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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編2(近世1) (一一 津軽徧覧日記(つがるへんらんにっき))

為信より信明(のぶはる)の代までの歴史を、諸家の旧記により、公儀にかかわる事柄から民間のことわざ等に至
通史編2(近世1) (伏見木幡山城の築城)

しかし、伏見木幡山城の築城がすでに始められていた慶長二年からは「伏見御作事為御用」「公儀御板」「天下御作事之杉板,、当初の秀吉隠居城という性格が完全に払拭(ふっしょく)され、木幡山城の段階には、明確に秀吉政権(=「公儀
通史編2(近世1) (豊臣再仕置軍の奥州下向)

えられていることは、秀吉が為信を南部氏の家臣から正式に津軽の独立大名として公認する一方で、その津軽氏を公権力(公儀,為信は、ここにおいて公儀の軍隊に編成され、中世のような自己の判断に基づく軍事行動を一切否定されることになったのである,また、公儀の軍隊である豊臣軍の進軍ルートがこの時点で津軽領内を通過することになっていたことは、まさに奥羽,これは、すなわち奥羽・「日の本(ひのもと)」仕置を遂げた地の軍勢を公儀の秀吉の軍隊に編成し、軍事動員によって
通史編3(近世2) (神職の扱い)

神職の扱い 神職は自らを吉田家からの「公儀御条目」にある「文武士」と認識しており、国家を守護する役務
通史編3(近世2) (藩政中期四代信政)

①公儀の定めを守り、学問を怠らないこと。 ②キリシタン改めに油断しないこと。,⑨徒党、争論は公儀の定を守ること。 ⑩寺社領の住民が困窮しないようにすること。
通史編2(近世1) (秀吉による朝鮮出兵の背景)

惣無事令によって一切の私戦がなくなり、すべての兵が公権力(公儀)の軍隊に編成された後に大陸侵略が実現できるのであり
通史編2(近世1) (一揆の要因と結果)

『記類』文化十年十一月二十五日条には、蝦夷地警備に伴う「公儀方人馬賃銭、松前郷夫出銭」で農村は疲弊し、
通史編2(近世1) (自分仕置)

自分仕置 幕府の刑罰権ないしその行使を「公儀仕置(こうぎしおき)」というのに対し、大名のそれを「自分
通史編2(近世1) (「分領」と津軽弘前藩)

②一方、弘前・盛岡両藩の警衛担当地域は、「公儀御領」のうえに漁場も開拓されており、この漁場の内を割合で,地所に対して公儀は関与するものではない。
通史編2(近世1) (津軽信英による後見政治と法令の整備)

また「家訓条々」では、公儀法令の遵守(第一条)、職務厳正(第二条)、喧嘩口論・落書・張文等の禁止(第五条
通史編2(近世1) (刑罰の目的)

邪曲(じゃきょく)の殺人、火付け、追剥(おいはぎ)、人家に立ち入る盗人、徒党して人家に押し込んだ者、公儀
通史編2(近世1) (二度の高直り)

なおこの昇格は、箱館奉行からの上申により、公儀諸役評定の結果、決定したという。  
通史編2(近世1) (文化~文政期の藩財政)

16.22  ⑩ 代官手代・浦々町同心等賄米・扶持米 2,377   0.94  ⑪ 公儀買上米,3,000   1.18  御渡金2.000両の内公儀より拝借年賦金,朝鮮人来聘国役金,紙蔵買下代,米 高 比率 備  考 ⑲ 江戸廻米 37,362.5石 14.70% 江戸常用金25,000両の内公儀買上米代差引
通史編2(近世1) (藩政の転換と家臣団統制の動き)

一方後者は、公儀の定法遵守、文武奨励、礼の重視、異風の身なりの禁止、職務精励等、藩士としての心構えを定
通史編2(近世1) (土着策と弘前城下)

寛政十一年(一七九九)四月一日の触れによれば、昨年在宅引き揚げ・禄定町割を仰せ付けたが、「公儀御用」遂行,ここにみえる「公儀御用」とは東蝦夷地仮上知の動向とかかわるものであり、幕府から蝦夷地警備にかかわる長屋切組
通史編2(近世1) (「松前復領期」における蝦夷地派兵準備体制)

一方、文政四年十二月七日に松前藩主松前章広へ申し渡された公儀からの達書をみると、津軽弘前・盛岡両藩との
通史編3(近世2) (神道)

社家頭は天保十二年(一八四一)、三奉行から吉田家の「公儀御条目」の提出を求められた。
通史編2(近世1) (領内海防と台場の構築)

そこで藩では、松前出張の公儀役人に随行してきた幕府雇の兵学家元木謙助の検分を経て、三厩・龍浜(たっぴん
通史編2(近世1) (土着策廃止後の新田・廃田開発)

その理由は「公儀方人馬賃銭」「松前郷夫出銭」「開発方・地面調方」などによって近年の役負担は三〇年以前と
通史編2(近世1) (名護屋における「日本之つき合」)

さきに述べたように、秀吉の大陸侵略は、惣無事令により奥羽・日の本までをその掌中に収め、すべての大名を公儀,つまり、秀吉は、日本の支配を完了し、すべての大名を動員させることができる公儀としての力を誇示し、天正十三年九月
通史編2(近世1) (信政晩年の藩政)

宝永五年(一七〇八)、信政の意志により、弘前城の修築を公儀へ願い出ようとする動きが出始める(「国日記」
通史編2(近世1) (公家との関係)

の戦い直後の流動的な政治情勢の中、それを見誤らずに正確な情報を津軽家に与え、朝廷・公家、そして当時「公儀
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