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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編3(近世2) (幕末期の稽古館)

それでも時代の要請に応じて幕末期になると、西洋兵学や蘭学、武芸が奨励され、総じて「実用之学風」を宗とすることが,弘化三年(一八四六)十月、和漢の学に広く通じていた兼松成言(号は石居)が西洋兵学を兼学するよう命じられた
通史編2(近世1) (文教政策の展開)

儒学とともに、兵学も城中で講義が実施されるようになった。,この時期以降の藩の兵学は、藩主信政自身の傾倒もあり、山鹿素行の唱える山鹿流が藩の兵法として重んじられ、,同年帰国した信政は、儒学・兵学の振興により一層力を入れる。,注目すべきは、同月二十三日、儒学・兵学・武術のそれぞれの定日と場所が発表されている点であり、藩士に対する
通史編3(近世2) (政争の激化と第三次改革)

上ニ同シ 上ニ同シ 器械掛 上ニ同シ 上ニ同シ 上ニ同シ 兵学教授,兵学助教 兵学副助教 生兵学教授 生兵学助教 学 校 少参事 権少参事 大 属 権大属
通史編2(近世1) (一三 津軽藩旧記伝類(きゅうきでんるい))

津軽藩旧記伝類(きゅうきでんるい) 「津軽旧記類」の続編として、津軽家一門や藩主の夫人、著名な藩士、文学・兵学
通史編3(近世2) (教科目)

すなわち、経学・兵学・紀伝学・天文暦学・数学・書学・法学・武芸・医学・雅楽である。,また入学後、規定の年数が経った時点での兵学の学習が義務づけられた。  
通史編3(近世2) (大学の前触れ)

(6)十歳で入学した者は十五歳ですべて兵学を学ぶこと。,十四、五歳で入学した者は十七、八歳ですべて兵学を学ぶこと。 (7)親並の者の入学は自由とする。
通史編3(近世2) (学官の職掌)

竹内衛士、小司(物頭格)野呂登と続き、経学学頭六人(以下人名略、詳細は資料近世2No.二八五を参照)、兵学学頭五人,、天文暦学頭一人、法律学頭一人、数学頭一人、書学頭一人、馬廻番頭一人、学校目付四人、経学添学頭五人、兵学九人添学頭
通史編2(近世1) (幕末期の海防体制)

津軽黒石藩においても、天保十二年(一八四一)には、藩主承保が本藩に対して、在国中、兵学稽古のため山鹿流兵学師範,(一八五一)には家中に剣術師範がいないために本藩藩士対馬覚蔵の弟忠蔵を召し抱えるなど、海防と関連した兵学伝習
通史編3(近世2) (信政)

素行は当時の朱子学を批判して古学を提唱した儒者であったが、兵学者でもあった。,信政は山鹿流兵法の奥伝大星伝を許され、藩の兵学を山鹿流に統一した。
通史編3(近世2) (信政の教養)

素行の学問・思想は儒学と兵学とを併せ持つ面があった。,兵学の面は山鹿家、喜多村家以外にも磯谷家・貴田家・牧野家・横島家に伝えられていった。
通史編2(近世1) (野本道玄の招聘)

これらの人材が、領内の農業・林業・工業・鉱業の発展、儒学・兵学などの学問導入に果たした役割は大きい(表,横山嘉右衛門,斉藤長兵衛 茶道 野本道玄,後藤兵司,高杉久伯 絵師 鵜川常雲,今村朴元,新井寒竹ほか 兵学
通史編5(近・現代2) (山鹿学の影響)

夫喜多村源八(津軽監物)は信政に仕え、重臣となっており、延宝八年(一六八〇)九月、素行は津軽信政に山鹿流兵学
通史編2(近世1) (領内海防と台場の構築)

この年の八月、藩主津軽寧親は青森に赴いたが、その際、用人山鹿高美、郡奉行野呂助左衛門、兵学学頭岡本平馬,そこで藩では、松前出張の公儀役人に随行してきた幕府雇の兵学家元木謙助の検分を経て、三厩・龍浜(たっぴん
通史編3(近世2) (藩士の信仰)

日ごろ、藩士は神道・儒教・仏教・兵学を学んでいるが、寺請(てらうけ)・檀家(だんか)制度が整備されてくると
通史編3(近世2) (喜多村校尉政方)

喜多村校尉政方(こういまさかた)(一六八二~一七二九、開雲(かいうん)堂・耕道(こうどう)と号した)は、素行の兵学
通史編3(近世2) (御軍政局の発足と組織)

藩の正規の軍制は四代信政(のぶまさ)が兵学者山鹿素行(やまがそこう)に傾倒(けいとう)して以来、山鹿流,で、行軍訓練・大砲や小銃の実質的教授はここで担当した)や調方助役(直接訓練に携わることはなかったが、兵学書,しかし、前職をみると、彼らは江戸で兵学を学んだり、藩校の官吏として勤め、軍事実務に明るい者であって、この
通史編3(近世2) (学校造営)

また左翼には天文・数学・兵学を、右翼には医学・和学を学ぶ部屋が配置され、学科単位の非常によく練り上げられた
通史編2(近世1) (旅行者のみた領内海防)

松陰が養子となった吉田家は、長州藩における山鹿流の兵学師範の家柄であり、この旅の主目的も兵学的立場における
通史編3(近世2) (信政の文治)

八郎兵衛(歯科医)、豊田検校、十河能登、湯浅律斎、渋江道陸   算術測量 金沢勘右衛門、清水貞徳   兵学
通史編3(近世2) (寛政期の城下)

稽古館では経学・兵学・天文暦学・紀伝学・法律学・数学・書学が教授された。
通史編3(近世2) (信寿・信著・信寧時代)

喜多村政方(一六八二~一七二九)は素行の外孫で開雲堂・耕道と号し、家学の山鹿流兵学を祖述し、詩文もよくした
通史編2(近世1) (「出頭人」の台頭)

一つは兵学者・儒学者山鹿素行(やまがそこう)(一六二二~一六八五)の一族やその薫陶を受けた「素行派(そこうは
資料編3(近世編2) (【解説】)

それでも時代の要請に応えて、西洋兵学や蘭学を取り込みながら、新政府のもと明治五年(一八七二)十一月、私立東奥義塾
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