• 機関トップ
  • 資料グループ
  • テキスト一覧
  • 年表一覧
  • キーワード一覧

弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

  1. トップページ
  2. 詳細検索

詳細検索


検索条件を追加
閉じる
検索結果 : 6件
辞書ファセット
/ 1ページ
通史編2(近世1) (津軽家宛ての領知宛行状と領知高の変動)

年月日 差出 宛所 種別 事由 石高合計 内分 記載 872 寛文4年(1664)4月5日 徳川家綱,発給者 宛 所 発給年月日 内     容 内分分知記載 八七三 徳川家綱 津軽信政 寛文四年(一六六四,まず内分分知記載の存在である。,これは黒石津軽家(およびその分家)が成立する際、幕府からの承認のもとに本家から知行地を分封された形(内分分知,四〇〇〇石は実際に黒石津軽家が内分で得ている知行地の高であり、六〇〇〇石は蔵米支給のため、判物の役割りである
通史編2(近世1) (黒石藩の位置)

また黒石藩は、弘前藩一〇万石内における一万石の内分分家大名として幕府から認知され、それにしたがって、文政四年
通史編2(近世1) (信政の襲封と黒石分知)

この分知配当は、幕府の命によって本家の所領を分割配当された「内分」であり、信英の領地はあくまでも津軽領
通史編4(近・現代1) (地租増徴問題と青森県)

三十一年六月自由党と進歩党は合同して憲政党を組織したため伊藤内閣も倒れ、次の第一次大隈内閣(憲政党内閣)は党内分裂
通史編2(近世1) (改革推進体制の構築)

米方役所・飼料役所の引き取り、貸方役所・山方役所・作事方役所は御調方役所扱い、内分金蔵(ないぶんきんぞう
通史編2(近世1) (烏帽子山紛争)

平内は明暦三年(一六五七)以来黒石津軽家の領分とされていたが、黒石津軽家が内分分家であったため、紛争の
/ 1ページ
  • 資料グループ
  • テキスト一覧
  • 年表一覧
  • キーワード一覧
  • 機関トップ
  • 利用規定
  • 利用ガイド
  • サイトマップ
  • ADEACトップ
X(旧Twitter) facebook line urlcopy
トップへ
ページURLがコピーされました