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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編2(近世1) (伏見作事板の運上と太閤蔵入地)

伏見作事板の運上と太閤蔵入地 豊臣政権にとって秋田氏領内の太閤蔵入地(豊臣政権の直轄地)は、伏見指月城,・木幡山城の築城に必要な伏見作事板の廻漕費用調達に必要なため設定された(長谷川成一『近世国家と東北大名,慶長元年以降の伏見作事板の切り出しと廻漕は、秋田氏を中心としながらも北羽の大名・小名を動員して行われ、,この津軽氏の太閤蔵入地も伏見作事板の廻漕費用に充当されていた。,なお、南部氏も秀吉から伏見作事板の運上を下命されている。 / 伏見作事板の運上と太閤蔵入地
通史編2(近世1) (相馬大作事件)

相馬大作事件 このような津軽家の官位昇叙(しょうじょ)に伴う家格の上昇に不満を募らせたのが、盛岡藩の / 相馬大作事件
資料編3(近世編2) (2 本所の上屋敷)

替地後の建物の作事は元禄二年(一六八九)ころから始まり、元禄四年(一六九一)四月ころまでには、一応の完成,ともに「元禄十五年以前」ということであって、この図が元禄十五年十二月の火災以前の作事に関するものであることがわかるのであるが,関しては、他の本所上屋敷の絵図面を取り上げながらなされた後藤久太郎の詳細な研究があり、 「---の作事,の年代が元禄八年の火災の際のものではなく、屋敷替後の初めての作事、即ち、元禄元年から四年の作事に関するものである
通史編2(近世1) (伏見木幡山城の築城)

伏見木幡山城の築城 秋田実季が伏見作事板の運上を命じられたのは文禄四年(一五九五)のことであったが、,しかし、伏見木幡山城の築城がすでに始められていた慶長二年からは「伏見御作事為御用」「公儀御板」「天下御作事之杉板,小名衆を軍事動員することに成功し、政権の軍隊として編成することを実現していたが、この慶長元年からの伏見作事板,この「御材木」は、伏見作事板のことであるが、この作事板運上の秀吉朱印状を受領するために南部信直は伏見へ,またこの時、南部信直だけではなく、仙北の小名衆や秋田実季も伏見作事板運上の朱印状下付を待って伏見に詰めていた
通史編2(近世1) (豊臣政権の奉行衆)

なお、伏見作事板は、越前敦賀・三国(みくに)、若狭小浜(おばま)の豪商によって担われ、すべて敦賀湊に一旦陸揚,に秀でた奉行や家臣らを北国海運の拠点に据え、その海運によってもたらされる太閤蔵入地からの年貢米や伏見作事板等,太閤蔵入地の選定には、三成の意向が大きく影響していたのであり、太閤蔵入地からの収入によって廻漕される伏見作事板,・増田長盛・長束正家等に宛てて提出されており、これら集権派奉行によって、北羽の太閤蔵入地の管理、伏見作事板廻漕,長束正家らの奉行は、豊臣政権の集権化を推進する核になっており、秀吉は集権化にとって大きな意味を持つ伏見作事板運上
通史編2(近世1) (伏見滞在と派閥抗争)

津軽氏をはじめ、南部氏、秋田氏、仙北・由利の小名らにとって文禄・慶長期における軍役とは、すなわち伏見作事板,の運上であり、この伏見作事板の秀吉朱印状を獲得するための伏見滞在が新たな「日本之つき合」となっていった,、浅利騒動を秋田側に有利に展開させ、さらに伏見作事板の秀吉朱印状を取り次いで秋田氏に与えることで、秋田氏,図41.伏見作事杉板に関する豊臣秀吉朱印状  しかし津軽氏は、この伏見作事板を慶長二~四年分廻漕,なお南部信直も伏見作事板の秀吉朱印状を発給されているが、この朱印状を受け取るまで、信直は再三にわたって
通史編3(近世2) ((二)年中行事と生活)

作事方手斧始め。 十二日…弓始め、乗馬始め。 十三日…鉄炮始め。 十四日…年越し。,作事方休み。 (四月)一日…衣更(ころもがえ)、藩士は四月中袷着用。,十五日…作事方休み。 二十四日…愛宕山(あたごやま)へ神酒・色飯。,十六日…作事方休み。 二十一日…高岡霊社(現高照神社)祭日。城内で拝礼・神楽(かぐら)。,二十七日…作事方で城中御門ごとに松飾り。 二十九日…諸局・諸席は御用仕舞い。 晦日…年越し。
資料編3(近世編2) (第二節 藩政改革の実施と黒石藩の成立)

黒石藩  (一)廃田・新田開発の展開  (二)国産の奨励  (三)文化の高直り  (四)相馬大作事件
通史編3(近世2) (二等銃隊の創出)

藤井健蔵 〃 〃 御留守居組御目見得以下支配源吉(22俵2人扶持) 〃 18 横岡藤之助 〃 〃 作事吟味役格勝二郎,(30俵2人扶持) 〃 19 木村初弥 〃 〃 作事吟味役格勝二郎(禄高不明) 〃 20 田中直弥,〃 〃 作事吟味役格民助(25俵2人扶持) 〃 21 島村亀吉 〃 〃 作事吟味役格善仲(5両3人扶持,) 〃 22 高山惣助 〃 〃 作事吟味役格小細工人助七(30俵2人扶持) 〃 23 田中東馬 〃,しかし、冗員といっても作事方(さくじかた)や勘定方、買物方、早道之者(はやみちのもの)(諜報(ちょうほう
通史編2(近世1) (知行安堵)

5,2440 3,1600 4,4350  表2は、慶長元年(一五九六)から慶長四年までの伏見作事板,作事板と石高との関係は、慶長元年は約三〇〇石に板一間という比率となり、翌二年以降は、約二〇〇石に一間となっている,表2 伏見作事板の割り当て(慶長元~同4年) 大名(朱印高) 慶長元年分 慶長2年分 慶長3年分 慶長
通史編2(近世1) (伏見築城と奥羽大名)

伏見城普請とは、軍役の全国的な分担関係によって成り立っていたのである(中川和明「豊臣政権の城普請・城作事,秀吉は奥羽仕置と同時に秋田領の杉に目をつけ、それを朝鮮出兵や政権の中枢である伏見城の普請・作事に利用しようとしており
通史編3(近世2) (瓦の利用)

以上の中で最も古いのは延宝二年(一六七四)の二の丸瓦馬屋の作事である。  ,金蔵の瓦作事についてはすでに焼成のところで触れた。  ,元禄十七年(一七〇四)三月十三日条によると、報恩寺作事入用瓦として九万枚余の見積もりが出されている。
通史編3(近世2) (礼服)

○正月十一日(具足開き、作事方手斧始め)  具足(ぐそく)開きとは、年始めの具足祝をいい、武家の表道具,作事方手斧始めは土木建築開始の儀式であろう。
通史編3(近世2) (他領から技術を導入)

しかし絵図には、四の郭(北の郭)に塗師場、作事場、普請場が描かれているので、この塗師場で岩崎明右衛門、
通史編4(近・現代1) (招魂祭)

余興は花火を随時に揚げ、旧作事場跡で競馬が行われ、中でも軍人の軽業と三騎運動が珍しがられた。
通史編3(近世2) (御軍政局の発足と組織)

38 成田清門 〃 御中小姓格 2人扶持勤料 砲書取扱助役 39 神豊三郎 御軍政局調方助役 作事吟味役格,彼らの役職は高い者でも御手廻・御馬廻番士で、中には御中小姓や作事吟味役(さくじぎんみやく)・無役(むやく,事実、表11No.39の神豊三郎(作事吟味役格)や同No.43の野沢得弥(無役)が、それぞれ御馬廻番頭格
通史編2(近世1) (太閤蔵入地の設定)

慶長元年(一五九六)三月、秀吉は仁賀保(にかほ)兵庫ら由利五人衆に、秋田実季より「伏見向嶋橋板」(伏見作事板,秀吉への上納の際の費用として、さらに、北羽地域の大名・小名と同じように「隣郡之衆」の一員として、伏見作事板
通史編2(近世1) (浅利頼平の怪死)

この二通の覚書は、浅利氏が秋田氏へ納めた軍役や物成、太閤蔵入地からの年貢米や伏見作事板の運上の決算報告書
通史編2(近世1) (二度の高直り)

天守の普請作事には四〇〇〇両が見込まれ、藩費の支出以外に、家中に手伝い人夫を差し出させた。
通史編1(古代・中世) (住の道具)

井戸の作事をみると、中崎館のように曲物を井筒として使用したり(写真174)、浪岡城では隅柱にほぞ穴を穿
通史編2(近世1) (人質徴収)

可能となり、最終的には、文禄元年(一五九二)の肥前名護屋への出陣、慶長元年(一五九六)からの秋田の伏見作事杉板
通史編2(近世1) (異国船打払令の発令と津軽弘前藩)

また高札を大間越から野内までの八浦、その外に金井ヶ沢・小泊・平舘・油川に立てることとし、作事奉行に命じて
通史編2(近世1) (浅利騒動の停戦命令)

文禄四年・慶長元年の三年間、杉板運上にかかわる秀吉朱印状を秋田実季へ取り次いでおり、秋田領からの伏見作事板徴収
通史編3(近世2) (織座)

作事奉行・普請奉行が引き取り、蔵など壁に未乾燥の部分もあったが、ほぼ予定どおりに完了した。
通史編3(近世2) (悪戸村における製陶)

図144.悪戸周辺地図  「御用格 寛政本」(弘図津)巻十八―作事―の文化六年(一八〇九)九月八日条
通史編3(近世2) (黒塗、朱塗、蒔絵に加わった変わり塗)

また、大鰐蔵館村の木地挽佐左衛門は、江戸参勤のみやげにする丸煙草盆の製作依頼を受け、作事奉行は材料の槻
通史編2(近世1) (東蝦夷地直轄下の勤番体制)

津軽弘前藩はこの幕命に基づき、翌十二年三月には物頭三人・勘定人二人・作事方一人・医者二人・足軽五〇〇人
資料編3(近世編2) (2 本丸御殿の考察)

様子を描いたものと見られているようであるが、表書院前の能舞台は、延宝二年(一六七四)八月に新規の造営が作事奉行
通史編2(近世1) (城破(わ)り)

これらは、奥羽仕置による城の破却の指令により、軍事的機能を除かれたものの、作事(さくじ)(建築物)の部分
通史編2(近世1) (家中屋敷の郭外移転)

郭に御屋敷・土蔵・宝蔵など、三の郭には御館・評定所・山方払方・籾蔵・板蔵・紙蔵・与力番所、四の郭には作事方
通史編2(近世1) (改革推進体制の構築)

米方役所・飼料役所の引き取り、貸方役所・山方役所・作事方役所は御調方役所扱い、内分金蔵(ないぶんきんぞう
通史編3(近世2) (出発)

先乗りの組頭・その他、さらに掃除奉行(そうじぶぎょう)・使番(つかいばん)・下役人(したやくにん)・作事受払役
通史編2(近世1) (中世の北国海運)

文禄四年(一五九五)からの伏見作事板の運送に、北陸の運送業者が秋田実季(さねすえ)領から敦賀への杉板の
通史編3(近世2) (江戸勤番と生活)

(3)作事方(土木・建築担当)については、国元と同じように行うこと。
資料編2(近世編1) (【解説】)

仕置から始めて、同政権下における津軽氏の九戸一揆(くのへいっき)出陣、肥前名護屋(なごや)出陣、伏見作事板
通史編2(近世1) (江戸時代初期の大名課役)

普請役=城郭工事と考えがちだが、城郭に限らず、普請とは石垣組みや基礎工事のこと、それに対して作事とは建築工事
通史編3(近世2) ((二)相撲興行)

文化三年(一八〇六)には、桟敷は四奉行・目付・町年寄・町目付・町同心の分は用意しなければならないが、作事奉行
通史編3(近世2) (第一次藩政改革と特色)

こおりかた)で職掌は農業・林野生産の把握、市政局は旧寺社方・町方で宗教や町政・司法を、会計局は旧勘定方・作事方
通史編2(近世1) (津軽家宛ての領知宛行状と領知高の変動)

秀吉当時の大名の領知高を記した各史料と、豊臣政権下で北奥羽の大名に課された役である秋田杉板の作事板搬出割
通史編2(近世1) (赤石安右衛門・菊池寛司の「覚」)

資料近世2No.六五)は、寛政二年(一七九〇)八月、御目見以上支配菊池寛司正礼(きくちかんじまさのり)、作事奉行赤石安右衛門行健
資料編2(近世編1) (編年史料 (天正十七年~明暦二年))

●慶長元年(一五九六)七月、この月、秋田実季、津軽為信へ伐採した伏見作事用杉板を渡し、為信受領して敦賀,●慶長二年(一五九七)二月、これより先、秋田実季、津軽為信へ伏見作事用杉板を渡す。,●慶長三年(一五九八)十二月、これより先、秋田実季、津軽為信へ伏見作事用杉板を渡す。,●慶長四年(一五九九)十二月十三日、これより先、秋田実季、津軽為信へ伏見作事用杉板を渡す。
資料編3(近世編2) (新編 弘前市史 資料編3 近世編2 目次)

文化の高直り …………………………………………………………………………  一五三    (四)相馬大作事件
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