他にも千葉常胤が行方郡以下五郡荘、三浦義澄が会津郡以下四郡三荘、小山政光
通史編3(近世2) (高岡霊社)

正徳二年(一七一二)、会津の保科正之(ほしなまさゆき)を祀る土津(はにつ)神社(現福島県耶麻郡猪苗代町
通史編2(近世1) (対蝦夷地政策と青森商人の商業活動)

万延元年(一八六〇)、青森の商人は、滝屋が仙台藩、藤林家が会津藩、金沢屋が庄内藩の御用達に任命された。,青森と箱館で蝦夷地勤番に必要な津軽米を受け取りたいという提案が仙台藩から津軽弘前藩にもたらされたり、会津藩,が行っていた江戸廻米と箱館・蝦夷地の入用廻米の廻送を停止し、会津米を新潟で売りさばいた金をもって青森で
通史編2(近世1) (一 検地・人質徴収・城破(わ)り・刀狩り)

さて、北条氏を攻略した秀吉は、天正十八年七月十七日、いよいよ奥羽仕置のために小田原から会津黒川に向かった
通史編3(近世2) (藩論の統一)

さらに西舘平馬は、京都で会津・米沢・庄内・仙台藩等、同盟の中心藩が京都役宅を没収されたうえ、入京を禁止,それまで弘前には、仙台・会津・米沢・庄内藩など奥羽諸藩の使者がたびたび往来していた。
通史編3(近世2) (戦争の波紋)

になり、蒸気船で江戸へ逃げ去った、譜代大名は残らず朝廷方につき、幕府征討に向かっており、幕府の味方は、会津
通史編3(近世2) (戦闘の開始)

これは、弘前藩が討庄応援を命じられたが、庄内藩がいよいよ官軍に反抗し、会津と行動をともにするようになっては
通史編2(近世1) (刀狩り)

刀狩り 豊臣秀吉は、会津到着に先立って、天正十八年(一五九〇)八月七日、陸奥国南部の岩瀬郡長沼(いわせぐんながぬま,そして、会津に到着した秀吉は、三日後の八月十日に、 一、諸奉公人者、面々以給恩其役をつとむへし、百姓
資料編1(考古編) (1.古墳時代の概観)

東北地方においては、古墳時代前期(4世紀)に属する福島県会津大塚山古墳や宮城県遠見塚古墳をはじめとして,この中には、雷神山古墳(168m)・遠見塚古墳(110m)・亀ヶ森古墳(127m)・会津大塚山古墳(114m
通史編1(古代・中世) (鳥取越えの奇襲と安藤次)

これは九日の夜、「安藤次」というものを山案内者として、甲(よろい)を負い馬を牽(ひ)きながら、密かに会津
通史編2(近世1) (漆の栽培奨励)

藩は文化八年に藩士の前田兵蔵を会津・上方方面に出張させ、国元の漆掻の技術指導のため、掻子の招聘、道具の,江戸時代、漆栽培で有名な会津藩でも最盛期(十八世紀中期)で一八〇万本だったというから、相当な数である。
通史編2(近世1) (幕末期の蝦夷地交易)

さらに、仙台藩や会津藩では津軽弘前藩に申し入れ、蝦夷地警備の入用米をわざわざ国元から送ったのでは輸送費
通史編3(近世2) (協力機関および協力者一覧(機関・個人順、五十音順))

協力機関および協力者一覧(機関・個人順、五十音順) 会津若松市教育委員会 青森銀行記念館(青森県弘前市
通史編3(近世2) (戦局の展開と兵員の不足化)

奥羽列藩同盟形成を強く主張していた仙台藩や米沢藩、朝敵とされた会津藩や鶴岡藩等は周辺の勤皇諸藩に進攻を,時局はやがて野辺地戦争を経て、会津・盛岡藩も降伏し、十月十八日に鎮撫総督府から東北平定の宣言が出されるが
通史編3(近世2) (幕府・朝廷の攻防)

新政府側は公式に見解を表明し、続いて諸侯へ国力相応の人数を率いての上京を命じる一方で、徳川慶喜を筆頭に会津
通史編2(近世1) (秀吉の東国への停戦令)

四月十九日付の佐竹義重(よししげ)宛て秀吉直書(じきしょ)によると(『新潟県史』資料編三)、会津の蘆名
通史編3(近世2) (野辺地戦争の開始)

図62.藩境塚  この時、米沢藩と仙台藩はそれぞれ降伏しており、さらに、まさにこの日は会津藩鶴ヶ
通史編3(近世2) (藩論の紛糾)

勤皇派は、奥羽諸藩が同盟を結んだのは、会津・庄内の恭順謝罪を嘆願し、和平的な解決を望むためであったのに,また、同日、沢副総督は会津・庄内を征討し、不審の藩についても問罪するとの決意を明らかにしていた。
通史編1(古代・中世) (東北地方の古墳時代)

古填時代前期には、東北地方南部では四世紀に属する福島県会津大塚山(あいづおおつかやま)古墳や宮城県遠見塚
通史編2(近世1) (漆の集荷・販売体制)

にしたがい試験的に販売を行ったほか、前述した前田兵蔵は文化八年に一〇〇貫目の漆の余裕分が出たことから、上方・会津方面
通史編3(近世2) (白石同盟の動き)

それは、①庄内征討の件、②会津藩の謹慎と助命嘆願が米沢藩と仙台藩でなされている件、③仙台に山中兵部を派遣
通史編2(近世1) (東西蝦夷地直轄下の勤番体制)

翌五年には秋田・鶴岡両藩に代わって仙台藩と会津藩が出兵し、四藩の総動員数は四〇〇〇人に及んだという。
通史編5(近・現代2) (弘前市の保健対策)

五ヵ年計画に盛り込まれた市立病院の創設は、青森県厚生農業協同組合連合会津軽病院が、昭和三十三年十二月一日付
通史編3(近世2) (大政奉還時の状況)

到着直後の十一月に赤石が世話した藩として仙台・肥後・秋田・米沢・柳川・前橋・会津・二本松・庄内(鶴岡)
通史編2(近世1) (漆栽培奨励策の行き詰まり)

西国では漆に代わって安価な櫨蝋(はぜろう)の需要が増しており、会津藩・米沢藩といった古くから漆を特産としていた
通史編3(近世2) (軍事情勢の膠着)

特に閏四月下旬に列藩同盟が形成されると、会津・庄内征討を命じられていた諸藩は続々と解兵を実施し、軍事行動
通史編3(近世2) (近隣諸藩の動向)

はじめ、盛岡藩は、四月に出された会津・庄内征討応援命令には従う姿勢を示したものの、奥羽列藩同盟に加わり
通史編3(近世2) (信政の教養)

惟足は吉川神道を唱道し、紀伊和歌山藩主徳川頼宣(よりのぶ)、会津藩主保科正之(ほしなまさゆき)などからの
通史編2(近世1) (豊臣再仕置軍の奥州下向)

六月十五日付の書状によって、家康と豊臣秀次が七月上旬に出馬することと、六月十四日に蒲生氏郷(がもううじさと)が会津,奥州奥郡為御仕置被差遣御人数道行之次第」(前田育徳会尊経閣文庫蔵)によれば、米沢城主伊達政宗が一番、会津城主蒲生氏郷
通史編2(近世1) (初代為信の動向)

第一は、慶長六年四月段階で三人全員が在京しており、この年八月二十四日に上杉景勝が会津若松(あいづわかまつ,)(現福島県会津若松市)から米沢(現山形県米沢市)へ国替えを命じられるが、為信らは依然在京しており、他
通史編2(近世1) (慶安二年の「弘前古御絵図」)

東北地方の地名を冠する屋号は、秋田が最も多く、会津若松・仙台・最上などがこれに続き、南部屋は一軒であった
通史編4(近・現代1) (生活刷新の布告)

後の巡査の始まりというべきもので、会津出身者が多かったという。  
通史編2(近世1) (城破(わ)り)

また、豊臣大名である蒲生氏郷に与えられた会津などで、少なくとも一〇城が残されており、木村吉清に与えられた
通史編2(近世1) (高照神社の造営と「名君」信政像の創出)

たとえば、水戸藩主の徳川光圀(みつくに)、岡山藩主の池田光政(みつまさ)、金沢藩主の前田綱紀(つなのり)、会津藩主
資料編3(近世編2) (【解説】)

で、当初より勤皇色が強かった秋田藩と、反対に戊辰戦争は薩摩・長州藩の私怨から出たもので、朝敵とされた会津,この戦いで弘前藩は死傷四九名を出して惨敗したが、時に会津・庄内・仙台・米沢藩ら朝敵側は降伏しており、盛岡藩
通史編1(自然・原始) (人類学会創設~昭和三十三年(一九五八))

 三沢の廣澤安任(ひろさわやすとう)(一八三〇~一八九一)は、戊辰(ぼしん)戦争後本県に移封された会津
通史編3(近世2) (藩から県へ)

江戸時代からの藩領を管轄する弘前・黒石・八戸藩と、盛岡藩の減封に伴って明治二年に成立した七戸藩、同年会津藩
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