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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編4(近・現代1) (動く写真)

動く写真 わが国活動写真の始まりは、明治三十年(一八九七)に外国から輸入された「動く写真」であった。,弘前での最初は三十三年五月、柾木座に来た米西戦争(一八九八年)の活動写真であった。,もちろんまだ幼稚な技術ではあったが、三十七年四月には戦争勃発の国内情勢などの写真が茂森座で観覧され、日々大入,こうした時局認識の点で、活動写真が国民に与えたものは大きかった。,三十九年十月には、戦後の廃兵慰問活動写真という名目のものが柾木座で催された。 / 動く写真
通史編4(近・現代1) (ランプと写真)

ランプと写真 灯火の変遷も、また、明治の新文化を最もよく表している。,彼自身明治初年に写真を撮り、その写真の自像に題した詩の一節に、「泰西伝二奇器一、写レ真如二合符一、山川及人物,石居はその後明治九年に東京でも写真を撮っている。  ,彼が明治四、五年のころに撮った旧城内天守閣付近の写真が現存している。,当時の写真はみなガラス写真で、印画紙に焼き付けるのはまだ後のことである。 / ランプと写真
通史編5(近・現代2) (掲載写真の典拠・所蔵一覧)

写真11  同 上 写真16 『秩父宮両殿下御高徳禄』弘前市立図書館蔵 写真21 『青森県綜観』弘前市蔵,写真47 東奥日報社提供 写真48 『青森県綜観』弘前市蔵 写真54 同 上 写真55 同 上,写真85 稲葉克夫氏提供 写真86 弘前市立図書館蔵 写真88 『青森県労働運動史』第二巻 青森県, 1971年 写真89 大高ミツ氏提供 写真92 『青森県下名家と庭園画帖』弘前市蔵 写真93 ,年 写真242 弘前市立郷土文学館協力 写真243 同 上 写真244 養生幼稚園蔵 写真245 / 掲載写真の典拠・所蔵一覧
通史編1(古代・中世) (掲載図版・写真の典拠・所蔵一覧)

写真17 土井ヶ浜遺跡・人類学ミュージアム 写真18 福島県立博物館写真提供 写真19 岩手県胆沢郡胆沢町教育委員会写真提供,写真30 秋田県秋田市広報課写真提供 写真31 日本書紀標註巻21 弘前市蔵 写真32 撮影 写真33,撮影 写真34 撮影 写真35 拾芥抄 弘前市蔵 写真36 北津軽郡市浦村教育委員会写真提供 写真37, 個人蔵 写真43 東北歴史博物館蔵 写真44 東北歴史博物館写真提供 写真45 撮影 写真46 撮影,センター写真提供 写真49 同上 写真50 撮影 写真51 岩手県紫波郡矢巾町教育委員会写真提供 写真 / 掲載図版・写真の典拠・所蔵一覧
通史編4(近・現代1) (掲載写真・図版の典拠・所蔵一覧)

掲載写真・図版の典拠・所蔵一覧 掲載写真・図版の典拠・所蔵一覧   注)本書に掲載した写真の多くは、,写真9 『開文雑誌』弘前市立図書館蔵 写真10 弘前市立図書館蔵 写真12 青森銀行記念館蔵 写真14,と産業」弘前市蔵 写真27 「青森県弘前市実地明細絵図」弘前市立図書館蔵 写真28 青森銀行蔵 写真29,資料編近現代2 青森県 2003年 写真76 『青森県軍隊写真帖』弘前市立図書館蔵 写真77 『青森県写真帖,写真134 同上 写真135 弘前市立博物館蔵 写真136 弘前市 貞昌寺 写真137 『南島探験』 / 掲載写真・図版の典拠・所蔵一覧
通史編2(近世1) (掲載図版・写真の典拠・所蔵一覧)

掲載図版・写真の典拠・所蔵一覧 掲載図版・写真の典拠・所蔵一覧   注)  一覧は図版・写真の後に,17 金沢市 尾山神社蔵 18 南部信直黒印状 文禄2年5月27日付 南部光徹氏蔵 能代市史編さん室写真提供,35 浅利頼平領内村数覚書写 慶長2年9月3日付 東北大学附属図書館蔵秋田家文書 能代市史編さん室写真提供,36 南部信直書状案写 文禄4年8月22日付 南部光徹氏蔵 能代市史編さん室写真提供 37 津軽信建書状写, 慶長3年8月26日付 東北大学附属図書館蔵秋田家文書能代市史編さん室写真提供 38 大阪城天守閣蔵 / 掲載図版・写真の典拠・所蔵一覧
資料編1(考古編) (資料編1「考古編」掲載図・表・写真一覧)

 下恋塚遺跡調査風景 写真 下恋塚遺跡調査風景 写真 下恋塚遺跡第1号住居跡全景 写真 下恋塚遺跡第,検出状況 写真 下恋塚遺跡第5号住居跡全景 写真 下恋塚遺跡第3号住居跡出土墨書坏(「丸」) 写真,写真 中崎館遺跡調査区全景 写真 中崎館遺跡掘立柱建物跡・溝跡 写真 中崎館遺跡SE04井戸跡, 荼毘館遺跡航空写真 写真 荼毘館遺跡南端部(調査前南方から) 写真 荼毘館遺跡全景(調査後北方から, 独狐遺跡掘立柱建物跡柱穴群 写真 独狐遺跡堀跡全景 写真 独狐遺跡第203号竪穴遺構全景 写真 / 資料編1「考古編」掲載図・表・写真一覧
通史編3(近世2) (掲載図版・写真の典拠・所蔵一覧)

掲載図版・写真の典拠・所蔵一覧 掲載図版・写真の典拠・所蔵一覧   注)  一覧は図版・写真の後に,弘前市立図書館蔵津軽家文書 52 学校法人 東奥義塾蔵 53 弘前市立博物館蔵 54 斉藤俊朔氏蔵 仙台市博物館写真提供,弘前市立図書館蔵岩見文庫 65 青森県上北郡野辺地町 66 北海道檜山郡江差町 財団法人 開陽丸青少年センター写真提供 / 掲載図版・写真の典拠・所蔵一覧
通史編1(古代・中世) (調査された館)

弘前市域では現在まで五〇ヵ所の中世城館が確認されており、中崎館をはじめ石川城(楯)(写真178)・福村城,(写真179)・小友館・荼毘(だび)館・独狐(とっこ)館・境関館・堀越城・出間(でま)館・鷹ヶ岡城・乳井茶臼館,写真178 石川城跡航空写真 写真179 福村城跡航空写真  しかしながら、発掘面積は
通史編1(自然・原始) (岩木火山の姿)

岩木火山の姿 写真5~7は、順に岩木町付近、鶴田町付近、そして板柳町付近から撮影した岩木火山の遠景である,写真5 南東方から望む岩木火山 写真6 北東方から望む岩木火山 写真7 東方から望
通史編1(自然・原始) (南麓)

南麓 写真12は、岳~百沢間の地蔵茶屋付近、写真13は岩木山百沢スキー場での露頭写真である。,写真12 地蔵茶屋付近の土石流堆積物。地表直下とローム層中に礫が層状に含まれる。,写真13 岩木山百沢スキー場での土石流堆積物。ローム中に3枚の砂礫層が認められる。
通史編1(自然・原始) (火砕流とは)

火砕流とは 写真28は十和田市を流れる砂土路(さどろ)川流域での火砕流堆積物に包含された流木を示しているが,写真29は五戸町浅水(あさみず)川流域での、高温の火砕流に取り込まれた樹木であるが、完全に炭化した状態,写真28 火砕流堆積物に包含された流木 (十和田市の砂土路川流域,青森県史編さん室提供),写真29 火砕流堆積物に包含された炭化材(五戸町浅水川流域)  火砕流(火山砕屑流(さいせつりゅう
通史編1(古代・中世) (田道伝説)

田道伝説 尾上町の猿賀神社(写真23)の縁起には、さらに古く『日本書紀』仁徳五十五年条に見える、蝦夷,にかかわったという史実に由来するもので、『日本書紀』では「伊寺水門(いじのみなと)」に葬られたという(写真,写真23 猿賀神社(尾上町) 写真24『日本書紀通證』巻之十六
通史編1(古代・中世) (時頼廻国伝説)

県下には藤崎町を中心に時頼廻国にちなむ、その妾唐糸御前(からいとごぜん)の伝説(写真103)があり、また,名川町の法光寺(写真104)は廻国中の時頼を助けたことによる恩賞としての、旧寺院を破却しての創建と伝えられるなど,写真103 延文の板碑(藤崎町) (唐糸の板碑) 写真104 法光寺(三戸町)
通史編4(近・現代1) (新事物)

町の写真館も、師団設置以来軍人を顧客とする新商売として目立って増えた。,本町の矢川友弥・神忍、瓦ヶ町小西吉十郎、山道町斎藤篤一などが三十年代の写真館を担った。,「閃光写真とて、昼間の写真と毫も変ることなし云々」と宣伝している。  ,明治の末に双眼写真というものが東京から入ってきた。,東京や各地の名勝写真が主で、その中に「弘前市 山形氏の庭園」という写真もあった。
通史編1(古代・中世) (曽我惟重とその妻)

する岩楯村内の「亡夫墓堂(燈油)仏聖田」のことを申請した人物に「岩楯尼」なる女性がいる(史料五六九〈写真,写真118 北条泰時書下状  また嘉禎三年の「北条泰時袖判下文」(史料五六一)で「夫沙弥西心」の,嘉禎二年の譲状に任せて一期分として岩楯村地頭代職を安堵された「伊豆田所女房」なる女性がいるが、西心(写真,写真119 西心碑 (大鰐町)
通史編1(古代・中世) (「嘉元鐘」)

間四区、陰刻)中に刻まれた人名は、津軽地方の鎌倉武士たちを知るための重要な史料である(史料六〇三・口絵・写真,写真113 『集古十種』長勝寺鐘銘文  元来この鐘は、鎌倉建長寺流の禅宗寺院で関東祈禱所でもある,前執権北条貞時の法名)が、鎌倉円覚寺の鐘(正安三年〈一三〇一〉八月銘・写真111・112)と一致することから,写真111 円覚寺鐘(神奈川県鎌倉市) 写真112 『集古十種』円覚寺鐘銘  ただ松平定信,ともいうべき『集古十種』(寛政十二年〈一八〇〇〉刊)に、鎌倉円覚寺鐘とともに、この長勝寺の嘉元鐘の銘文が掲載(写真
通史編1(古代・中世) (有間浜の所在)

西海岸には比羅夫来航伝説とも関わる日和山が、深浦(写真32)にも鯵ヶ沢(写真33)にもある。,音の類似からいうと深浦町の吾妻(あづま)の浜(写真34)も有力な比定地の一つである。,写真32 深浦町・日和山 写真33 鯵ヶ沢町・日和山 写真34 深浦町・吾妻浜
通史編1(自然・原始) (座頭石のチャート)

でもある座頭石は、稲刈沢の河床から垂直な壁がそびえた、一〇〇メートル余りもの高さをもつ大岩壁である(写真,になりやすいが、よくみると黒色泥岩からできており、砂岩が小さな塊や薄くねじれたような形で含まれている(写真,写真64 座頭石の岸壁をつくっているチャート。,写真65 座頭石付近にみられる,付加体堆積物を特徴づけるメランジ(混在岩)の産状。,写真66 稲刈沢川の最上流部でみられる,緑色岩の露頭。
通史編4(近・現代1) (芝居小屋と寄席)

写真199 茂森座内部  芝居小屋に劣らぬ娯楽の場に寄席があった。,しかし、大正期に入ると、活動写真が大衆娯楽の世界に大きく台頭してきた。,弘前では、大正初期までは常設館はなく、全国巡回の活動写真が芝居小屋や寄席を利用し、上映されていた。,やがて、この活動写真の興隆により、芝居小屋、寄席は転向を余儀なくさせられていくのである。
通史編1(古代・中世) (胆沢築城)

(ほうろく)町」といわれた痕跡を残している場所があり(水沢市佐倉(さくら)河)、そこが胆沢城の故地(写真,写真48 胆沢城跡(岩手県水沢市)  駿河・甲斐・相模・武蔵・上総・下総・常陸・信濃・上野・下野,であるが、胆沢城跡から出土した漆紙文書のなかに、この年六月に玉造軍団からの解文の到着を示すものがある(写真,写真49 胆沢城跡出土漆紙文書 延暦21年6月玉造軍団より胆沢城にあてられたもの。  
通史編1(古代・中世) (石川城跡)

(八幡(はちまん)館跡とか次五兵衛殿館とも呼ばれる)という石川城跡の中心部に当たる曲輪と、堀跡部分(写真,写真215 石川城跡内曲輪から検出された巨大な堀跡  さらに出土した遺物は、中世のものは中国青磁,からおよそ六〇センチメートルほど上面から、焼けた石などが投げ捨てられたような状態で出土している(図78・写真,図78 石川城跡検出の堀跡断面図 写真216 石川城跡発掘状況
通史編1(自然・原始) (第三期)

23)、上位には溶岩流も認められる(写真24)。,写真25 貝沢南方にみられる火山噴出物。軽石層(白色の縞模様)が数枚堆積する。,写真26 砂沢溜池北方の山風森付近にみられる岩木火山起源の噴出物。,日本海に面した海成段丘では、細粒火山灰として確認される(写真16)。  ,写真27 鳥海山にみられる降下軽石層
通史編1(古代・中世) (鎮守府将軍秀衡)

秀衡は後白河法皇(写真88)と深い関係を有しており、後白河のご落胤(らくいん)と目される女性まで平泉に,秀衡が平泉館を現在の柳之御所遺跡(写真89)の地に移したのも、この鎮守府将軍任命が契機であったかと推測,写真88 後白河法皇 写真89 柳之御所跡(岩手県平泉町)
通史編1(古代・中世) (秋田の唐糸伝説)

ふたなぬか)山釈迦堂光明寺(秋田市旭北寺町)・三七日(みなぬか)山阿弥陀堂(現大国主神社、仙北郡西木村・写真,写真107 三七日山阿弥陀堂 (秋田県西木村・現大国主神社)  先にも触れたとおり、それぞれの,『三七日山阿弥陀堂略縁起』(写真108)では、時頼が「諸国執行をして天下の善悪」をみるために廻国に出たあと,写真108 三七日山阿弥陀堂略縁起
通史編1(自然・原始) (津軽平野を覆っていた海)

そこには上げ潮と下げ潮を意味する、相反する潮の流れの方向を示す交叉した縞模様(クロスラミナがみられる(写真,写真45 大釈迦層にみられる潮流が流れていた痕跡を残しているクロスラミナ。,にしめや)村の郷坂沢(ごうさかさわ)でみられる泥岩(大秋層)からは、砂の詰まったパイプ状の生痕化石(写真,写真46 深海底の泥がたまる所に住んでいた海綿の一種,マキヤマの化石。白いパイプ状の部分。,写真47 郷坂沢の大秋層泥岩中に挟まれる,細かな葉理凝灰岩にみられる生痕化石。
通史編1(自然・原始) (立構山で観察される火道の断面)

採石場は、ちょうど立構山の断面がみられるようになっている(写真62a)。,ここの安山岩には太い木の柱を横に積み重ねたような柱状節理がみられる(写真62b)。,写真62a 弘前市と相馬村の境にある立構山の採石場。,写真62b 砕石に用いられる安山岩にみられる柱状節理。,写真63 安山岩溶岩に接している部分に形成された,泥岩のホルンフェルス。  
通史編4(近・現代1) (初めての常設館・慈善館)

初めての常設館・慈善館 大正三年九月、富田住吉通りに弘前初の活動写真常設館として慈善館が誕生した。,写真200 慈善館  慈善館を開館したのは、「孤児院のオドサ」の愛称で人々になじまれていた東北育児院,明治四十一年からは、活動写真の巡回興行による資金稼ぎを始め、これにより経営難から救われたが、さらに安定性,のある資金源として活動写真常設館を創設した。,写真201 佐々木五三郎
通史編1(古代・中世) (詰城の城館跡)

詰城の城館跡 詰城としては、乳井茶臼館跡(写真212)や乳井古館跡、笹館跡、隣接町村では相馬村の湯口茶臼館跡,写真212 乳井茶臼館跡航空写真
通史編1(自然・原始) (第一期)

北側の小丘などに共通していることは、板状節理(11)の発達した安山岩質溶岩からなっていることである(写真,、兼平石が〇・三四±〇・〇三百万年前であり、十面沢小丘群の一つである巌鬼山神社近くの小丘(写真,写真17 板状の安山岩質溶岩からなる白草山北方の小丘。 写真18 巌鬼山神社近くの砕石場。,写真19 黄金山付近の露頭。,写真20 黒瀧神社近くにみられる凝灰角礫岩。下位に泥炭層をはさむ凝灰質粘土層が堆積する。
通史編1(古代・中世) (津軽氏の系譜と唐糸御前)

津軽氏の系譜と唐糸御前 また津軽氏の系譜に関する史料である『可足権僧正筆記之写』や『前代歴譜』(写真,写真109 『前代歴譜』
通史編1(古代・中世) (工藤氏の活躍)

その勲功の賞として貞行は、山辺郡・田舎郡・鼻和郡・外浜などに所領を得た(史料六四七・六五七・写真137,写真137 陸奥国宣案
通史編1(自然・原始) (扇状地周縁の地形)

小丘群は比高一〇〇メートル以下、直径五〇〇メートル以下の円錐形~楕円形をなし、輝石安山岩質溶岩からなる(写真,十腰内・三日月開拓・夕日ヶ丘開拓などでも岩屑なだれ堆積物がみられ、堆積面上に各集落が位置している(口絵・写真,写真14 十面沢小丘群のある北東方の丘陵(赤倉沢から望む) 写真15 岩屑なだれ堆積物 右,岳南西方の常盤野地区も扇状地性の低地帯であって、南縁の丘陵とは断層崖で接し崖下に低湿地が認められる(写真,写真16 洞爺テフラ(中央の白色部分)と直下の古砂丘砂
通史編1(自然・原始) (桔梗野面)

われる急崖が認められることから、八〇メートル以高が高位段丘に、下位が花巻面に相当し中位段丘に対比される(写真,写真38 鳥井野から望む桔梗野面  桔梗野面を流れるおもな河川として大和沢川、腰巻川、土淵川、寺沢川,ところで、墓地公園東側の土取り場(一一〇メートル)の露頭①は桔梗野面の上位面を構成する堆積物を示し(写真,写真40 弘前市郊外の墓地公園近くの土取り場。,写真41 廻堰大溜池付近でのローム層。上半部が「サメアカローム」(白色の縞模様部分)
通史編1(古代・中世) (後方羊蹄の所在地)

写真36)であり、そのふもとの大船団碇泊のための格好の港である岩木川河口の十三湊こそ、シリペシであろう,に浮かぶ中島遺跡からは、この比羅夫の時代の七世紀まで遡る可能性の高い土師器(はじき)が出土している(写真,写真36 十三湖と権現崎 写真37 中嶋遺跡出土の土師器(市浦村)  当時の蝦夷の拠点
通史編1(古代・中世) (十三湊空白の百年)

類似した現象は、日本海沿岸の湊機能をもった遺跡にも認められ、普正寺(ふしょうじ)遺跡(金沢市・写真169,写真169 普正寺遺跡  とくに、近年の調査で十三湊と関係が深いとされる北海道余市(よいち)町の,大川(おおかわ)遺跡(写真170)に関しても一五世紀までの遺物が存在するのに一六世紀の指標は極端に少なくなる,写真170 大川遺跡出土の耳飾り・首飾り
通史編1(古代・中世) (一 「日の本将軍」安藤氏)

の勅命を受けて、前年三月に焼失した若狭国羽賀寺(はがじ)の再建に乗り出している(史料七八〇・七八一・写真,写真160 『本浄山羽賀寺縁起』
通史編1(自然・原始) (白神山地)

・西股山など、一〇〇〇メートルを超す山岳があって、谷密度が高く起伏に富む壮年期的な様相を呈している(写真,写真2 険しい白神山地(手前)と雄大な岩木火山 (青森県史編さん室提供)
通史編1(自然・原始) (深海に堆積してできた地層)

小栗山(こぐりやま)神社付近の丘陵は、ほとんどこの硬い泥岩(硬質泥岩)からできており(写真57~59),松木平層を構成する地層は、南に向かって傾斜している(写真57)。,写真57 上部中新統松木平層の地層。成層した泥岩からなり,凝灰岩を挟む左側に傾斜している。,写真59 松木平層の泥岩が風化して表面から剥離し,小さな破片が集積している様子。  ,近づいてよくみると、茶色の同心円状や渦巻き状の細かな縞模様がみえる(写真60)。
通史編1(自然・原始) (山の上にみられる大昔に川が流れていた跡)

その丘陵には、園地を造成する時にできた崖(写真43や写真57)があちらこちらにみられ、丘陵を構成する地層,写真43 りんご畑の中にある,地層観察に重要な露頭。栩内川層(大和沢層)や松木平層からなる。,尾根の頂上部が削られた所(図46矢印①)をみると、傾いた泥岩層の上に砂利がたまっていることに気がつく(写真,写真44 切り割りの表部(上の写真の矢印)に散らばってみられる,おもにチャートからなる円礫(下の写真),で堆積物の様子を詳しく観察すると、砂利は泥岩の地層の表層部に、まだ固まりきらない状態で散乱している(写真
通史編5(近・現代2) (個人作家の活躍)

写真281 天野邦弘『AFTER IMAGE42(残像42)』  戦前青森師範学校で教鞭をとった,写真282 小野忠弘『BLUE』 写真283 工藤哲巳『パリでのブッダ』 写真284, 佐野ぬい『カリブ・北北西』 写真285 工藤甲人『冬ともえ』 写真286 奈良美智
通史編1(自然・原始) (カルデラ内の堆積物)

こうしてできた堆積物は、阿闍羅山の周囲(鎌田、一九九三)や碇ヶ関付近(写真55)でみることができる。,一般に湖沼堆積物には、平行な縞模様がみられる(写真56)。,写真55 碇ヶ関カルデラ内の扇状地堆積物。,(碇ヶ関村東部) 写真56 碇ヶ関カルデラ内の湖底に堆積したシルト岩。
通史編1(古代・中世) (城館調査の今後)

した石川城跡内館跡の調査では、広大な領域を有する石川城跡のごく一部ではあったが、大規模な堀跡の検出(写真,写真181 石川城跡内館の堀跡  とくに、堀跡から出土した下駄・箸・曲物・箆(へら)・取手などの,さらに、平成九年度(一九九七)に調査した福村城跡では、堀跡から橋梁(きょうりょう)の跡が発見され(写真,写真182 福村城跡発見の橋梁  現在は、弘前市域に限定しても、国史跡となっている弘前城、長勝寺構
通史編1(古代・中世) (大光寺新城跡)

大光寺新城跡 大光寺新城跡(写真217)は南津軽郡平賀町字三村井に所在する。,写真217 大光寺城跡空撮  大光寺新城跡の発掘調査は昭和六十三年(一九八八)から土地開発に伴い,、堀跡部分を中心として行われ、平成八年度(一九九六)には土橋状の通路(写真218)が検出された。,写真218 大光寺新城跡検出の土橋  出土遺物は武器・武具関係が多く、武器としては鉄鏃(蕪(かぶら
通史編5(近・現代2) (進取の建築)

洋風建築建設の盛況は、年号が変わっても衰えることなく続き、種類の上でも、公共建築や銀行建築はもちろん、活動写真館,大正三年(一九一四)、県下初の活動写真館・慈善館が新築される。,写真298 弘前商業会議所(大正4年)  大正十年(一九二一)新築の藤田謙一(ふじたけんいち)別邸,写真299 翠明荘(旧高谷英城別邸)(昭和9年)
通史編1(古代・中世) (渡嶋の終焉)

でもめごとがあったことが伝えられているが(史料三五一)、これを最後に、「渡嶋」の名は歴史から消えていく(写真,写真55『本朝往古沿革図説』  東北経営の完了とともに、渡嶋の本州部分は津軽に取り込まれ、北海道
通史編1(自然・原始) (大規模な海底地滑りの痕跡)

写真49 東目屋層の変形した地層のクローズアップ。,写真48 郷坂沢の高い谷壁にみられる,東目屋層を特徴づける変形した地層の様子。,写真50 岩木川の右岸に露出する東目屋層(写真左)と,そこに含まれている二枚貝化石の断面(写真右の白矢印,写真51 図50の最下部にみられる,河口の沖合の砂地の海底に住んでいたフサゴカイ類の巣穴。,写真53 平賀町尾崎の白岩。  
通史編1(古代・中世) (文永の蝦夷の乱)

(三三蔵祈雨事、史料五八二・写真132) 写真132 三三蔵祈雨事 目録を見る 精細画像で見る,道理ヲ弁ヘテ堂塔多ク造ル善人也、イカニシテ頸ヲハヱソニ取ラレヌルソ、 (佐渡御勘気御抄、史料五八三・写真,133) 写真133 佐渡御勘気御抄    日蓮の北方に関する情報源が何であったのか大変興味深
通史編1(古代・中世) (南部晴政の登場と一族間の対立)

の登場と一族間の対立 天文八年(一五三九)、「奥州南部彦三郎」が上洛し、将軍足利義晴(よしはる)(写真,〈「聞老遺事(もんろういじ)」〈写真194〉には「晴」字を乞うた相手を信玄(しんげん)として知られる武田晴信,写真193 足利義晴 写真194 『聞老遺事』晴政公  従者になるべき者が主君の一字を,は、居館の聖寿寺館(しょうじゅじたて)(本三戸城、三戸郡南部町)の焼失を機に、三戸城(三戸郡三戸町・写真,写真195 三戸古城の図  晴政の時代、南部氏の勢力拡大は糠部郡より南へと進んだ。
通史編1(自然・原始) (地形の概説)

扇状地帯・自然堤防帯・三角州帯の三地域に区分し、最北端に潟湖(せきこ)(8)である十三湖が位置している(写真,なお航空写真では、稲垣村再賀(さいか)付近において水田地に旧河道跡と思われる暗色帯が蛇行しながら放射状,図5 沖積低地の地形(模式図)(海津,1994より転載) 写真3 十三湊遺跡がある砂州は十三湖
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