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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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通史編1(古代・中世)
(二 津軽の修験道と神社)
二 津軽の
修験道
と神社 一般に
修験道
とは、宗教現象的には原始的な山岳信仰に真言密教的な信仰が合体した,奈良時代の役小角(えんのおづの)を初祖とするこの
修験道
も、平安中期の聖宝を中興の祖として、以後、天皇・,その教習にも宗派的な傾向が見えはじめ、園城寺聖護院系の「本山派」と、醍醐寺三宝院系の「当山派」の両派が
修験道
,とすれば、津軽地域における中世の
修験道
世界とは、まさしく、鎌倉幕府の「禅密主義」の宗教政策の延長上に花開,まず、地域内において、中世
修験道
に関する史料上の初見は、次の一文である。 / 二 津軽の
修験道
と神社
通史編3(近世2)
(修験道(しゅげんどう)の整理)
修験道
(しゅげんどう)の整理 神仏分離令は神体・仏体を厳しく峻別(しゅんべつ)した宗教政策であったが,明治三年(一八七〇)閏十月、社寺署は
修験道
に関して四ヵ条の触れを発した。,このように藩は
修験道
より仏教色を徹底して取り除いたため、多くの修験者は復飾神勤願いを出して、生活の方途 /
修験道
(しゅげんどう)の整理
通史編3(近世2)
(心応院)
元禄十五年(一七〇二)の「堂社縁起
修験道
由緒」には、最勝院に属する山伏七人がみえ、その中心は心応院とみられるが
通史編3(近世2)
(大行院)
「堂社縁起
修験道
由緒」(資料近世2No.四一二)によると、近江国飯道寺岩本院の袈裟筋にあたる大行院永尊
通史編3(近世2)
(修験)
元禄十五年(一七〇二)の「堂社縁起
修験道
由緒」(資料近世2No.四一二)によれば、大峰派=修験の山伏六六人
通史編1(古代・中世)
(新編 弘前市史 通史編1(古代・中世) 目次)
518 一 中世寺院の建立 …………………………………………… 518 二 津軽の
修験道
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