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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編3(近世2) (西光寺)

西光寺 西光寺(さいこうじ)は、浪岡で死去した法然の弟子金光に始まるという。,弘前城下の形成に伴い、元寺町へ移った跡の草庵は、のちに西光院となる。 / 西光寺
通史編3(近世2) (普光寺)

普光寺 普光寺(ふこうじ)は、光海が開山となって和徳村(現市内)に創建され、寛永十五年(一六三八)、,「津軽一統志」には、宝永五年(一七〇八)に「住吉大明神社地」を定めたとあるが、この住吉宮は普光寺の北隣 / 普光寺
通史編3(近世2) (泉光院)

泉光院 泉光院(せんこういん)は、慶長十年(一六〇五)、大光寺村籠田(現南津軽郡平賀町)に創建され、 / 泉光院
通史編3(近世2) (正光寺)

正光寺 正光寺(しょうこうじ)は、文禄元年(一五九二)、猿賀(さるか)村(現南津軽郡尾上町)に創建された / 正光寺
通史編3(近世2) (陽光院)

陽光院 陽光院(ようこういん)は、桜庭村(現市内)に開山を喜山として創建された。 / 陽光院
通史編1(古代・中世) (大光寺新城跡)

大光寺新城跡 大光寺新城跡(写真217)は南津軽郡平賀町字三村井に所在する。,写真217 大光寺城跡空撮  大光寺新城跡の発掘調査は昭和六十三年(一九八八)から土地開発に伴い,写真218 大光寺新城跡検出の土橋  出土遺物は武器・武具関係が多く、武器としては鉄鏃(蕪(かぶら,とくにこの大光寺新城は出土品が多い(図80)。,図80 大光寺新城跡出土の遺物 / 大光寺新城跡
通史編1(古代・中世) (大光寺楯の合戦)

大光寺楯の合戦 元弘三年から翌年初めにかけて、ついに大光寺楯を中心に朝廷方と幕府方との間で戦いが始まった,曽我光高も一族郎等とともに「半死半生」の手傷を負いながら奮戦し、勝利に貢献したようである(史料六三〇・,光高は戦後ただちに全所領の安堵を申し出ている(史料六三二・六三三)。,またこの光高は、北条方が小鹿島・秋田城に楯を築いて抵抗し、矢立峠あたりから津軽方面に侵入する動きを示したのに / 大光寺楯の合戦
通史編1(古代・中世) (曽我光弘とその妻)

曽我光弘とその妻 惟重と伊豆田所女房の子が弥二郎光弘である。,一二三九)「北条泰時書下状」(史料五六五)、仁治三年(一二四二)「北条時頼袖判下文」(史料五七三)では「光弘,曽我系図の宝治元年(一二四七)「北条時頼袖判下文」(遠野南部家文書)では「光広」と見え、またのちの建武元年頃,のものと推定される「曽我光高申状」(史料六五八・写真120)では「弥二郎入道光信」とも記されているが、,写真120 曽我光高申状  またその妻は、光弘死後「後家尼」と呼ばれ(史料五八〇)、おそらく一期分 / 曽我光弘とその妻
通史編1(古代・中世) (曽我貞光とその家族)

この光高は建武二年(一三三五)ころ、名を貞光(さだみつ)と改めている。,以後、祖父泰光や兄資光の名乗りである「与(余)一」を継ぎ、「与一太郎貞光」(史料六六五ほか)、「与一左衛門尉,資光には「いぬなりまろ」という遺児もいたが(史料六二三、貞光を叔父と呼んでいる)、それにもかかわらず貞光,経光は貞光の所領に乱入しているが、あるいは資光・経光とは他腹の貞光系へ嫡流が移っていくことへの不満が、,このことからすると、経光は資光が「一子」(斎藤文書、遠野南部家文書・正和二年)と呼ばれていた以後、光頼 / 曽我貞光とその家族
通史編1(古代・中世) (曽我貞光の奮戦)

曽我貞光の奮戦 しかし翌暦応二年には、陸奥国内では南朝方が必死の巻き返しを謀(はか)ってくる。,同年三月には北条一族と称するものを筆頭に、南部氏や成田氏・工藤氏らの南朝方が大挙して曽我氏本拠の大光寺外楯,合戦奉行安藤師季(もろすえ)とともに曽我貞光は奮戦するが、かなりの犠牲を払うこととなった。,六月、尊氏の御教書を得た曽我師助は、貞光とともに南部政長の本拠糠部に進撃した。,写真155 曽我貞光軍忠状案  この間、貞光は暦応三年には本宗家の師助と同じ左衛門尉に昇格し(史料六八三 / 曽我貞光の奮戦
通史編5(近・現代2) (観光協会の事業計画)

観光協会の事業計画 新生なった弘前観光協会はどのような観光事業を展開しようとしたのだろうか。,まず基本方針は「全国三十五観光都市の一として東北では仙台に次ぐ文教観光の都市」と自覚し「これを世に広く,そのほか観光の宣伝紹介、施設の整備促進、郷土文化の育成や観光土産品の改良指導、観光事業機関との連絡協調,四月上旬…観光ドラマ放送、観光弘前小唄放送、観光弘前伝説放送   四月中旬…観光民謡放送、サービス講習会,、観光弘前写真展、観光関係者協議会   四月下旬…観光案内所設置、観桜会、姫コンテスト、芸者手おどり / 観光協会の事業計画
通史編1(古代・中世) (曽我光頼とその家族)

曽我光頼とその家族 泰光と慈照との間の子と目されるのが、太郎光頼(みつより)である(史料五九五~五九九,「曽我泰光譲状」によれば、泰光には他に「いや(弥ヵ)二郎」「三郎光俊」、養子として「二郎八郎」(史料五九八,光頼に渡った所領は、のちに「沙弥光称」よりその子に譲られているので(史料六一四・六二三ほか)、曽我系図,にあるように光称は光頼の法名であろう。  ,」(史料六一一)・「余一資光」(史料六三二)である。 / 曽我光頼とその家族
通史編5(近・現代2) (合併前後の観光対策)

合併前後の観光対策 市町村合併前後、観光地弘前の名声は徐々に高まってきていた。,だが肝心の観光客受け入れ態勢はどうだったのだろうか。  ,とくに市の玄関口である駅前に観光案内所がないことは、観光都市として致命的な欠陥であった。,昭和二十九年(一九五四)段階で、市には独立した観光課もなく観光客受け入れ対策も確立されていなかったのである,写真229 弘前市観光案内所と馬車(昭和33年) / 合併前後の観光対策
通史編4(近・現代1) (愛光幼稚園の設立)

愛光幼稚園の設立 明治四十年(一九〇七)四月、弘前教会宣教師ミス・グリフィスが鍛冶町の民家を借り受けて,愛光幼稚園の特徴は地域の労働者の幼児を収容して、保育しようとしたことであった。,愛光幼稚園はそれら幼児を収容して保育に当たろうとしたもので、いわば社会奉仕の念に燃えて設立された幼稚園,愛光幼稚園の定員は六〇人、三年保育を行い、保育には外国人婦人宣教師が当たった。  ,なお、愛光幼稚園は昭和二十六年(一九五一)に若葉幼稚園と合併した。 / 愛光幼稚園の設立
通史編5(近・現代2) (弘前観光協会の設立)

弘前観光協会の設立 弘前市は戦後の世相が観光に力を注いでいることにちなみ、市にも観光政策を本格的に導入,事実、弘前観光協会設立の趣意書には「終戦後の我が観光界の今日に即し能(よ)くその目的達成を計り個々の関係機関,弘前市内には協会設立の趣意書にうたうだけの観光名所が多数あった。,こうして昭和二十五年(一九五〇)七月十二日、「弘前市及びその近郷に於ける観光諸施設を急速に整備し、観光客,観光協会は弘前市だけでなく、市を取り巻く広域的発展を見込んでいたのである。 / 弘前観光協会の設立
通史編1(古代・中世) (曽我泰光とその妻)

曽我泰光とその妻 光弘の子が余(与)一左衛門尉泰光である(史料五九五~五九九ほか)。,泰光の妻は、高麗氏出身の蓮阿(れんあ)の女子慈照(じしょう)である(遠野南部家文書・正慶二年〈一三三三 / 曽我泰光とその妻
通史編5(近・現代2) (観光協会をめぐる紛糾)

観光協会をめぐる紛糾 昭和二十五年に設立された弘前観光協会は、活動が期待されていたのにもかかわらず、,もともとこの観光協会自体は、戦後毎日新聞社が「日本観光百選」という事業を企画し、弘前市を入選させるために,彼らは市当局の観光行政だけでは観光都市弘前をつくれないと見て、行政と市民をつなぐために新たな観光協会という,そこで彼らは対策を練る研究組織として、昭和二十九年になってから弘前市観光研究会をつくり、「新しい観光協会,その結果、新しい観光協会の発足は観光研究会に引き継ぐことになった。 / 観光協会をめぐる紛糾
通史編5(近・現代2) (前田光世の記録)

前田光世の記録 特筆に値する前田光世の偉大さを記録したのが、旧制弘前中学時代の友人薄田斬雲(うすたざんうん,)である(『前田光世の世界制覇』、資料近・現代1No.七八一)。,本書は日本柔道家前田光世氏の通信百余通を資料にして作成されたものである。 / 前田光世の記録
通史編5(近・現代2) (戦後の世相と観光政策)

戦後の世相と観光政策 観光といってもいまさら当たり前のように感じるかもしれない。,しかし今日でいう観光の概念が本格的に国民全体に行き渡ったのは戦後からである。,敗戦後の打ちひしがれた国民に夢を与えたものは観光である。,観光に焦点を当て産業化したのは高度経済成長前後あたりと思われる。,この時期に弘前市も観光という目玉産業に着目した。 / 戦後の世相と観光政策
通史編5(近・現代2) (観光客受入態勢の必要性)

観光客受入態勢の必要性 観光案内所の駅前近辺への設置については、市民の間からも要望が高かった。,事実、弘前市の表玄関口である駅前に案内所がなかったため、満足な観光ができず、不満を抱えて帰省した観光客,だが『陸奥新報』は、観光案内所などの施設は、観光客集客の大事なサービスであり、私営にすれば維持経営上使用料金,駅前観光案内所に限らず、観光都市を目指すためには観光客誘致のための宣伝活動や、交通網の整備、観光施設の,けれどもより重要なことは、観光客受け入れ態勢を充実させるために、市当局・商工会議所・観光協会など、関係当局 / 観光客受入態勢の必要性
通史編3(近世2) (学びの光景)

学びの光景 稽古館での授業形態は学習段階に応じた方法がとられていた。 / 学びの光景
通史編5(近・現代2) (吹奏楽金賞が光る)

吹奏楽金賞が光る 創設以来、他校に比べると日は浅いが、弘前南高校の部活動は着実な成果を上げている。 / 吹奏楽金賞が光る
通史編5(近・現代2) (若葉・愛光幼稚園の合併と聖愛幼稚園)

若葉・愛光幼稚園の合併と聖愛幼稚園 北瓦ヶ町の私立若葉幼稚園は、私立弘前女学校幼稚園が独立の園舎を建築,一方、私立愛光幼稚園は明治四十一年三月二日、桶屋町に若葉幼稚園の姉妹園として開園された。 / 若葉・愛光幼稚園の合併と聖愛幼稚園
通史編1(古代・中世) (津軽曽我氏の所領・名取郡)

津軽曽我氏の所領・名取郡 光弘は宝治元年(一二四七)七月、宝治合戦の勲功の賞として陸奥国名取郡土師塚,名取郡四郎丸郷のことは、嘉元二年の泰光の譲状に、「四郎丸うち、泰光かちきやうふん(知行分)」を「一ふんもよけす,」嫡子光頼に譲渡した地として、その名が初めてみえる(史料五九六)。,嘉暦二年の光頼の光高に対する譲状では、「四郎丸郷おたかせの村」を譲渡している(史料六二七)。,泰光知行分の一部を指すのかについては明確ではない。
通史編1(古代・中世) (津軽曽我氏の所領・岩楯村)

光弘についてはこの地の安堵の史料が確認できないので、あるいはこの二年の間に光弘に譲渡・安堵されていた可能性,〇)、光弘の子の泰光への譲渡・安堵の時期はわからない。,泰光は嘉元二年(一三〇四)の譲状によって嫡子光頼に譲渡し、翌年、その行為について得宗北条貞時から外題安堵,光頼は嘉暦元年(一三二六)、安藤の乱の激戦、西浜合戦(史料六二三)に出陣するに際して(嫡子資光は先年、,同じころ光高は、岩楯村内にあった、曽祖父光信(光弘)の女子跡の知行も願い出たりしている(史料六五八)。
通史編1(古代・中世) (嫡流と庶流)

嫡流と庶流 曽我系図では「小五郎真光」の子として「太郎兵衛尉助光」と「小二郎雅(惟)重」とを挙げている,右に記したように文書でも惟重は五郎廣忠の「次郎」であったことが確認できるから、従来の通説では、助光の系統,を大光寺に攻めたと推測されてきた。,嫡流助光の系統が大光寺にあり、庶流惟重の系統が岩楯に本拠を置いたのだともされてきた。,ただ現存の古文書では、助光の系統が大光寺に拠点を置いたという確証もないので、今のところ断案は保留しなければなるまいが
通史編1(古代・中世) (片穂家から伝領した所領)

この地頭職は正和二年(一三一三)、「ありわう」の子、光頼嫡子資光へ譲渡された(斎藤文書、遠野南部家文書,(中略)恐れなから」と、父光頼に譲渡され(斎藤文書、遠野南部家文書)、さらに正中三年(一三二六)、資光,以後、沼楯村については、資光は件の安藤の乱鎮圧への出陣に際して、やはり父光頼への譲状をしたためているが,(史料六一四)、のちに正中三年(一三二六)、光頼から光高へ譲渡された(史料六二三)。,しかし光高(貞光)の後醍醐方への忠節にもかかわらず、建武元年(一三三四)、沼楯村は「安保弥五郎入道」へ
通史編1(古代・中世) (津軽曽我氏の所領・平賀郷)

したがって、あるいは光弘の実際の知行開始はもっと早かった可能性もある。  ,その後、平賀郷全体について光弘、そして泰光と、嫡子による相続がなされたのであろうが、譲渡・安堵の時期については,泰光は嘉元二年(一三〇四)の譲状で、養子の二郎八郎分・三郎光俊分を除いて嫡子光頼に譲渡し、翌年、得宗北条貞時,泰光の養子の「二郎八郎」とは、「いや二郎」に代わる名乗りであったのかもしれない。  ,嫡子光頼は、嘉暦二年(一三二七)に、平賀郷を光高に譲渡する(史料六二七)。
通史編1(古代・中世) (南北朝の動乱と曽我氏)

一三三六)正月、足利尊氏の御教書(みぎょうしょ)を受けた安藤家季が合戦奉行となると、津軽曽我氏嫡流の貞光(,貞光は左膝に矢傷を負ったにもかかわらず、続けて船水楯に小笠原孫四郎を攻めている。,しかし貞光は一貫して尊氏を支持して、津軽方面で戦い続けた。,写真154 北畠顕家  同年五月には安藤家季の楯が南朝方に攻められたようであるが、貞光は叔父光俊,光俊(または光時(みつとき)か)を鹿角(かづの)征伐に派遣し、翌建武四年(延元二年、一三三七)正月には
資料編1(古代・中世編) ([十四世紀])

[十四世紀] ●嘉元二年(一三〇四)五月二十四日、曾我泰光、地頭代職等を子光頼に譲る。,●元亨二年(一三二二)五月十五日、曾我資光、平賀郡沼楯村を父頼光に譲る。,●嘉暦二年(一三二七)九月三日、曾我光頼、平賀郡大平賀郷等を曾我光高に譲る。,●正慶三年(一三三四南建武元)五月十五日、曾我光頼、平賀郡大平賀・岩楯郷等を子光高に譲る。,●建武二年(一三三五)正月二十七日、曾我光貞(高光改め)、平賀郡岩楯郷熊野堂の安堵を申請。
通史編5(近・現代2) (柔道で世界を制覇した男)

後の光世の強さは、この父の影響が大きかったようである。  ,ここで光世は柔道と出会うことになる。後の世界最強の男の誕生である。,講道館で光世は抜群の強さを発揮する。,講道館主嘉納治五郎は光世をアメリカに派遣することを決意する。  ,写真306 前田光世
資料編1(古代・中世編) ((1)南北朝時代の「石川楯」)

この津軽反乱では、はじめに元弘三年末から四年初めにかけ、「大光寺楯」を中心に合戦が行われ、大光寺楯が元弘四年正月,に陥落すると、反乱勢は「石川楯」に立てこもり抗戦を続けた(元弘四年正月十日曽我光高代沙弥道為軍忠状案、,建武元年六月日曽我光高申状・曽我光高軍忠状、同年六月十二日北畠顕家御教書、「南部家文書」)。,曽我光高軍忠状は、光高が石川合戦で討ち取った者として「曽我彦三郎・曽我与次若党」以下の名を、また建武元年十二月十四日,彼ら曽我一族が大光寺・石川の戦いで北条勢の主力だったのであろう。
通史編5(近・現代2) (観桜会運営の打合会議)

弘前市が観桜会を市の観光の名物にしようとしていたのは、観桜会への観光客誘致に関する打合会の開催からもわかる,青森観光協会機関紙への特集号として「花の弘前」を掲載し、青森駅前の観光塔に広告を記載し、弘前駅前案内所,案件は、①観光客誘致に伴う宣伝方法、②案内・サービス体制の整備、③交通機関の配置だった。,②は案内所の設置や観光パンフレットの配布、観光土産品の促進のほか、宿泊受け入れ態勢をどうするかが提案された,この発言は、現在でも地元観光地に必要な要素といえよう。
通史編5(近・現代2) (菊ともみじまつり)

いずれも市の文化・観光を考える上で重要なものばかりである。,しかしそれ以外にも観光関係当局は、策を練っていたのである。  ,春のさくらとともに、秋の紅葉は人々の観光意欲をかきたてる。,いずれも観光客を多数集めている。,春のさくらまつりや夏のねぷたまつりに対して、菊ともみじまつりは歴史も浅く、観光客も少ない。
資料編1(古代・中世編) ((1) 南北朝時代の「堀越楯」)

「南部家文書」の建武四年(一三三七)七月日曽我貞光軍忠状案には、当時足利方として行動していた曽我貞光が,、前年七月「新里・堀越両所」に「楯」を築いたところ、南党勢の倉光孫三郎が攻撃を仕掛けてきたが、奮戦の末,曽我貞光は、津軽曽我氏の嫡流で、鎌倉幕府滅亡後、いちはやく朝廷側につき、元弘三年(一三三三)から翌建武元年,これに対して、南部・小笠原・倉光孫三郎らの南党勢も安藤方の楯を襲うなど、激しい合戦が続いた。,新里もまた堀越北方の平川沿いの土地であり、ともに貞光が本拠の岩楯・大光寺を守る前線拠点として構えたものであろう
通史編5(近・現代2) ((三)スポーツの意味するもの)

「アフガニスタンのレスリングの礎になれば」という赤石光生の言葉の持つ意味は大きい。  ,前田光世である。それは文字どおり、命を懸けた前田光世の渾身(こんしん)の勝負でもあった。,望郷の念を抑えながら、前田光世は一度も日本に帰らなかった。,「民族の誇り」を支えに夢を追った前田光世、そしてアフガニスタンの礎を築こうとしている赤石光生、その二人,写真312 赤石光生
通史編1(古代・中世) (三戸南部氏による領国支配の強化)

これについて、種里は当時の海上交通の要衝で、ここに一族を配置して光信を檜山安東氏への押さえとし、海域の,写真189 南部(大浦)光信倚像  津軽氏の系譜である『前代歴譜』に光信が九戸郡下久慈から南部氏,これらはいずれも根拠が近世の編纂物で、一次史料ではないことが、光信の出自を断定する障害となっている。,、現状においては、光信の移住伝説を明確に肯定するには史料が不足である。,また別働隊は迂回して大光寺を落としたという。
通史編1(古代・中世) (鎌倉幕府滅亡と津軽曽我氏)

図41 南北朝期における津軽の楯  津軽曽我氏の嫡流である光頼(光称(こうしょう))・光高(のちの,貞光。,資光死後嫡子となる)親子は、いち早く後醍醐方についた。
通史編5(近・現代2) (雪燈籠まつり)

弘前市だけでなく、雪の多い青森県では、冬は交通網に支障が生じがちになり、農作業だけでなく、各種の観光イベント,当然人々の経済活動は冬に停滞するわけであり、観光都市として発展する道を選んだ弘前市にとっても、冬をどのように,市当局、観光協会、商工会議所は、冬のイベントとして札幌雪まつりの盛況ぶりにあやかる形で「弘前城雪燈籠まつり,通年観光の第一歩を歩み出したものと思う」と挨拶した。,その分知名度は低く、観光客も少ない。
通史編1(自然・原始) (亀ヶ岡文化の特色)

なかでも後期から受け継いだ香炉形土器などは形状はもとより、浮き彫り的な装飾は遮光器(しゃこうき)土偶とならんで,精製土偶は遮光器土偶といわれるように眼の誇大な表現をはじめ、頭頂部・顔面部の彫りや肩・手の怒り方表現および,なおこの精製遮光器土偶は、頭・体・手・足などは中が空洞(中空という)であり、粗製のものは体部・手足とも,亀ヶ岡文化を代表する遮光器土偶の名は、坪井正五郎(つぼいしょうごろう)(東京大学人類学教室の創立者)により,ロンドンの大英博物館で実見したエスキモー(現在はイヌイットといわれる)が、雪の反射光から眼を守るために
通史編4(近・現代1) (電灯業の発展)

こうして電灯が普及していったが、その光度には種々あり、一〇燭光、五燭光の電灯が多く普及した。,電灯燭力別 明治43年12月末日現在 燭別 市内灯数 市外灯数 合計 室内灯 街灯 室内灯 街灯 5燭光,1,192 125 261 - 1,579 8燭光 288 17 517 - 822 10燭光 1,557,66 99 5 1,727 16燭光 155 35 39 - 229 35燭光 48 1 - - 49
資料編1(古代・中世編) ([十三世紀])

●仁治三年(一二四二)十月二十五日、曾我光弘、平賀郡大平賀郷新屋淵村・長峯村地頭代職。,●このころ、曾我光弘、鱒・鷹等を贈る。,●文永元年(一二六四)五月十日、後家尼(曾我光弘夫人)に、平賀郡岩楯村を安堵。,●文永五年(一二六八)十月十九日、大江光清、鼻和郡大浦郷の内を譲る。 ●このころ、蝦夷の反乱。,●永仁五年(一二九七)十月十四日、曾我泰光、子光頼に重代の鎧等を譲る。
通史編1(古代・中世) (種里城を中心とした城館群)

種里八幡宮第十四代神官奈良出雲(ならいずも)(明和から天明年間にかけて在任)が『累代家記』に記した「光信公御治世記,」には、「大浦信濃守光信公海岸ヘ御通行ノ節 館前ノ城主対馬某折々光信公ヲ狙撃ス故ニ光信公□々軍勢ヲ遣シ,要約するならば、光信が海岸に抜けようとしたところ館前主に狙撃されるので攻撃したが、堀が深くて攻めきれない,松代(現鯵ヶ沢町大字松代町)→岳(現岩木町大字常盤野)→百沢(現岩木町大字百沢)→相馬(現相馬村)→大光寺城,(現平賀町大字大光寺)か石川(現弘前市石川)という中世の街道ルートがあったことが伝えられている。
通史編5(近・現代2) (観桜会運営の一側面)

市立図書館所蔵の昭和二十五年度観桜会の観光客調書を見てみよう。,このうち弘前駅下車客は二十万人弱、市内や近郊からの観光客が三〇万人強だった。,もっとも観光客が多かったのが五月三日の祝日で、約一〇万人が観桜会に訪れている。,そのため観桜会期間中に桜が咲くか咲かないかで観光客の出足は相当に異なった。,五月三日になり天候が回復して桜も開花し、観光客も相当数来園した。
通史編3(近世2) (浄土宗)

このため入誉は寺社奉行と協議し、専称寺と系列の異なる黒谷の金戒光明寺(きんかいこうみょうじ)へ古跡・無本寺,入誉が貞昌寺入寺の際、現在廃寺になっている出羽国大館の青蓮庵が金戒光明寺の末寺であったことと(遠藤聡明,「宝永五年の弘前新寺町稲荷神社の勧請と別当浄土宗白狐寺の造営」『仏教論叢』四三)、澄水の修学した光明寺,(現鎌倉市)が白旗派に属することが金戒光明寺を頼った理由であろう。  
資料編1(古代・中世編) ([口絵])

) 貞応二年十二月六日 僧栄秀寄進状(本文史料555号) 建武四年七月日 曾我貞光申状案,(本文史料677号) 元弘四年二月日 曾我光高申状案(本文史料六三二号) 元弘四年二月日, 曾我光高申状案(本文史料633号) 貞和三年五月日 曾我貞光申状案 (本文史料六九九号)
通史編3(近世2) (神宮寺)

熊野系の修験である福王寺玄蕃が乳井(にゅうい)毘沙門宮と兼帯したが、のち大光寺城主瀧本重行によって滅ぼされた,塔頭はそれまで一二院あったが、蓮乗院・東光院・明王院・正福院の四院とし、各一五石を寄進した。,元禄十四年(一七〇一)には神宮寺配下の尾上村獅子権現、三味原地、猿賀・大光寺村三味原地は除地になっており,明治四年(一八七一)、神仏分離によって神宮寺は取り壊されたが、同二十六年(一八九三)に子院東光院へ寺号
通史編5(近・現代2) (土産品開発への模索)

とくに弘前市が観光都市として宣伝され、次第に全国的に有名になりつつあるのに、土産産業は需要が激増しながら,そのため県観光工芸品研究会では市当局や金融機関への融資陳情を検討し、申請を行った。,長引く不景気で観光客が減少し、土産物を購入する人々も減ってきている。,しかし土産物は観光地の記念であり、記録であることに変わりない。,土産品の選定、特質が観光産業として最重要事項であることは、時代を経ても変わらない。
通史編1(古代・中世) (曽我氏系図の復原)

曽我系図(写真117)では時廣の子は「小五郎真光」とされる。,実名「真光」では文書にあらわれないが、承久四年の「北条義時書下状」(史料五五三)に「曽我五郎次郎」の親父,)では「曽我五郎次郎惟重」の親父が「曽我五郎」とみえるから、それらの年代からみて曽我系図の「小五郎真光」
通史編5(近・現代2) (バス事業の拡張)

事業の拡張 日常の市民の足として、弘南バス株式会社の路線網は拡充していく一方で、弘前市を起点とする観光ルート,まず、昭和三十四年(一九五九)八月には十和田西線が定期観光路線として開通した。,さらに、観光と地域経済の活性化を図ろうと津軽岩木スカイライン構想を打ち出した。
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