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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編3(近世2) (修験)

修験 修験の大行院(だいぎょういん)は修験司頭として、真言宗醍醐(だいご)派(当山派)の大峰派に属する,元禄十五年(一七〇二)の「堂社縁起修験道由緒」(資料近世2No.四一二)によれば、大峰派=修験の山伏六六人,最勝院の修験支配のあり方は不明であるが、ここに属する修験は七人いて、その中心は心応院であった。,修験の中でも大円寺は真言宗高野山別行派に連なった。,図200.修験本末関係図(1) 図201.修験本末関係図(2) / 修験
通史編3(近世2) (社家・修験隊の組織)

社家・修験隊の組織 藩兵の払底が深刻化していた明治元年(一八六八)十二月五日に軍政局は、榎本艦隊がどこに,侵入するかもわからず、応援人数の配置も困難だとして、社家(しゃけ)(神官)および修験(しゅげん)(山伏,を、防備が手薄な所へ応援を命ずるとして、社家隊諸事取締役を斎藤長門・小野若狭・長利(おさり)薩摩へ、修験取締役,「御軍政御用留」十二月五日条によると、組織された社家・修験隊はそれぞれ二小隊ずつで、社家隊は小隊長の他,また、修験隊は伝令士三人、隊員三六人で、これも同様といえる。 / 社家・修験隊の組織
通史編1(古代・中世) (二 津軽の修験道と神社)

二 津軽の修験道と神社 一般に修験道とは、宗教現象的には原始的な山岳信仰に真言密教的な信仰が合体した,この一文で看過(かんか)してならないことは、この修験は出羽三山のひとつの「羽黒修験」である点である。,弘安四年に得ていた羽黒修験の先達職に代わって、今度はいよいよ熊野修験の世界にも手を染める。,羽黒修験をベースに始まった津軽の当山派に連なる熊野修験の世界は、「蝦夷管領」から「日ノ本将軍」に名を替,「蝦夷管領」安藤氏が「羽黒派」修験と「熊野派」修験の先達・旦那職であったことを前にみたが、実はその一族 / 二 津軽の修験道と神社
通史編3(近世2) (修験道(しゅげんどう)の整理)

神仏分離は当然、彼ら修験にも及んだ。  ,もし修験者が持宮を失うことで生活難に陥る場合は、修験者に戻ったうえで、神主となり神職となる願いを出すこと,この当時、弘前藩では九三社が修験者の持宮であったが、内七〇社は修験者では維持できないので、仏体を除去して,祭祀が認められたが、その修験者が復飾神勤した場合は最寄りの修験者に譲られることとなった。,このように藩は修験道より仏教色を徹底して取り除いたため、多くの修験者は復飾神勤願いを出して、生活の方途 / 修験道(しゅげんどう)の整理
通史編3(近世2) (大行院)

大行院 大行院(だいぎょういん)は、真言宗醍醐寺三宝院(現京都市)の末寺で、領内修験司頭として大峰派,、羽黒派の修験=山伏を統轄した。,「堂社縁起修験道由緒」(資料近世2No.四一二)によると、近江国飯道寺岩本院の袈裟筋にあたる大行院永尊,は、慶長十七年(一六一二)、津軽に来着、正保元年(一六四四)、修験司頭を命じられ、寺領三〇石が寄進された,明治三年(一八七〇)、神仏分離により、修験は橋雲寺から移された天満宮の祠掌となった。
通史編3(近世2) (神職の扱い)

また、社家・修験・浄土真宗は家族に次、三男という男性を抱えているため、これらに対し慶応元年(一八六五),明治二年(一八六九)社家隊は深浦、修験隊は赤石方面へ出陣し、同三年士族卒以外は兵隊禁止となり、解兵された,津軽領では神職が「霞」と呼ぶ信仰圏を持ち、修験者には霞がなかった。,このため、宝暦年間(一七五一~六三)においても、火防・地祭の神事で神職と大行院配下の修験者との抗争が続
通史編3(近世2) (山伏にあるまじき行為)

山伏にあるまじき行為 「国日記」寛延三年(一七五〇)五月三日条によれば、大重院(だいじゅういん)の修験,(しゅげん)(山伏)が修験にあるまじき行為をしたため、薬師堂(やくしどう)からただちに追院(ついいん)
通史編3(近世2) (国上寺)

明治四年(一八七一)、国上寺はもともと神仏混淆でないため存続することになったが、修験・寺禄廃止のため、,常成院・大浄院・法光坊・浄覚坊・泉正院の修験は帰農し、廃院となった。
通史編3(近世2) (神仏分離政策の転換)

また、従来こうした仏体神号の堂社を拠点に活動してきたのは修験者であり、これを契機に藩では修験者の復飾神勤,その結果、明治三年末には一六人しか復飾する者がいなかった修験者は、明治四年に入って二九名に増加し、修験者
通史編3(近世2) (橋雲寺)

修験・寺禄廃止によって、南光坊・杉本坊・見了院・全蔵院・全昌院・法学院の修験は帰農し、廃院となった。
通史編3(近世2) ((二)神職組織)

(二)神職組織 各堂社には、それぞれ仏教系の修験と神道系の神職が存在してきたが、その実態は明らかでない
通史編3(近世2) (戸口と住民構成)

このほか、寺院九一宇、庵三宇、社家二五戸、修験(しゅげん)一一戸、祠堂(しどう)(寺で檀家の位牌を祀る,弘図八)では、武家は御目見得以上・以下を合わせて二万一〇〇四人、町人は一万四五四〇人、寺堂は三一一人、修験
通史編3(近世2) (藩政後期)

2No.三九九)は、「貞享検地帳」、正徳の「寺社領分限帳」と照合しており、寺院二七八ヵ寺、神職一一四人、修験者八二人,これには藩主・藩からの下賜品を細大漏らさず記載したほか、在村小社の堂社の管理者である神職・修験の把握も,192.神社微細社司由緒調書上帳  慶応元年(一八六五)、藩は軍制改革に着手し、寺社奉行は神職・修験,明治二年(一八六九)、奥羽列藩同盟の攻撃に対し社家隊は深浦方面、修験隊は赤石方面へ出兵したが、同三年に
通史編3(近世2) (心応院)

元禄十五年(一七〇二)の「堂社縁起修験道由緒」には、最勝院に属する山伏七人がみえ、その中心は心応院とみられるが
通史編1(古代・中世) (得宗領・安藤氏との関わり)

中心に渡り歩いた、幕府と密接にかかわる禅僧集団、あるいは後述の安藤氏と密接にかかわる時衆集団、ないしは修験
通史編3(近世2) (神宮寺)

熊野系の修験である福王寺玄蕃が乳井(にゅうい)毘沙門宮と兼帯したが、のち大光寺城主瀧本重行によって滅ぼされた
通史編1(古代・中世) (秋田の唐糸伝説)

羽州秋田郡土崎湊納坂二七日山光明寺御本尊釈迦如来並寺之縁起』では、唐糸は「鎌倉金沢の浜」から「空船(からぶね)」に乗せられて流され、「津軽外カ浜」へ漂着して修験者
通史編3(近世2) ((二)本末制と僧録制)

本末制と僧録制 江戸幕府は慶長年間(一五九六~一六一四)から、中世以来の特権を保持してきた仏教諸宗派・修験
通史編3(近世2) (箱館戦争期の兵員補充)

その不備を補うために組織されたのが農兵隊や町兵隊、修験(しゅげん)隊などであった。
通史編3(近世2) (最勝院)

最勝院は社家頭小野若狭・長利薩摩を通じて領内の神職大半を支配し、心応院を通じて修験のほとんどを支配するという
通史編2(近世1) (僧侶・神官対象の司法制度)

われ、末寺の起した事件は僧録所(そうろくじょ)(例―浄土真宗では弘前城下の真教寺(しんきょうじ))・修験司頭
通史編3(近世2) ((二)富籤興行)

興行主は黒石上ノ坂(かみのさか)宮・大円寺・大行院・茶臼館(大行院配下の修験)・本行寺・東照宮神主山辺丹後,天保九年(一八三八)、修験の心応院(しんのういん)から二回の富籤発行願いが出された。
通史編3(近世2) (居開帳)

湯口(現中津軽郡相馬村)の修験大重院は、元禄十一年(一六九八)、堂社修復のため、薬師如来の開帳を地元と,宝永七年(一七一〇)に堂社が焼失したため、再建のための開帳が青森・鰺ヶ沢町で認められ、修験触頭大行院・,図28.多賀神社(清水観音堂)  広船村(現南津軽郡平賀町)の修験広福院は、文久元年(一八六一)
通史編1(古代・中世) (一 古代における北奥の宗教世界)

18) 浪岡牛頭天王 同右 (19) 外浜十二所権現 同右 (20) 田舎館大日如来堂 同右 修験,大蔵院 (21) 広船千手観音堂 同右 修験 広住院 本尊は恵心作と伝える (22) 桜庭千手観音堂,聖観音は真言宗に属し、続く深沙大権現・熊野三所大所大権現・八幡太神宮は天台宗、それ以外は不詳か神職・修験,このように、神社の別当が各々、真言宗・天台宗および神職や修験に所属していたこと自体、北奥地域の神仏習合,にあり (57) 円明寺 浄土真宗 洛陽東本願寺 明応八年 初め、外浜油川にあり (58) 長栄寺 修験
通史編1(古代・中世) (嘉元鐘銘文に登場する鎌倉武士)

また福王寺は、承暦二年(一〇七八)草創と伝えられる熊野系の修験寺で、ここからは昭和三十二年(一九五七)
通史編2(近世1) (文久の面改め)

また関心事の一つは、前述のとおり武士や修験・神職の商売行為の把握である(第一〇条)。
資料編3(近世編2) (【解説】)

享和のものは藩主や藩からの下賜品を細大漏らさず記載するほか、在村小社の堂社と管理者である神職・修験をも
通史編3(近世2) (宗教と交通統制の低下)

こうした無人・無住の小堂・小社は怪しげな旅の僧侶や山伏(やまぶし)・修験者(しゅげんじゃ)などの格好(
通史編3(近世2) (出開帳)

深浦村(現西津軽郡深浦町)の修験大善院は、享保十七年(一七三二)、飛驒の匠(ひだのたくみ)作の薬師堂修復
通史編3(近世2) (戦場に駆り出された民衆)

戦場に駆り出された民衆 さて、戊辰戦争ではこれまで述べた農兵・社家隊・修験隊などのほかに、多くの農民
通史編3(近世2) (三 八幡宮の祭礼と山車の運行)

明治二年(一八六九)、政府の神仏混淆(しんぶつこんこう)廃止の方針から、神輿渡御に最勝院と修験の供奉するのを
通史編1(古代・中世) (四 中世津軽の宗教世界の特色)

既述の安藤氏の津軽山王坊や修験的先達をはじめ、北畠氏の京徳寺、武田氏の宗徳寺、津軽氏の藤先寺、大浦氏の
通史編3(近世2) (諸家業と職人)

医学館御製薬持廻小使 1 御雇鳶 8 御雇小人 4 馬喰頭 1 馬喰締方 1 時鐘撞 5 修験
通史編1(古代・中世) (新編 弘前市史 通史編1(古代・中世) 目次)

 518    一 中世寺院の建立 ……………………………………………  518    二 津軽の修験道
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