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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編3(近世2) (近隣諸藩の動向)

さて、盛岡藩から分家して成立した八戸藩の動きは微妙なものであった。,それは、八戸藩主南部遠江守信順(のぶゆき)が薩摩藩八代藩主重秀の五男であったことによる。,戊辰戦争勃発当初、八戸藩の行動は、旧幕府勢力に敵対するものではなかったにしろ、政府に従う方向で進められていた,五月十七日、八戸藩は太田広城を盛岡に派遣して釈明をし、盛岡藩の攻撃を避けたのであった。,しかし、盛岡藩が同盟遵守を決定したことで、八戸藩は、九月に勤皇を表明した弘前藩と野辺地で戦火を交えることになった
通史編2(近世1) (宝暦の飢饉)

宝暦の飢饉 続く宝暦の飢饉でも八戸藩では、史料によって数値は違うが、四〇〇〇人から七〇〇〇人といわれる,犠牲者を出し、『八戸藩史料』によると逃散も含めての数字であろうが、人口は一年間で二万人もの減少になっている,八戸藩は表高二万石のうち一万八五七三石の損毛(そんもう)、盛岡藩は表高一〇万石のうち七万七一七〇石の損毛
通史編2(近世1) (有史以来最大級の大量死)

他の北奥諸藩も同様で、史料によって違いはあるが、盛岡藩は約四万余、仙台藩は一四万~一五万、八戸藩は約三万人,津軽弘前藩の人的被害は人口比からすると、領民の半分が亡くなった八戸藩に次ぐといってよい。,4年8月 10万2000人 3万人 8万人 餓死 時疫 他国行 「天明癸卯年所々騒動留書」 八戸藩
通史編2(近世1) (乏しい国産品)

津軽弘前藩の場合、盛岡藩・八戸藩など太平洋岸の諸藩と違い、寒冷地とはいいながら米の生産に適する領地を持,十九世紀には国産方と呼ばれる役人が郡方あるいは勘定方に配置されていたことは「国日記」等で確認されるが、八戸藩
通史編2(近世1) (近世最後の大飢饉)

八戸藩では、天保五年(一八三四)に野村軍記(のむらぐんき)の藩政改革に反発して久慈通(くじどおり)で大一揆
通史編2(近世1) (寛延の飢饉)

寛延の場合は同じ青森県域の八戸藩では俗に「猪飢渇(いのししけがじ)」と呼ばれ、約三〇〇〇人の餓死者を出
通史編2(近世1) (寛文蝦夷蜂起と津軽弘前藩)

津軽弘前藩のみならず、盛岡藩・秋田藩でも出兵の準備が進められ、盛岡藩から分かれた八戸藩も、寛文四年(一六六四,盛岡藩主南部重信(一六一六~一七〇二)は、まず津軽弘前藩が出兵し、それでも手に余るようなら、盛岡藩が八戸藩,とともに加勢を命じられるという認識を示しているのである(「八戸藩御目付所日記」寛文九年七月二十七日条 ,このため、津軽弘前藩が実際に加勢の行動に入らない段階では、盛岡・八戸藩では総力を挙げた出兵体制がとりにくかったと
通史編3(近世2) (藩から県へ)

この当時、青森県域には江戸時代からの藩領を管轄する弘前・黒石・八戸藩と、盛岡藩の減封に伴って明治二年に,えられ、弘前県は現在の青森県域と道南地方にまたがる広大な県となった(「県庁進達留」八戸市立図書館蔵、「八戸藩
通史編2(近世1) (飢饉の惨状)

飢饉の惨状 飢饉の悲惨な状況を伝える史料は津軽弘前藩をはじめ、八戸藩(『天明卯辰梁』)、盛岡藩(『飢歳凌鑑
通史編4(近・現代1) (県内遊説)

上北、三戸は盛岡藩や斗南藩、八戸藩の地ゆえ、信頼の厚い服部尚義(ひさよし)が派遣された。
通史編2(近世1) (開発の実行者たち)

開発のためには多少の百姓の反発も無視する、という開発担当者としての強権的な姿勢を示しており、同時期の八戸藩
通史編2(近世1) (飢饉のその後)

他の諸藩も八戸藩が表高二万石のうち一万九二二三石の損毛、盛岡藩が表高新田高合わせて二四万八〇〇〇石のうち
通史編4(近・現代1) (家禄制度改革)

19,111.00 内 訳 旧弘前藩 14,135.00 旧館藩 2,330.00 旧八戸藩
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