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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編1(古代・中世) (得宗被官の入部)

得宗被官の入部 さてこうした経緯のなかで、曽我氏や安藤氏・工藤氏・横溝氏、その他の得宗北条氏の被官(,御内人)たちが青森県域の各地に、地頭北条氏の地頭代として入部することとなった。   / 得宗被官の入部
通史編1(古代・中世) (津軽平賀郡への入部)

津軽平賀郡への入部 曽我氏が津軽における拠点としたのが、中世の津軽三(四)郡の内の津軽平賀郡である。,曽我氏が北条氏の地頭代として平賀郡に入部したことが確認できるのは、建保七年(一二一九)、曽我広忠の時のことである,定型文句である「任二親父某之時例一」といった文言がないので、あるいはこのとき、広忠が地頭代職を得て初めて入部,廣忠の先代と目される時廣の名がみえ、さらにそこに「曽我検校」という注記があることから、広忠以前の平賀郡入部,地方史誌の多くは大河兼任の乱直後の建久元年(一一九〇)入部説をとっている。   / 津軽平賀郡への入部
通史編1(古代・中世) (大浦氏の城下町建設の流れ)

久慈南部氏の信濃守光信(みつのぶ)を明応元年(一四九二)に現在の鰺ヶ沢町種里(たねさと)町に種里城を築いて入部,、文亀二年(一五〇二)三戸南部安信(やすのぶ)は、弟の高信(たかのぶ)を津軽郡代とし、平賀郡石川城に入部
通史編1(古代・中世) (文献史料から見た戦国動乱の激化)

ち、平賀町大光寺(だいこうじ)城主葛西頼清(かさいよりきよ)を討って、弟の高信(たかのぶ)を石川城に入部,南部氏は延徳三年(一四九一)、南部久慈(くじ)氏の一族光信(みつのぶ)を津軽西浜種里(たねさと)に入部,させ、安藤氏への押さえとし、文亀元年(一五〇一)、閉伊郡の千徳(せんとく)氏を滅ぼし一戸氏を入部させるなどして
通史編1(古代・中世) (奥州惣奉行制の確立)

これを受けて、青森県の地にも次第に鎌倉御家人が入部することとなり、その支配が展開することとなるのである
通史編1(古代・中世) (足利幕府の奥羽支配)

また建武四年二月には、駿河・伊豆の守護であった石塔義房(いしどうよしふさ)が奥州総大将として現地に入部
資料編1(古代・中世編) ((2)戦国時代の「石川城(石川大仏ケ鼻城)」)

しかし、石川大仏ケ鼻は津軽平野の南の入口をなす戦略的要地に位置し、要害の地でもあるから、高信の入部以前,、一族の南部光信(津軽氏の祖先)を西浜種里城に、明応七年(一四九八)には、南部弾正康時を外が浜堤浦に入部
通史編1(古代・中世) (浪岡城攻略)

鎮守府将軍兼陸奥守北畠顕家の子顕成(あきなり)を祖として、文中三年(一三七四)ころに閉伊郡船越から津軽に入部
通史編1(古代・中世) (三戸南部氏による領国支配の強化)

、言語学の方では、鰺ヶ沢町を中心とする地域において南部地域の方言が確認されるという報告もあり、種里に入部,さらに、明応七年(一四九八)、南部信時四男の光康(みつやす)が外浜堤ヶ浦(現在の青森市堤町付近)に入部,そして、すでに西浜・津軽西根の押さえとして入部していた南部一門の大浦氏(当時は盛信の代)と、大光寺城主南部政行
通史編4(近・現代1) (弘前市財政の整備)

書記八人附属員二十二人ニシテ、庶務掛ニ書記四人附属員四人、戸籍掛ニ書記二人附属員四人、税務掛ニ書記二人附属員十人、収入部,六年度弘前市会決議書綴』所収)  このように、弘前市役所は三つの掛(係)と一つの部からなり、このうちの、税務掛と収入部,感想ヲ有セリ、故ニ市税ノ如キモ国税等ノ如クナラシメハ自然滞納者モ減少スルニ至ラン (同前)  収入部
通史編1(古代・中世) (津軽曽我氏の所領・平賀郷)

せての知行を、北条義時から安堵されているので(史料五五三)、岩楯と同じく広忠の時から曽我氏が地頭代として入部
通史編2(近世1) (文教政策の展開)

また、同じ年の信政初入部に随行してきた儒者小宮山元益(こみやまげんえき)が、評定所において月六回の講筵
通史編5(近・現代2) (第九回夏季オリンピック・アムステルダム大会出場・井沼清七)

念願の弘前中学校の陸上部に入部する。
通史編1(古代・中世) (安藤愛季の津軽侵略)

愛季の津軽侵攻後、天正十年(一五八二)、三戸南部家継承を実現した信直は、弟政信を浪岡城に入部させて津軽郡代
通史編2(近世1) (津軽信英による後見政治と法令の整備)

信政は初入部した直後の寛文元年(一六六一)六月二十一日、十一ヵ条の「諸法度」と呼ばれる領内支配の基本法令
資料編1(古代・中世編) ([十五世紀])

●康正二年(一四五六)、秋田の湊安東堯季、蝦夷島の下国安東政季(師季)を小鹿島に迎え、さらに河北郡に入部,●延徳三年(一四九一)、この年、南部光信、大浦・種里に入部し種里城に拠るという。,●明応七年(一四九八)、南部政康の弟弾正康時、外浜堤浦に入部するという。
通史編1(古代・中世) (秀衡と義経の死)

義経の平泉入部がいつ頼朝に知られるところとなったのかについては明らかではないが、この年九月には、頼朝の
資料編1(古代・中世編) ([十三世紀])

●貞応二年(一二二三)八月六日、平賀郡平賀本郷への検非違所政所入部を停止。
資料編1(古代・中世編) (五 東目屋地区の中世城館の特徴)

入部と、目屋地方掌握の強化、統一終了後における彼ら家臣たちの独立の否定、城館群の破却、という事態も想定
資料編1(古代・中世編) (二 大浦城の歴史)

、安東政季死去より三年後の延徳三年(一四九一)、南部氏の一族・光信が九戸郡下久慈より「大浦・種里」に入部
通史編1(古代・中世) (安藤氏の所領)

津軽三(四)郡には得宗領の地頭代として、曽我・工藤などの諸氏が入部した。  
通史編2(近世1) (二代信枚の動向)

信枚は新藩主として翌年四月に国元に入部しており、幕府から服部康成(やすなり)が後見同様として付き従った,慶長八年六月十日に為信は佐竹義宣の家臣大野蔵人へ書状と祝儀を遣わし、入部後の佐竹氏と友好関係を結ぶことを
通史編1(古代・中世) (津軽奪還を目指して)

氏の当主安東堯季(たかすえ)は、安東師季を夷島から出羽国小鹿(おが)(男鹿)島に招き、続いて河北郡に入部
通史編2(近世1) (弘前藩庁日記の開始)

弘前藩庁日記の開始 寛文元年(一六六一)六月三日、津軽信政の弘前初入部の記事をもって「弘前藩庁日記」
通史編3(近世2) (信寿・信著・信寧時代)

元文元年(一七三六)、蘭洲は信著の初めての入部に扈従(こじゅう)し、弘前城において月に三回儒書を講釈して
通史編2(近世1) (「津軽一統志」の編纂まで)

その内容は藩祖為信の誕生から津軽信義の入部までを記し、また「東日流記後録」には、岩木山や津軽家の先祖に
通史編3(近世2) (能楽)

七代藩主信寧は、年賀、参勤の発駕、入部の際の祝儀に能を催し、役者・囃方の稽古をみ、自ら慰みの能を舞った
資料編1(古代・中世編) ([十四世紀])

●建武二年(一三三五)三月、曾我貞光、平賀郡大平賀本郷への検非違所入部停止を申請。,波岡御所北畠氏については、顕家子孫、文中三年入部説もあり。
資料編1(古代・中世編) (二 本章で取り上げる中世城館跡)

南北朝時代初期、北条氏与党勢力が建武政府に対する反乱を起こした時の拠点となり、戦国時代には南部高信が入部
通史編2(近世1) (津軽信枚の越後転封)

津軽信枚へ越後転封指示ヵ 18 領内比内・八森筋の弘前藩の荷物運搬許可を下す 19 正則津軽入部後
資料編1(古代・中世編) ([十六世紀])

●天正十年(一五八二)、三戸城主南部信直、弟政信を波岡城に入部させ、津軽郡代にするという。
資料編2(近世編1) (編年史料 (天正十七年~明暦二年))

●慶長八年ヵ(一六〇三)六月十日、津軽為信、秋田久保田城主佐竹義宣の家臣大野蔵人へ書状を遣わし、入部後,●慶長十三年(一六〇八)四月、津軽信枚、国元津軽へ入部する。,●寛永十年(一六三三)十月三日、津軽信吉、舟橋長真父子を伴ない、大間越より初めて入部する。
資料編1(古代・中世編) (第一章 綱文・史料一覧)

……………………… 斎藤文書 149 ●貞応二年(一二二三)八月六日、平賀郡平賀本郷への検非違所政所入部,波岡御所北畠氏については、顕家子孫、文中三年入部説もあり。,●康正二年(一四五六)、秋田の湊安東堯季、蝦夷島の下国安東政季(師季)を小鹿島に迎え、さらに河北郡に入部,………………………… 八戸湊文書 274 ●延徳三年(一四九一)、この年、南部光信、大浦・種里に入部し,…………………………… 前代歴譜 276 ●明応七年(一四九八)、南部政康の弟弾正康時、外浜堤浦に入部
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