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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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通史編3(近世2)
(法源寺)
慶安四年(一六五一)に
元寺町
から新寺町へ移った。,『新撰陸奥国誌』は、浪岡から
元寺町
へは慶長十一年(一六〇六)、新寺町へは慶安三年に移ったという。
通史編4(近・現代1)
(含英女小学創設)
校舎は
元寺町
森岡氏邸宅(旧藩家老の家柄、現桜大通りの土地)に設けられたが、同邸はほどなく警察署分署となったので,写真55 明治初期の含英女小学(
元寺町
) 表16 弘前各小学(明治八年) 名 称 地 名 設立年,白銀女小学 同 白銀町 同 八年 旧官舎 公有 一 三 - 二一〇 含英女小学 同
元寺町
通史編3(近世2)
(正蓮寺)
『新撰陸奥国誌』は、栄存は伊勢国(現三重県)桑名の出身で、寛永年間(一六二四~四三)に
元寺町
に創建し、
通史編3(近世2)
(本行寺)
本行寺 本行寺(ほんぎょうじ)は、慶長十七年(一六一二)、
元寺町
にあった法立寺を改称したことに始まる,慶長年間(一五九六~一六一四)、法立寺が堀越より弘前
元寺町
へ移ると、信枚は本行寺と改称させようとした。
通史編4(近・現代1)
(時敏小学校の創設)
、小人町、春日町、馬喰町、亀甲町の一二ヵ町)と盈進学区(親方町、百石町、百石町小路、一番町、東長町、
元寺町
,、鉄砲町、上鞘師町、下鞘師町、
元寺町
小路、下白銀町の一一ヵ町)とに分かれていた。
通史編3(近世2)
(教応寺)
.四〇九)、『新撰陸奥国誌』は、開基を了竜とし、石川大膳大夫の家来中山冨之進宗種が出家して正保元年、
元寺町
通史編4(近・現代1)
(戸長の配置)
清水慶太郎 親方町 百石町 同細小路 一番町 小田桐〓 東長町
元寺町
, 鉄砲町 上・下鞘師町
元寺町
小路 下白銀町 佐野覚蔵 土手町
通史編4(近・現代1)
(道路改修問題と佐和知事)
経過市町村 終尾 第41号国道 青森市長島 滝内村、新城村、大杉村、浪岡村、藤崎村、和徳村、弘前市
元寺町
,郡道 中津軽郡役所 弘前市土手町 弘前市山道町、清水村富田 中津軽郡役所 停車場道 弘前停車場 弘前市
元寺町
,和徳村 弘前停車場 黒石道 弘前市土手町 代官町、和徳村、豊田村、猿賀村 尾上村尾上 国幣社道 弘前市
元寺町
通史編3(近世2)
(西光寺)
弘前城下の形成に伴い、
元寺町
へ移った跡の草庵は、のちに西光院となる。
通史編4(近・現代1)
(市会と市役所開庁)
ここは、旧東長町外廿二ヶ町戸長役場の建物を買収したもので、翌年
元寺町
一番地の中津軽郡役所跡に移った。,写真61
元寺町
の市庁舎(明治25年新築) 中津軽郡各村の初代村長は次のとおりである。
通史編3(近世2)
(西福寺)
「浄土宗諸寺院縁起」は、堀越城下に創建し、慶長年間(一五九六~一六一四)に弘前城下
元寺町
の貞昌寺門内に
通史編3(近世2)
(天徳寺)
「浄土宗諸寺院縁起」は、弘前城下形成により、大浦城下から
元寺町
へ移ったとする。
通史編3(近世2)
(法立寺)
文禄三年(一五九四)に堀越、慶長十六年(一六一一)
元寺町
へ移転、同十七年、信枚は法立寺を本行寺と改称させ
通史編3(近世2)
(専徳寺)
正徳元年(一七一一)の「寺社領分限帳」によれば、慶長七年(一六〇二)、一町田村より
元寺町
へ移り、それから
通史編3(近世2)
(円明寺)
慶安二年(一六四九)、
元寺町
において類焼し、翌三年新寺町へ移った。
通史編4(近・現代1)
(城西小学校創立)
北横町、茶畑町、茶畑新割町 和徳 中初 亀甲学区 二 親方町、百石町、百石町小路、一番町、東長町、
元寺町
,、鉄砲町、○上鞘師町、下鞘師町、
元寺町
小路、下白銀町、笹森町、長坂町、蔵主町、大浦町、田町、田茂木町、
通史編4(近・現代1)
(学区の改変)
亀甲町、田茂木町、田町、小人町、若党町、春日町、禰宜町、馬喰町、長坂町、笹森町、蔵主町、大浦町、東長町、
元寺町
通史編5(近・現代2)
(子ども会の動向)
毎年の定期発表会(翌年から
元寺町
の弘前東宝劇場を使用)のほかNHKのラジオ番組に出演し、また、夏休みや,笹森町 浜の町 和徳町 馬屋町 鍛冶町 新鍛冶町 銅屋町 南川端町 本町 亀甲町 田茂木町 仲町 下
元寺町
通史編4(近・現代1)
(芝居小屋と寄席)
芝居小屋と寄席 明治以来、市民に親しまれた芝居小屋として
元寺町
の柾木座と茂森町の茂森座があり、ともに
通史編4(近・現代1)
(大区小区制の成立)
津軽郡第三大区 一小区 弘前町(八九ヵ町) 本町 上白銀丁 下白銀丁 元大工町 元長町 親方町
元寺町
, 一番丁 鉄砲町 上鞘師町 下鞘師町
元寺町
小路 東長町 百石町 百石町小路 田町 田茂木町 禰宜町
通史編4(近・現代1)
(青森県立弘前女子師範学校)
弘前に女子師範学校を設置するが、入学者は学費など一切自弁で、四〇人を限って募集することにし、校舎は弘前
元寺町
通史編2(近世1)
(城下弘前の変化)
このため、寺町は以後本寺町(
元寺町
)と呼ばれるようになる。,第二は
元寺町
に新たな町割りがされ、本寺(もとてら)町一丁目(現一番町)・白銀(しろがね)町(現鉄砲町),・鞘師町が二町(現上・下鞘師町)・本寺町五丁目(現
元寺町
小路)ができたこと。
通史編5(近・現代2)
(朝陽・時敏校の貸与)
時敏校では校内を整備のうえ十月十日古巣の
元寺町
校舎に帰り、一年三ヵ月ぶりで分散授業や二部授業は解消した
通史編5(近・現代2)
(道路の整備)
、国道第五号(注、現国道七号)路線延長六百二十六間 幅員五間 同市大字土手町一番町地内弘前市元標ヨリ
元寺町
弘前警察署前
通史編3(近世2)
(貞昌寺)
弘前城下の形成に伴い、大光寺から
元寺町
へ移ったが、正保二年(一六四九)の火事で類焼し、翌三年に新寺町へ
通史編3(近世2)
(真教寺)
現石川県)出身の浄理が坪貝(つぼかい)村(現中津軽郡岩木町)に創建し、大浦城(同町)が弘前へ移る時に
元寺町
通史編4(近・現代1)
(柾木座焼失と弘前座)
柾木座焼失後、
元寺町
の有力者たちにより町内繁栄策として劇場再興が計画され、酒造界の風雲児・福島藤助が社長
通史編5(近・現代2)
(都市計画と道路建設)
3.3.8 紺屋町和徳町線 25 2,270 昭和53年1月14日 1,053 3.3.10
元寺町
向外瀬線,日 0 3.4.3 上白銀町桔梗野線 16 3,090 〃 昭和48年11月22日 0 3.4.4
元寺町
小沢線
通史編4(近・現代1)
(中津軽郡公立弘前中学校)
それに応じて寄付金が集まり、
元寺町
(現弘前文化センター敷地)に新校舎の設立が決定した。
通史編5(近・現代2)
(見直したい弘前市の記録)
昭和五十三年に史跡指定されているが、在府町にあった武家屋敷の旧梅田家、
元寺町
にあった藩医の旧伊東家も移築,土手町、鍛冶町をはじめ、代官町、桶屋町、百石町、親方町、紙漉町、紺屋町、若党町、五十石町、元大工町、
元寺町
通史編4(近・現代1)
(町並みの推移)
商業の中心地域が従来の本町から、土手町・
元寺町
・百石町にその繁華を移したのもこのころであったが、三十七年,それから弘前の夜景は、本町・
元寺町
はこの地目抜の箇所だけに、料理店・旅人宿・銀行・警察署・郵便局・芝居座
通史編5(近・現代2)
(ホーリネス教会への弾圧)
戦争末期には
元寺町
の教会堂も軍に徴発され、逓信省(ていしんしょう)女子訓練所となったり、軍の宿営所となったりし
通史編4(近・現代1)
(洋風建築と蔵造り)
、明治七年に本町一丁目に建った佐々木元俊邸だが、その後、百石町小路の天主堂が明治十五年に建ち、また、
元寺町
通史編4(近・現代1)
(青森県立弘前中学校の変遷)
明治二十二年(一八八九)五月一日、青森尋常中学校は弘前側の運動によって、青森から弘前市
元寺町
に移転した,県の告示第四三号に「弘前市大字
元寺町
ヘ移転シ本月十日ヨリ授業ス」という、青森県知事鍋島幹の名による通告
通史編5(近・現代2)
(新制中学校の開校式)
校名 校長 職員数 生徒数 学級数 所在地 学区 第一中学校 土屋直好 二二 1 三五五 一五 弘前市
元寺町
通史編4(近・現代1)
(茂森座から柾木座へ)
茂森座から柾木座へ 常設の芝居小屋は、旧藩時代からの茂森座と、明治十三年の火災の後復興した
元寺町
の柾木座
通史編4(近・現代1)
(出家と禅画)
三十七年帰国して順天堂病院に勤務するが、間もなく弘前に帰り、
元寺町
に「弘前佐藤医院」を開業、市民から「
通史編4(近・現代1)
(その他の会社)
海産物依託販売 明治34年4月 富田町 株式会社弘前座 35,000 35,000 建物賃貸 大正8年4月
元寺町
通史編5(近・現代2)
(一 小学校教育)
六二八 一五 25 小学校 和徳 代官町一〇七 乳井春雄 三〇 一四一五 二六 26 小学校 時敏
元寺町
八三
通史編3(近世2)
(南溜池の成立)
.正保2年「津軽弘前城之絵図」南溜池部分 慶安二年(一六四九)五月の寺町大火によって、現在の
元寺町
通史編4(近・現代1)
(明治十四年の巡幸)
弘前町に入った一行は、和徳町、東長町、
元寺町
を町民垣をなして奉迎するなかを午後四時、弘前本町の行在所に
通史編4(近・現代1)
(弘前女学校の創設)
そこで、牧師本多庸一は、子女を函館に遊学させている事実から弘前においても容易に募集できると考え、
元寺町
通史編5(近・現代2)
(市立商業高校と市立女子高校)
一方、終戦時、
元寺町
にあった市立高女は、戦災に遭った青森師範学校を受け入れるために山道町の旧家政女学校校舎
通史編4(近・現代1)
(藩祖三百年祭)
元寺町
開雲堂では、記念菓子として卍もなか・弘前おこし・津軽香楽甘(こうらくかん)などを製造販売した。
通史編4(近・現代1)
(食生活の変化)
三十一年に佐野盈之進が日新堂という牛肉販売店を一番町に開いたが、たちまち
元寺町
に店を拡張し、また支店を,
元寺町
の八戸煎餅屋の役者煎餅が珍しがられ、同町の阿部煎餅屋が、ごま・くるみ・のり・たまご入りなどの新しい
通史編5(近・現代2)
(善蔵と洋次郎)
葛西善蔵全集 別巻』昭和五十年 津軽書房刊)によれば、「十三日、帰郷、石坂洋次郎、平川力の世話で弘前市
元寺町
斎吉旅館
通史編4(近・現代1)
(日清戦争後の会社、銀行と工業生産)
上 弘前商業銀行 同 百石町 同上 200,000 127 同 仝 上 津軽銀行 同
元寺町
通史編4(近・現代1)
(弘前観桜会の幕開け)
元寺町
、百石町などの大通りでは、日の丸を掲げ造花を飾りつけ、中には紅白の幕を張りめぐらせている商店もあった
資料編2(近世編1)
([口絵])
大火に遭う前の
元寺町
の寺院街が描かれている。
通史編5(近・現代2)
((二)福士幸次郎の影響)
父は弘前市
元寺町
の「柾木座」の座付き俳優であったが、二十三年巡業失敗で全くの失業状態となり、現在の青森市
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