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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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通史編4(近・現代1)
(供奉員の陣容)
供奉
員の陣容 この巡幸に
供奉
・随従した陣容を見てみよう。 /
供奉
員の陣容
通史編2(近世1)
(江戸時代初期の大名課役)
この時期に津軽家へ課せられた役のうち、特徴的なものとして、将軍や大御所が上洛する際に兵を率いて
供奉
したことが,徳川家康を祀る日光東照宮に将軍が赴いて拝礼する日光社参は、江戸時代初頭からたびたび実施され、諸大名・幕臣が
供奉
,上洛については、この年五月二十日付で道中にあっても帰国を命じる老中奉書(同前No.三四八)が発せられ、
供奉
,上洛
供奉
の出費は多大なものであったとみられ、たとえば、元和五年の上洛に際しては財政難だったため、隣藩秋田藩,これも上洛
供奉
の経費の借用と考えられる(長谷川成一「津軽藩藩政文書の基礎的研究(二)―拙稿(一)の補訂
通史編2(近世1)
(津軽信枚の越後転封)
元和五年(一六一九)は二代将軍秀忠が上洛した年であり、東北地方の大名をはじめ多くの大名が秀忠上洛の
供奉
,信枚も上洛
供奉
を命じられたが、四月二十日手元不如意のため、境界決定をしたばかりの隣藩秋田藩に大判一〇〇,ただし、幕府が各大名に出した、上洛
供奉
の条々の日付は五月十一日である(資料近世1No.三六四)。,当時、正則は江戸におり、信枚は秀忠に
供奉
して伏見におり、信枚の方が秀忠や幕閣に対して、国替中止要請をしやすい,国元では小禄の者が八三人、転封先へ
供奉
する旨を表明し、名前を書き上げられている。
通史編2(近世1)
(舟橋騒動)
このとき、
供奉
した人数は三〇万七〇〇〇人余といわれ、家康・秀忠の上洛(じょうらく)に従った人数をはるかに,信義もこの上洛に
供奉
し、家光とともに七月十一日に京都に入っており、京都においては辻固めの任務を果たした,美作・伊豆らは、上洛
供奉
後江戸屋敷には入らず、近くの浅草に町屋を借りて引きこもり、一味連判して舟橋の所業
通史編2(近世1)
(近世大名と大名課役)
これらの役には、幕府役職への就任や、上洛・日光社参時の将軍への
供奉
(ぐぶ)、改易大名の領地受け取り・在番
通史編4(近・現代1)
(学事奨励と天皇御巡幸)
天皇は木戸孝允、岩倉具視の二人を
供奉
官として教室に臨まれ、熱心に授業を視察され、生徒全員に対し賞として
通史編4(近・現代1)
(行在所金木屋)
玉座をはじめ
供奉
の諸官の各室は一切白木の研(とぎ)出しとし、襖なども皆白張り、引き手は金の金具に朱総(
通史編4(近・現代1)
(明治十四年の巡幸)
各学校への巡視の儀は、
供奉
(ぐぶ)の有栖川熾仁(たるひと)親王が参議大木喬任らを従えて代巡された。
通史編2(近世1)
(浅利頼平の怪死)
秋田両氏が大坂に上り何度も政権からの詮索があった後、やがて浅利方有利に傾いた時、実季が陰謀をもって浅利氏に
供奉
通史編2(近世1)
(本村と新田)
元和九年は家光の将軍宣下につき、信枚は七月に
供奉
・上洛しており(資料近世1No.四一三・四一四)、帰国
通史編4(近・現代1)
(巡幸の日誌と弘前)
いま一つは、
供奉
の参議大隈重信が、十三湖とそれに注ぐ岩木川の逆流による災害常習地帯の現場を視察した際の
通史編3(近世2)
(幕末の政情と近衛警備)
以後、警備兵は三条実美(さねとみ)の指揮下に入り、鳳輦
供奉
(ほうれんぐぶ)(天皇の輿を守衛すること)、
通史編3(近世2)
(三 八幡宮の祭礼と山車の運行)
明治二年(一八六九)、政府の神仏混淆(しんぶつこんこう)廃止の方針から、神輿渡御に最勝院と修験の
供奉
するのを
通史編2(近世1)
(二代信枚の動向)
慶長十九年大坂冬の陣への参陣、慶長年間の花山院忠長をはじめとする流罪人の預かり、元和年間の将軍上洛に伴う
供奉
資料編2(近世編1)
(編年史料 (天正十七年~明暦二年))
●元和三年(一六一七)五月七日、津軽信枚、将軍家上洛の
供奉
備えの六番に編成される。,●元和五年(一六一九)五月十一日、幕府、和子入内につき、上洛
供奉
の条々を大名へ下達する。,●元和九年(一六二三)五月十一日、幕府、徳川家光の将軍宣下につき、上洛
供奉
の条々を大名へ下達する。,●元和九年(一六二三)年七月、津軽信枚、徳川家光の上洛に
供奉
する。,●寛永十一年(一六三四)七月十一日、幕府、各大名へ上洛を命じ、津軽信吉、家臣を召し連れ
供奉
する。
通史編2(近世1)
(津軽家宛ての領知宛行状と領知高の変動)
しかしこの時の判物発給の対象は五万石、ないし城主以上の上洛
供奉
大名に限られた(「江戸幕府日記」寛永十一年閏七月十六日条
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