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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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通史編3(近世2)
(八幡宮)
八幡宮
八幡宮
(現弘前
八幡宮
)は弘前の惣鎮守であった。,最勝院が別当で、神仏習合のあり方から最勝院本堂に安置した
八幡宮
の本地仏は阿弥陀如来、勢至・正観音菩薩であった,禰宜町には
八幡宮
下社家五軒が置かれ、
八幡宮
の掃除・雪片付け等を行った。,図225.弘前
八幡宮
/
八幡宮
通史編2(近世1)
(弘前八幡宮の祈祷)
弘前
八幡宮
の祈祷 津軽弘前藩は、藩体制の危機を回避する願望を込めて祈祷(きとう)を寺社に命じている。,表43・44は弘前
八幡宮
文書(弘前大学附属図書館蔵 元禄六年~明治四十一年)にみられる祈祷内容とその回数,弘前
八幡宮
(弘前市八幡町一丁目)は慶長十七年(一六一二)、二代藩主信枚(のぶひら)による創建で、社領三,表44 弘前
八幡宮
の祈祷内容と回数 寛政元年~明治4年(82年間,217回) 内 容 回数 古縣不動尊出汗,これに伴い、弘前
八幡宮
の祈祷内容にもこの動向が反映したのである。 / 弘前
八幡宮
の祈祷
資料編3(近世編2)
(●弘前八幡宮 八幡町一丁目)
●弘前
八幡宮
八幡町一丁目 (一)唐門--重要文化財 前後に軒唐破風をつけた入母屋造柿葺屋根の四脚門,図19 弘前
八幡宮
唐門立面図・平面図 (弘前市教育委員会蔵原図より) (二)本殿--重要文化財,図20 弘前
八幡宮
本殿立面図・平面図 (弘前市教育委員会蔵原図より) / ●弘前
八幡宮
八幡町一丁目
通史編3(近世2)
(弘前八幡宮小野家)
弘前
八幡宮
小野家 同十九年小野権太夫が、追放された神宮太夫に代わって神主になると、社家頭も命じられた,また、
八幡宮
・熊野宮には、それぞれ六供と呼ばれる下社家一二人が所属し、両神主とともに禰宜(ねぎ)町を形成,
八幡宮
の別当最勝院は、寺社奉行のもとにあって、領内神職の約九〇パーセントを配下に置き、社家頭を通して神職 / 弘前
八幡宮
小野家
通史編3(近世2)
(三 八幡宮の祭礼と山車の運行)
三
八幡宮
の祭礼と山車の運行 慶長十七年(一六一二)、二代藩主津軽信枚は、八幡村(現中津軽郡岩木町),から弘前城の鬼門に当たる地に
八幡宮
(現弘前
八幡宮
)を移転させ、弘前惣鎮守とした。,天和二年(一六八二)、四代藩主津軽信政の時より、
八幡宮
の神輿および各町内の山車(だし)、続いて武具を備,同年、信政は在方より芦毛の馬を白銀五枚で求め、
八幡宮
へ神馬として献じ、八月十三日には中小姓・徒目付に神輿,図24.弘前
八幡宮
祭礼図①黄石公と張良 目録を見る 精細画像で見る 図24.弘前
八幡宮
祭礼図 / 三
八幡宮
の祭礼と山車の運行
通史編3(近世2)
(館神)
宝暦十年(一七六〇)の「社堂惣調書上帳」(弘前
八幡宮
蔵)では、
八幡宮
御城内鎮守,城内に位置する特殊な事情のためか、毎年、正月四日の神事は神主小野筑前宅で、九月十五日の神楽は
八幡宮
神楽殿,館神の神体は正
八幡宮
であり、後に稲荷宮が加えられたようである。,『記類』によれば、正
八幡宮
の神体は豊太閤(ほうたいこう)坐像であった。,明治三年(一八七〇)の「御藩内御崇敬神社調」(弘図岩)からは稲荷宮とあり、正
八幡宮
は消えている。
通史編3(近世2)
((二)神職組織)
城下の縄張りを行わせ、城の鬼門に当たる北東の熊野宮(現熊野奥照神社)の場所へ、慶長十七年(一六一二)
八幡宮
,(現弘前
八幡宮
)を吉田村(現中津軽郡岩木町賀田)より移転させ、弘前総鎮守とした。
通史編3(近世2)
(最勝院)
のち賀田村へ移り、慶長十七年(一六一二)、弘前城下形成に伴い
八幡宮
(現弘前
八幡宮
)別当となり、寺領三〇〇,享和三年の「寺社領分限帳」によれば、本堂には
八幡宮
本地仏として、信枚寄進の阿弥陀仏、信重寄進の勢至・観音,明治の神仏分離により、
八幡宮
別当を免じられ、堂塔は破壊され、同五年(一八七二)に大円寺跡へ移った。
通史編3(近世2)
(国上寺)
不動尊に出汗(しゅっかん)があれば領内異変の前兆として、藩命で
八幡宮
(現弘前
八幡宮
)神主が神子を引き連
通史編3(近世2)
(真言宗)
真言宗 真言宗は最勝院が僧録所であり、
八幡宮
(現弘前
八幡宮
)別当も兼職し、社家頭を通して領内の神職をも
資料編3(近世編2)
(三 祭礼と旅)
三 祭礼と旅 (一)
八幡宮
祭礼 (二)旅に出る人々
通史編3(近世2)
(一代本尊)
) 未・申 大日如来 大鰐の大日様(大円寺) 酉 不動明王 古懸不動(国上寺) 戌・亥 八幡大菩薩
八幡宮
,(弘前
八幡宮
)
通史編2(近世1)
(協力機関および協力者一覧(機関・個人順、五十音順))
市立函館図書館 専修寺(青森県弘前市) 仙台市博物館 高照神社(青森県中津軽郡岩木町) 種里
八幡宮
,東京大学史料編纂所 東京都板橋区立公文書館 東北大学附属図書館 東楊寺(群馬県新田郡尾島町) 浪岡
八幡宮
通史編3(近世2)
(熊野宮)
神主長利氏は、
八幡宮
別当最勝院の支配のもと、
八幡宮
神主小野氏とともに社家頭を務めた。
資料編1(古代・中世編)
(藤崎1~6)
藤崎1~6 藤崎1 南藤崎町藤崎字四本松-
八幡宮
境内- 藤崎2 南藤崎町藤崎字四本松-称名寺墓地-
通史編1(古代・中世)
(種里城と町)
そして、その集落の「守り神」とされている「
八幡宮
」が、実は種里城内に入るための出入り口(木戸)の役割も,
八幡宮
を通り、種里城内に入る入口の五〇メートル手前から、右側斜面を加工して威容を保たせようとしているようすもうかがえ,町は「
八幡宮
」を中心として作られた可能性が考えられる。,
八幡宮
に入る参道がまず直線に作られ、その道と並行するように短冊形地割が南側には三筆、北側には八筆書かれている
資料編1(古代・中世編)
([付図])
県埋蔵文化財調査センター保管) 31・32 弘前市外崎3丁目 外崎誠氏地所 33・34 弘前市城東中央4丁目 城東
八幡宮
境内,弘前市和徳町 武田ハルエ氏宅地内 36 弘前市和徳町 稲荷神社神官宅地内 37 弘前市八幡町1丁目
八幡宮
境内,38 弘前市田町4丁目
八幡宮
墓地 39 弘前市田町4丁目 熊野奥照神社境内 40 弘前市新町 誓願寺境内,岩木町新法師字稔 葛西浩氏園地 13 岩木町新岡字薬師 「だんのこし」の園地 14 岩木町新岡字山本
八幡宮
境内,岩木町熊島字里見 熊野神社境内 18・19 岩木町鼻和字平岡 保食神社境内 藤崎 1 藤崎町藤崎字四本松
八幡宮
境内
通史編3(近世2)
(神職の扱い)
正徳五年(一七一五)、古懸不動尊の出汗に当たり、
八幡宮
神主が、町馬一五匹を用意させ下社家と神子を含めた,
八幡宮
・熊野宮の下社家は「六供」とも呼ばれ、それぞれ六社家ずつ神主の支配を受けた。
通史編3(近世2)
(協力機関および協力者一覧(機関・個人順、五十音順))
青森県弘前市) 学校法人東奥義塾(青森県弘前市) 東京大学史料編纂所 藤先寺(青森県弘前市) 野辺地
八幡宮
,平賀町教育委員会 弘前市教育委員会 弘前市立図書館 弘前市立博物館 弘前神明宮(青森県弘前市) 弘前
八幡宮
通史編1(古代・中世)
(「東夷征討」祈願)
その直後、後三条天皇は国家鎮護の軍神である石清水
八幡宮
に行幸し大般若経を供養して「征討東夷」の祈願を行,この事績を伝える『皇代記』(石清水
八幡宮
記録第二八冊)には「頼義征討東夷之故也」と記され、一見すると七年前,前九年合戦の報賽供養願文は、康平七年かその翌年、当代一流の学者として知られる藤原明衡によって起草され石清水
八幡宮
通史編3(近世2)
([口絵])
新井晴峰筆 観桜観楓図 (右隻) 口絵7 新井晴峰筆 観桜観楓図 (左隻) 口絵8 弘前
八幡宮
祭礼絵馬
通史編3(近世2)
(二代信枚)
弘前総鎮守の
八幡宮
(現弘前
八幡宮
)は、古くからあった熊野宮(現熊野奥照(くまのおくてる)神社)の地が城,熊野宮(現熊野奥照神社)、神明宮(現弘前神明宮)、袋宮(ふくろのみや)権現宮(現熊野宮、市内茜町)、浪岡
八幡宮
通史編3(近世2)
(三代信義)
三代信義 信義は、寛永十五年(一六三八)の浪岡
八幡宮
に続いて、百沢寺大堂、外浜善知鳥宮(現善知鳥神社
通史編5(近・現代2)
(山車行事)
天和二年(一六一六)に
八幡宮
祭礼が始まり、山車は隔年に巡行された。
通史編3(近世2)
(討庄応援部隊の解兵)
この間の動向はやがて国元にも広まったが、弘前
八幡宮
神主小野若狭(おのわかさ)は社務日記(弘前
八幡宮
神社文書
資料編1(古代・中世編)
(弘前1~133)
外崎誠氏地所- 弘前32 弘前市外崎3丁目-外崎誠氏地所- 弘前33 弘前市城東中央4丁目-城東
八幡宮
境内,- 弘前34 弘前市城東中央4丁目-城東
八幡宮
境内- 弘前35 弘前市和徳町-武田ハルエ氏宅地内-,弘前36 弘前市和徳町-稲荷神社神官宅地内- 弘前37 弘前市八幡町1丁目-
八幡宮
境内- 弘前,38 弘前市田町4丁目-
八幡宮
墓地- 弘前39 弘前市田町4丁目-熊野奥照神社境内- 弘前40 弘前市新町
資料編1(古代・中世編)
(岩木1~19)
葛西浩氏園地- 岩木13 中岩木町新岡字薬師-「だんのこし」の園地- 岩木14 中岩木町新岡字山本-
八幡宮
境内
通史編3(近世2)
(醍醐忠敬の弘前転陣)
秋田十二所表江兵隊繰込発炮致候ニ付征討被仰付候、及醍醐殿御出馬御国表江御転陣之旨申来候、 八月十四日 (弘前
八幡宮
古文書,醍醐総督府参謀の本陣は最勝院境内に置かれ、また、
八幡宮
の神楽殿も休息所として使われることに決まった。,るまで、また、醍醐一行の動向や警衛に細心の注意が払われており、その徹底ぶりは前代未聞の至りであった(弘前
八幡宮
古文書
通史編3(近世2)
(神仏分離の準備)
に弘前藩を頼って奥羽鎮撫総督府参謀醍醐忠敬(だいごただゆき)が来弘し、最勝院(さいしょういん)(弘前
八幡宮
,の別当)を陣所とすると、最勝院とその末寺の僧侶は弘前
八幡宮
への社参を禁止され、最勝院の梵鐘(ぼんしょう
通史編3(近世2)
(藩政後期)
っているので、拝借金の停止と禄高に応じて五分の一から一〇〇分の一を納入することで借金を帳消しにした(「弘前
八幡宮
古文書,文化十年(一八一三)クナシリ方面への出兵に当たって、
八幡宮
(現弘前
八幡宮
)は藩命により松前渡海安全の祈祷
資料編3(近世編2)
([口絵])
)と結縁一族連名願文(下) (弘前市・最勝院蔵) 公私自分留書(弘前大学附属図書館蔵弘前
八幡宮
文書
通史編3(近世2)
((二)年中行事と生活)
十五日…
八幡宮
大祭日。十五夜。八月中…彼岸。土曜の丑の日に虫送り。 (九月)九日…栗の節句。
資料編3(近世編2)
(1 弘前城の歴史)
なお、ここ高岡の地名を弘前と改めたのは、
八幡宮
や神明宮、東照宮などがそろい、岩木山下居宮の楼門などが竣工
通史編1(古代・中世)
(三 北奥宗教界の中世的転回)
すなわち、鎌倉幕府はその幕政前期において、自らの「宗教センター」ともいうべき鶴岡
八幡宮
(神奈川県鎌倉市,・写真143)の経営のなかで、次のような
八幡宮
の別当職補任を行っていた。,写真143 鶴岡
八幡宮
絵図 初代円曉(寺門派、以下、寺と略称)、二代尊曉(寺)、三代定曉(寺),一四代房海(寺)、一五代信忠(東)、一六代顕弁(寺)、一七代有助(東)、というように、鎌倉時代の鶴岡
八幡宮
別当職,これは、表現を変えていえば、鶴岡
八幡宮
の別当職補任をめぐる「真言密教圏」の独占といえる。
通史編3(近世2)
(神道)
神道 神道にあっては、弘前城下の形成に当たり、
八幡宮
(現弘前
八幡宮
)を大浦城下から移転させて、弘前総鎮守
通史編5(近・現代2)
(弘前観光協会の設立)
最勝院には最北の五重塔があり、長勝寺や
八幡宮
には国宝建造物がある。
通史編1(古代・中世)
(協力機関および協力者一覧(機関・個人順、五十音順))
(南津軽郡大鰐町) 中尊寺(岩手県西磐井郡平泉町) 長勝寺(弘前市) 築館町教育委員会 鶴岡
八幡宮
資料編3(近世編2)
(はじめに)
城郭外の寺社建築の様子を眺めても、慶長十七年(一六一二)の弘前
八幡宮
、慶長十八年(一六一三)の熊野奥照神社
通史編4(近・現代1)
(郷田県令と保守派)
後年政友会代議士や青森市長として活躍した阿部政太郎は、浪岡
八幡宮
の神主阿部文助の長男である。
資料編3(近世編2)
(【解説】)
第三節「神社」の「神祇管領吉田家諸国社家執奏記」には、藩内で
八幡宮
(弘前
八幡宮
)・熊野宮(熊野奥照神社
通史編3(近世2)
(江戸時代末期の建築)
しかしそのような時勢にあっても、津軽弘前藩においては、地元の技術者にも仕事をさせていたことを、弘前
八幡宮
通史編2(近世1)
(信義の襲封)
同十五年(一六三八)九月二十七日には浪岡
八幡宮
の再建をしており(同前No.六〇三)、棟札(むなふだ)には,図74.浪岡
八幡宮
鳥居棟札 幕府との関係では、寛永十八年(一六四一)に津軽家にとっての重大事である
通史編1(古代・中世)
(種里城を中心とした城館群)
種里
八幡宮
第十四代神官奈良出雲(ならいずも)(明和から天明年間にかけて在任)が『累代家記』に記した「光信公御治世記
通史編2(近世1)
(本村と新田)
鶴田村は吉田(賀田)村(現岩木町賀田)付近にあった鶴田村を指すようで、鶴田村の
八幡宮
が弘前築城時に移され,、現在弘前市にある
八幡宮
となったといわれている(『永禄日記』・『平山日記』)。
通史編3(近世2)
((一)年中行事と生活)
十五日、
八幡宮
大祭日。十五夜(月へ梨・桃・栗・新米・青大豆・神酒(みき)を供える)。
資料編1(古代・中世編)
(七 板碑の発見と保護の状況)
高崎堤の東にあった板碑二基は外崎三丁目外崎氏地所へ、通称「寺内」の螺喰田圃にあった四基のうち二基は城東
八幡宮
通史編3(近世2)
(大社の神仏分離)
最勝院は、弘前
八幡宮
(現市内八幡町)の別当を免じられ、堂塔は破壊され、明治五年(一八七二)に大円寺(だいえんじ
通史編4(近・現代1)
(明治天皇崩御)
聖上陛下御容体御変調平静ナラザル趣(おもむき)ニ付、御平癒祈願ノ為メ児童代表一学級三名宛(あて)職員モ三部ニ分レ
八幡宮
通史編3(近世2)
(藩論の統一)
一小隊派遣されていたが、こちらも、理由を説明して引き取りを願ったという伝聞までささやかれていたのであった(
八幡宮
神社古文書
通史編4(近・現代1)
(第一回通常県会)
黒石藩士族で東奥義塾派・弁護士の榊喜洋芽が指導者で自由党系、これに対し、浪岡の一心社は、帝政党系で浪岡
八幡宮
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