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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編2(近世1) (家中屋敷の郭外移転)

寛永末年ころ作成されたとみられる「津軽弘前城之絵図」によれば、城内は本丸・内北の郭・西の郭を除いては「侍屋敷,」のうち、津軽家が差し出した「津軽弘前城之絵図」(国立公文書館内閣文庫蔵)においても、二の丸に六軒の侍屋敷,が区割りされ、三の丸・四の郭・西外の郭はほぼ侍屋敷となっている。  ,(一六四九)ころのものと推定されている「弘前古御絵図」(弘図津、資料近世1付図)によれば、二の丸には侍屋敷,三の丸には侍屋敷は六九軒(うち空き屋敷一四軒)、四の郭には侍屋敷四八軒(うち空き屋九軒)、西外の郭には
通史編2(近世1) (城下高岡の形成)

二の丸には侍屋敷が六区画あり、重臣が居住していたものであろう。,三の丸には六九軒の侍屋敷があり、侍町となっていた。,なお、城の西坂下(馬屋町)にも三六軒の侍屋敷があった。  ,の土淵川沿いには侍屋敷が七四軒あり、川とともに防御体制が敷かれている。,寛永末年の絵図には町割りの中に、侍屋敷数並びに町屋敷数が記入されており、侍屋敷数は五二八軒、町屋敷数が
通史編1(古代・中世) (種里城と町)

図62 種里城跡縄張り図(鯵ヶ沢町)  また、伝承として残っていた「伝侍屋敷」と呼ばれる主曲輪の,その「伝侍屋敷」の東側には種里の町が隣接した形で存在している。
通史編2(近世1) (土着策と弘前城下)

同年十月の「被仰付候御家中潰町之事」(『平山日記』)によれば、次の三六の侍屋敷が町内から消滅したという,城下からの移転時と同様、侍屋敷地での新規家作のためには多くの職人が必要とされたものの、それが充足されなかったからである,諸大工・人夫等を蝦夷地に派遣するように命じられたことから、建築用材木・諸職人の需要が高まり、結果として侍屋敷
通史編2(近世1) (元禄の大飢饉と家臣召し放ち)

じたり(「国日記」元禄九年正月二十一日条)、「町廻常番役」(「盗賊改役」)を設け、同様に郭外・弘前町中・侍屋敷
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