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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編5(近・現代2) (東門会の佐藤正三)

東門会の佐藤正三 昭和六年正月二日、東門会の指導者だった佐藤正三(さとうしょうぞう)は、官立弘前高等学校,鳴海理三郎に宛てた手紙で、佐藤正三は次のように自分の信念を記している。 / 東門会の佐藤正三
通史編5(近・現代2) (佐藤正三と二・二六事件)

佐藤正三と二・二六事件 昭和八年、佐藤正三は官立弘高三年になった。このころ彼は苦悩していた。,昭和九年、佐藤正三の帝大合格は、本人はもちろん、周りのすべてが信じて疑わなかった。,写真82 2・26事件を伝える『東奥日報』(昭和11年2月27日)  佐藤正三は西田税のもとで、 / 佐藤正三と二・二六事件
通史編5(近・現代2) (戦後の佐藤正三)

戦後の佐藤正三 佐藤は、二学期が始まった直後、弘中大陸班員が福士校長と敗戦原因で紛議を起こした責任をとって / 戦後の佐藤正三
通史編5(近・現代2) (弘前へ帰る)

指導者は佐藤正三の先輩で東亜連盟県支部長の鳴海理三郎だった。,昭和十九年、東亜連盟同志会の鳴海理三郎、小田桐孫一、佐藤正三らはいずれも弘前中学校の教師となったが、やがて,そして、佐藤正三に決定的影響を与えていた伊東六十次郎に二十年五月十九日召集令状が来た。
通史編5(近・現代2) (東亜連盟)

東亜連盟 佐藤正三は、昭和十三年一月十日召集され、旭川歩兵第二六連隊に入営、三ヵ月後、満州の駐屯地チチハル,写真83 戦場の佐藤正三  東亜連盟は石原莞爾の唱えた日中提携の理論で、昭和十三年に公にされた。,昭和十六年一月十四日佐藤正三は次のように記した。「閣議決定により東亜連盟論禁圧を声明。奇怪なる哉。
通史編5(近・現代2) (東亜連盟同志会の活動)

東亜連盟同志会の活動 このころ、佐藤正三を中心とした東京在住の養生会員を主要構成メンバーとした東亜連盟東京研究会,総動員計画は小野元士・葛西洋・宮本義平、組織計画は福井恒太郎・牧野朝彦・伊東勇治、政治活動は小田桐孫一・佐藤正三
通史編5(近・現代2) (東門会の創立)

後輩の鳴海理三郎、佐藤正三、小田桐孫一らは東亜連盟活動をした。
通史編5(近・現代2) (終戦)

終戦 終戦時の佐藤正三の日記 八月十五日(水)晴、くもり 午前 中村さんの畑のいも掘り ねぎ土寄
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