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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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通史編1(古代・中世)
(異類の来襲)
鎮守府将軍・出羽城介による支配体制が整備されるなかで、天慶(てんぎょう)二年(九三九)四月、出羽国の北方で
俘囚
,この「異類」とは、正史では「
俘囚
」と同義、あるいは新羅人を指す用法などがあるが、ここでは「
俘囚
」とは区別,、先にも触れたように、寛平五年(八九三)には渡嶋狄(てき)が奥地(出羽の北に広がる郡制未施行地域)の
俘囚
,と騒動を起こして(史料三五一)、元慶の乱が収束に向かっていたときにも、「義従
俘囚
」(政府側についた
俘囚
資料編1(古代・中世編)
([九世紀])
●弘仁二年(八一一)五月十日、征夷将軍に
俘囚
綏撫の勅。,
俘囚
の帰降を報告。 ●弘仁八年(八一七)九月二十日、反乱の
俘囚
を拘束。,●承和二年(八三五)六月二十七日、
俘囚
に授位。,●承和三年(八三六)三月二十五日、陸奥
俘囚
に授位。,●寛平五年(八九三)閏五月十五日、渡嶋狄と奥地
俘囚
と戦闘。
通史編1(古代・中世)
(四 中世津軽の宗教世界の特色)
このなかの「
俘囚
」とは、「蝦夷」のうち、何らかの形で中央政府に投降・服従した「蝦夷」を指す。,この「
俘囚
」なる呼称は、このあと平安後期に至るまで、「
俘囚
安倍頼時」とか「出羽山北
俘囚
主清原真人光頼」,その意味で、「夷俘」は、前の政府に服従した「
俘囚
」と、未服属の「蝦夷」との中間にある呼称とも考えられる,この奈良朝において、「蝦夷」「エミシ」がこのように、中央への「服属」を一つの物差しにして、「
俘囚
」・「,思うに、桃生郡を周縁とする「みちのく」のなかの「
俘囚
」と「夷俘」たちは、中央政府という上から、脱「蝦夷
通史編1(古代・中世)
(安倍氏の登場)
安倍氏の登場 こうした豊かな北の世界で、現地の責任者として権力をふるったのが、鎮守府の筆頭在庁「奥六郡
俘囚
長,」安倍氏と、秋田城の筆頭在庁「出羽山北
俘囚
主」清原氏である。 ,富忠は、
俘囚
ではなく「夷人」そのものが安倍姓を名乗っているわけで、南からの安倍氏による擬制的な族制結合
通史編1(古代・中世)
(鎮守府将軍清原武則)
鎮守府将軍清原武則 前九年合戦で安倍氏が滅亡した後は、その論功行賞によって清原武則が
俘囚
出身者としてははじめて
通史編1(古代・中世)
(乱の勃発)
こうした国司らの苛政(かせい)に抵抗して、多数の
俘囚
(ふしゅう)(蝦夷のうち律令国家に服属した者)が組織的,正史『日本三代実録』には「秋田河以北を己が地に為さんと請う」(史料三三〇)という記事もあって、なんと
俘囚
,もし本当にこれだけの地域が独立して
俘囚
国家を形成したならば、古代東北史はまた違った展開を遂げたに違いない
通史編1(古代・中世)
(北の富の搾取)
しかし現地で蝦夷との交易交渉にあたった官人(辺境軍事貴族ないし
俘囚
長)たちの態度はそうではなかった。,蝦夷を閉鎖的社会に押し込め、すでに律令国家によって郡郷制に編成された地内に住む
俘囚
と、律令国家の支配が
資料編1(古代・中世編)
([十一世紀])
●長久五年(一〇四四)一月、白馬節会に
俘囚
を進めず、違例とされる。,●天喜五年(一〇五七)、源頼義、北方の
俘囚
と結ぶ遠交近攻策。安倍頼時、死去。,●康平五年(一〇六二)七月二十六日、源頼義の請いにより、出羽国
俘囚
清原武則が陸奥国へ向う。
資料編1(古代・中世編)
([十世紀])
●天慶二年(九三九)四月以降、出羽国で
俘囚
・異類(北方人か)等反乱。鎮圧難航。
資料編1(古代・中世編)
([八世紀])
●神亀二年(七二五)閏正月四日、陸奥国
俘囚
を西国に強制移住。,●神護景雲元年(七六七)十一月八日、出羽国雄勝城下の
俘囚
、内属する。,●宝亀七年(七七六)九月十三日、陸奥国
俘囚
、大宰管内諸国に移配。,●延暦十四年(七九五)五月十日、
俘囚
を日向国に移配。,●延暦十八年(七九九)十二月十六日、
俘囚
を土佐国に配す。
通史編1(古代・中世)
(後三年合戦)
後三年合戦 前九年合戦の戦功により、清原武則は
俘囚
としては初めて鎮守府将軍に任ぜられた。
通史編1(古代・中世)
(中国製品の出土)
ごろに成立したとされる『新猿楽記』(史料一一一一)によると、商人の主領・八郎真人(はちろうまひと)は
俘囚
之地
通史編1(古代・中世)
(伊治公呰麻呂の乱)
それに対して栗原(くりはら)地方の蝦夷の首長呰麻呂は、
俘囚
(ふしゅう)の軍を率いて反乱し、伊治城を攻めて
通史編1(古代・中世)
(文室綿麻呂の登場)
確保できたかどうか疑わしいし、実際の戦果を挙げたのは、出羽守大伴今人(おおとものいまひと)の用意した
俘囚
兵三
資料編1(古代・中世編)
([十二世紀])
藤原清衡、
俘囚
之上頭を自称。
通史編1(古代・中世)
(平泉藤原氏)
清衡はその下で「
俘囚
之上頭」(史料五一四)として、国衙在庁の軍政官である国押領使のような職務を任されたらしい
通史編1(古代・中世)
(中世の境界認識)
東は阿古流や津軽・
俘囚
が千島なり共、左府住としりなば、駒に鞭をも打ぬべし。
資料編1(古代・中世編)
(第一章 綱文・史料一覧)
俘囚
の帰降を報告。,……………………………… 類聚国史 67 ●承和二年(八三五)六月二十七日、
俘囚
に授位。,陸奥国奥地の
俘囚
、内紛、警備に兵士差発。同月二十七日、さらに援兵を請う。また陸奥国に賑給。,出羽国
俘囚
に授位。,藤原清衡、
俘囚
之上頭を自称。
通史編1(古代・中世)
(三 中世寺社の存在形態)
天台宗的な宗教道場を営んだと伝えられる安倍氏の末裔の安藤氏は、『日蓮遺文』に (一)文永五年の比、東には
俘囚
通史編1(古代・中世)
(延久蝦夷合戦の実相)
陸奥守源義家は、前九年合戦のときと同様に「
俘囚
を追討す」と記した国解を提出しており、北奥の状況が前九年合戦
通史編1(古代・中世)
(四 執権時頼の東国廻国をめぐって)
(一)文永五年(一二六八)の比、東には
俘囚
をこり、西には蒙古よりせめつかひ(責使)つきぬ。,149 佐渡御勘気御抄 目録を見る 精細画像で見る 右の二つの史料の大意を、「文永五年の比、東に
俘囚
通史編1(古代・中世)
(新編 弘前市史 通史編1(古代・中世) 目次)
……… 142 三 北方との交易 ……………………………………………… 147 四
俘囚
長安倍氏
通史編1(古代・中世)
(一 古代における北奥の宗教世界)
また、安倍氏と同様に「東夷之遠酋」あるいは「
俘囚
之上頭」というごとく、夷社会の統轄者を自称する平泉藤原氏造営
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