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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編4(近・現代1) (東奥共同会の設立)

東奥共同会の設立 明治十五年(一八八二)十一月、青森県会議員で東奥義塾塾長の本多庸一は旧藩主の津軽家,これを座視できないゆえ、共同会のメンバーが自由の権利の説を唱えた。,いたずらに官に抗するを権利と思い、道徳に外れることを自由と言って若者を惑わすが、その徒の論を破るのが共同会,これは、本多ら東奥義塾のグループが東奥共同会を作って自由民権運動を進めたことに対する弘前の保守士族の反撃,明治十四年六月四日の『青森新聞』に東奥共同会の会則が掲載されている。 / 東奥共同会の設立
通史編4(近・現代1) (弘前の紛紜の裏面)

弘前の紛紜の裏面 弘前の事態を混迷させたのは、保守派と意を通じ、佐々木高行らに共同会批判の情報を送りながら,共同会の中心人物の一人、今宗蔵は事件のさなかの明治十四年十二月十七日その心境を次のように述べた。,「右縷述(るじゅつ)(彼の前に本多が事件の推移を述べていた)の如く奇怪なる時勢となるのはもとより共同会,事件が山田県令と大道寺・笹森との政治理念の食い違いに始まり、次いで中津軽郡役所一部吏員の反共同会運動、,結局、共同会は、明治十六年四、五月ごろ、榊喜洋芽の発案で解散となった。
通史編4(近・現代1) (蝦夷の月)

明治八年の詔に基づいた行動であって「他県某社ノ慫慂(しょうよう)」を受けたからでないといい、さらに「共同会創設,」で東奥の振るわざるは維新以来、人心散漫、知識未開、そのため互いに固陋、猜疑の心になっているからで、共同会,図ることを目的として結成、しかし目下のところ会員はわずか百数十人、しかも常連は二、三十人にすぎない、共同会員
通史編4(近・現代1) (保守派との合同団結)

お雇いフランス人ボアソナードに法律を学んだ共同会員館山漸之進を東津軽郡長に登用した。,中郡笹森儀助、北郡工藤行幹(ゆきもと)、下北郡一町田大江、西郡蒲田昌清、県会議員赤石行三、同本多庸一、共同会員菊池九郎
通史編4(近・現代1) (陸羯南の手紙)

羯南は、その気持ちも分かるが、今この争いから抜け出ると農牧社の事業にも障害が出るから、やはり共同会派を,それは、中津軽郡長に共同会の館山漸之進が任命されたときの混乱で証明されていたということを笹森は羯南に話
通史編4(近・現代1) (私学東奥義塾の終焉-公立への移管)

弘前事件とは、東奥義塾教員が中心となった民権結社共同会と弘前藩の保守派士族たちとの青森県政における対立,これは、共同会に理解を示した青森県令山田秀典が明治十五年一月六日に急死したことで、保守派の勝利となり、
通史編4(近・現代1) (弘前の紛紜の始まり)

弘前の紛紜の始まり 明治十四年八月十一日、中津軽郡長笹森儀助は、青森県令に自由民権の結社共同会に官吏,ところが、明治十四年十月十二日国会開設の詔が出されたので、県令は前言を翻して共同会員の館山漸之進を東津軽郡長,県令は一の共同会と共に事を図るものである」と上司を批判・攻撃をした。
通史編4(近・現代1) (中央における大同団結運動)

における大同団結運動 明治十七年、民権を代表する自由、改進二大政党は崩壊し、弘前でも民権派の拠点の東奥共同会
通史編4(近・現代1) (第一回通常県会)

弘前では、東奥義塾を母体とした自由党系の共同会が創立され、毎週土曜日には演説会を開いて時事問題を論議した
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