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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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資料編2(近世編1)
(編年史料 (天正十七年~明暦二年))
●元和五年(一六一九)九月六日、津軽信枚、秋田久保田城主
佐竹義宣
を振舞に招く。,●元和七年(一六二一)正月五日、秋田久保田城主
佐竹義宣
、津軽信枚へ使者を派遣する。,●元和七年(一六二一)十一月六日、秋田久保田城主
佐竹義宣
、江戸屋敷の津軽信枚へ使者を遣わす。,●寛永五年(一六二八)十一月十九日、津軽信枚、秋田久保田城主
佐竹義宣
へ、若弟鷹を贈る。,●寛永九年(一六三二)十月晦日、津軽信吉、秋田久保田城主
佐竹義宣
へ、若黄鷹を贈る。
通史編2(近世1)
(津軽信枚の越後転封)
ともかく信枚も隣藩の
佐竹義宣
も上洛したのである。,また、
佐竹義宣
が国元の家老梅津憲忠(政景の兄)に宛てた書状も当時の状況をよく伝えている。,図65.
佐竹義宣
画像 義宣が国元にせっせと情報を送っているのに対し、この間信枚が国元に対してどのような,表9 元和5年秀忠上洛時の津軽信枚・
佐竹義宣
の動き 月 日 津軽信枚
佐竹義宣
幕府・秀忠 3.25,の昼数寄に招かれる 津軽信枚・近藤秀明・久永重膳を昼数寄に招く 9. 6
佐竹義宣
を振舞に
通史編2(近世1)
(二代信枚の動向)
慶長八年六月十日に為信は
佐竹義宣
の家臣大野蔵人へ書状と祝儀を遣わし、入部後の佐竹氏と友好関係を結ぶことを,一方、秋田藩側は
佐竹義宣
は秋田実季の所領を幕府から拝領して昨今移ってきたばかりでよくわからないとしながら,その後、十月八日に政景は藩主
佐竹義宣
からの書状を受け取り、八森境の件は義宣の指示で弘前藩側に譲歩する方針,このため政景らはいったん久保田に帰り、十月二十八日には政景と佐藤源右衛門は藩主
佐竹義宣
の元に赴き、両所
通史編2(近世1)
(一里塚)
秋田藩の場合も同年七月に弘前藩との境界の道普請を行っており(同年七月二十九日付けの小場右兵衛義成宛て
佐竹義宣
書状
通史編2(近世1)
(関ヶ原の戦いと奥羽の情勢)
そして伊達政宗・
佐竹義宣
・最上義光・南部利直ら東北・関東の大名が国元に戻った後(「政宗君治家記録引証記,相馬利胤 60,000 〃 岩城平 鳥居忠政 120,000 出羽 秋田
佐竹義宣
通史編2(近世1)
(伏見築城と奥羽大名)
上杉景勝(うえすぎかげかつ)は秀吉から「於伏見惣拇堀普請」のため人足四〇〇〇人を、
佐竹義宣
(さたけよしのぶ
通史編2(近世1)
(初代為信の動向)
は常陸国宍戸(ししど)(現茨城県西茨城郡友部町)へ転封され、代わりに常陸国水戸(現茨城県水戸市)から
佐竹義宣
,
佐竹義宣
の移動は七月二十七日であるので、早くから為信は情報をつかんでいた可能性もある。
通史編2(近世1)
(江戸時代初期の大名課役)
銚子築港は、他に上杉景勝・
佐竹義宣
・相馬利胤らの東北諸大名が動員された。
通史編2(近世1)
(豊臣再仕置軍の奥州下向)
奥州奥郡為御仕置被差遣御人数道行之次第」(前田育徳会尊経閣文庫蔵)によれば、米沢城主伊達政宗が一番、会津城主蒲生氏郷が二番、常陸太田城主
佐竹義宣
通史編2(近世1)
(奥羽大名の名護屋参陣)
京へ到着し(『多聞院日記』天正二十年二月二十五日条)、三月十七日には、伊達政宗・南部信直・上杉景勝・
佐竹義宣
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