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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編5(近・現代2) (青秋林道建設計画)

)十二月六日、秋田県選出国会議員野呂田芳成を会長とする青秋県境奥地開発林道開設促進期成同盟会が秋田県八森町,これに八森町を含む四町村長は副会長となり、本県の田沢吉郎代議士と秋田県の石田博英代議士は顧問となった。,八森町と西目屋村を結ぶ青森県境奥地開発林道は、すでに八森町から同町の濁川林道まで一二キロが完成しているほか
通史編2(近世1) (二代信枚の動向)

このため、政景らはいったん八森(はちもり)に引き返した。,その後、十月八日に政景は藩主佐竹義宣からの書状を受け取り、八森境の件は義宣の指示で弘前藩側に譲歩する方針,弘前藩側は、八森境は矢立を主張し、比内矢立境は尻合石としながら、中途を取って境とする案を主張するが、政景,両者から「塩味(えんみ)」(譲歩のこと)の打診がなされるが、交渉はなかなか進展せず、津軽側は八森境は矢立,最終的には八森境も矢立境も矢立を境目とすることで決着した。  
通史編2(近世1) (参勤交代路と街道の状況)

献上道中支障なきように命じた朱印状(資料近世1No.四一)には、鷹献上経路の書き出しが秋田分領として「八森,~の志(し)ろ(現秋田県八森町~同能代市)」となっており、津軽領内では大間越から八森へ抜ける西浜街道が
通史編2(近世1) (烏帽子山紛争)

元和四年(一六一八)結局比内(ひない)境は矢立峠の杉、日本海側の八森(はちもり)境では秋田岩館(いわだて,)(現秋田県八森町)と津軽岩崎(いわさき)(現西津軽郡岩崎村)の間とほぼ決定し(資料近世1No.三五五
通史編2(近世1) (鷹献上システムの成立)

津軽右京亮被仰付差上候条、泊々宿並鷹之餌入念自其所々可申付候也、   十月晦日  (朱印) 秋田分領 八森
通史編2(近世1) (陸上交通網の整備)

正保国絵図では、①の秋田領境は「秋田領八森村江出本道」、南部領への道には「南部江出本道」、②の秋田領への
通史編2(近世1) (津軽信枚の越後転封)

六月十八日付けの義宣書状は、信枚の越後転封に伴う秋田領内比内筋と日本海側の八森筋の荷物運搬の許可を伝えたもので,やむ 17 (越後転封を知るヵ) 信枚の越後転封を知る 津軽信枚へ越後転封指示ヵ 18 領内比内・八森筋
資料編2(近世編1) (編年史料 (天正十七年~明暦二年))

六月十八日、秋田久保田城主佐竹義宣、家老梅津憲忠へ書状を下し、津軽信枚の越後への転封に際し、秋田領内比内筋・八森筋,●寛永六年(一六二九)三月二十五日、秋田領八森の山師、津軽領金山に踏み迷い、成敗にあう。,●寛永八年(一六三一)八月十八日、家臣長山助左衛門、江戸より帰国のため、八森の通行を願う。,帰途、八森にて飛脚切られ、津軽番所へ逃避する。
資料編1(古代・中世編) ([十六世紀])

●天正十年(一五八二)四月三日、由利侵攻中の大宝寺義氏、大曲城主前田薩摩守に、津軽勢八森進出のうわさの
資料編1(考古編) (〈注及び参考文献一覧…第3章〉)

塩釜市表杉ノ入貝塚の研究」(宮城学院女子大学研究論文集5) 1952年 *12 橘善光 「青森県下北半島八森遺跡調査慨報
資料編1(古代・中世編) (第一章 綱文・史料一覧)

大腰五兵衛家蔵文書」 329 ●天正十年(一五八二)四月三日、由利侵攻中の大宝寺義氏、大曲城主前田薩摩守に、津軽勢八森進出
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