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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編1(自然・原始) (冷害の歴史)

冷害の歴史 気候変動の研究は、今後の気候の温暖化、地球環境の問題、または古代の生活を知ることなどからも,したがって稲作を中心に冷害を受けることがしばしばである。,藩政時代に津軽地方で発生した気象災害のうち、凶饉記録について抽出してみると、藩政時代の約二五〇年間に冷害回数,そこで冷害規模が大きく、餓死者が多いなどの主たる凶饉年の事例を挙げた。,ここでも観測時代における気候変動との関連に似て、低温時代に冷害による凶作群の出現が連鎖的にみられた。 / 冷害の歴史
通史編1(自然・原始) (ヤマセと冷害)

ヤマセと冷害 農作物、特に稲作がヤマセから受ける影響の中で大きな問題は、低温のほか、濃霧や層雲といった,冷害年の昭和五十五年(一九八〇)の事例では、ヤマセ日の日照時間は、津軽平野や西海岸地域では太平洋側や東津軽郡,気温は津軽地域でも平年より月平均気温で二~三℃低いが、日照不足による障害が抑えられるため、冷害を受けながらも,このように冷害年の稲作でみるように、同じ低温障害期間にあっても、津軽地域は日照時間に恵まれ地帯別作況指数 / ヤマセと冷害
通史編5(近・現代2) (昭和初期の恐慌と冷害凶作)

昭和初期の恐慌と冷害凶作 大正七年(一九一八)の米騒動を契機に、政府は米増産政策をとった。,さらに、昭和六年(一九三一)、九年(一九三四)、十年(一九三五)と相次いだ冷害凶作は、農家の収入を著しく,農業恐慌と移入米の激増が「昭和農村恐慌」を現出し、特に東北では冷害凶作が追い打ちをかけた。  ,昭和初期の農村は農業恐慌、冷害凶作と続き、わが国の農業の歴史の中でも最も悲惨な状況に置かれた時期であった,栽培農家は青森県や東北の他の地域と比べると冷害による被害を最小限に食い止めることができた。   / 昭和初期の恐慌と冷害凶作
通史編1(自然・原始) (一 青森県の気象)

また、梅雨期には、千島海域方向から吹く冷湿な偏東風(ヤマセ)の日が多くなると、太平洋側では冷害を大きく,ところが、八甲田山系によってせき止められるヤマセは、津軽地方への吹き込みが弱くなり、冷害になっても受ける
通史編1(自然・原始) (夏)

このヤマセが長びくと、夏らしい天気もなく冷害になる。,ところが梅雨明けが遅れ八月に入るような年は冷害が発生しやすい。一般に、津軽では盛夏も残暑も短い。
通史編2(近世1) (天保四年の飢饉)

天保四年の飢饉 前半のピークであった天保四年の飢饉は単純な冷害による生育不良でなく、不安定な天候がもたらしたものといえる,の天保三年も天候不順で、前年比約二割減の不作だったが、『永宝日記』によれば、四年も春には雪消えが遅く冷害
通史編2(近世1) (四 元禄飢饉と農政の転換)

奥羽地方の凶作は、こうした冷害が原因となり、時にそれが飢饉となって現れてくるのであった。
通史編5(近・現代2) (米市場開放と平成の大凶作)

このような中で生じたのが平成五年の冷害・凶作であった。  ,青森県の米収量がわが国のトップ水準に立ったのは、耐冷稲作技術研究の進展であり、冷害防止試験が継続されてきたことである,そして、その結果として耐冷・多収の品種の開発と農家の米栽培技術の向上が実を結び、冷害克服の成果を上げてきた
通史編2(近世1) (農書の成立)

一戸定右衛門による「耕作口伝書(こうさくくでんしょ)」(元禄十一年成立)が、各組の大庄屋を通じて農民たちに冷害,津軽領の各地でこれら篤農家によって、冷害に耐えうる農作物の栽培・農業経営の試みが行われてきたのである。
通史編5(近・現代2) (小作争議と地主制)

加えて昭和初期には農業恐慌と冷害凶作が農業・農民問題を一段と深刻化させていた。,すなわち地主の中には温情的な者もいたが、恐慌と冷害凶作により小作人と同じ境遇に置かれた小規模地主の場合,一般に東北地方で小作争議が頻発するようになったのは、前述のように昭和期に入ってからであり、冷害凶作による
通史編3(近世2) ((一)凶作・飢饉とその対策)

(一)凶作・飢饉とその対策 津軽領の四大凶作といわれるのは、元禄・宝暦・天明・天保年間の冷害による凶作
通史編3(近世2) (中村善時)

参考としつつも、一般論でくくることのできない「其所々の風土」を充分に勘案することを促し、津軽地方では冷害
通史編2(近世1) (寛延の飢饉)

い荒らされたことによって引き起こされたといわれていたからだが、必ずしも獣害だけでなく、同年の飢饉では冷害
通史編2(近世1) (宝暦の飢饉)

この年もまた冷害に見舞われ、雪の消えるのが遅く、四月から八月までヤマセが吹き、さらに雨が降り続いて寒く
通史編5(近・現代2) (道路の整備)

次の資料は、昭和六年(一九三一)に起こった冷害凶作に対する救済事業の一つとしての道路改修工事に関するものである
通史編5(近・現代2) (疲弊する農村)

そして翌昭和六年は大冷害が襲った。
通史編4(近・現代1) (大正二年大凶作と小学校)

時敏小学校学区一部にわたる地域)では、大凶作の実態とその反省を小冊子にまとめているが、それによると大凶作は典型的な冷害
通史編3(近世2) ((一)農作業と農事暦)

明和九年(一七七二)九月十日は、豊凶の記録がないが遅い稲刈りの期日から凶作と推定され、東風(やませ)による冷害,この経験を踏まえ、冷害対策として藩では強い指導を行ったので、農民は晩稲(おくて)中心の栽培から早稲(わせ
通史編4(近・現代1) (農民組合の結成)

しかし、西・北二郡は生産力が低く、特に西郡は低湿地が多く、冷害・旱水害に最も弱かった地帯なので、後れた
通史編1(自然・原始) (夏季の平均気温の変化)

平年差二℃以下では異常低温に対応し、冷害を受け大凶作になっている。
通史編5(近・現代2) (昭和恐慌の勃発と商工業)

また、同年は農村が冷害の被害を受け、不況を加速した。,これに対し、県をはじめ官民は政府に冷害対策実施の陳情を行い、財政支援を取り付けた。
通史編5(近・現代2) (青森県における恐慌の影響)

この間、昭和四年には世界恐慌がウォール街の株価崩落を発端に始まっており、本県ではさらに相次ぐ冷害、農業不況
通史編2(近世1) (樋口善兵衛の報告書)

冷害による凶作が予測されたにもかかわらず、しかも、米価が高騰する端境期に米を売り払ってしまった藩の判断
通史編1(古代・中世) (農民の生活)

冷害など天候不順により凶作になることが多かったため、豊作の年にはできるだけ蓄えをして、凶作の年に備えなければならなかった
通史編1(自然・原始) (夏)

このヤマセが長引くと、夏らしい天気もなく、強弱はあっても冷害を受ける。
通史編5(近・現代2) (飲食業のあり方)

不況と冷夏冷害などの影響、先行きに対する顧客の心理的な警戒観などで危機意識が高まり、これがこのような数字,この客単価の低さについて理由はいろいろあろうが、人件費高騰による女性雇傭の減少、冷害と不況による節約ムード
通史編1(自然・原始) (気候境界と地域特性)

この気候境界は、暖候期は冷害の原因である「ヤマセ」の障壁になって、津軽地域への影響を弱め、寒候期における
通史編2(近世1) (生産力の把握)

津軽地方は自然条件の影響を受けやすく、冷害や凶作がたびたび起こった。
通史編5(近・現代2) (米穀の統制と自作農創設)

米政策の目標は過剰の解消から生産量の維持・増産へと転換した・昭和十六年(一九四一)の青森は六年ぶりの冷害
通史編2(近世1) (飢餓対策における殖産政策)

水田単作地帯の津軽領は、冷害で稲が被害を受けると経済的な被害が甚大になるので、米穀以外の産業の育成は重要
通史編1(自然・原始) (弥生文化の内容)

弥生時代の銅剣 (島根県埋蔵文化財調査センター提供)  近世ならびに近現代に入っても、東北北部は冷害
通史編5(近・現代2) (東北庁設置の要望)

得ス、更ニ天恵甚タ薄ク、僅カニ農産物トシテ年一回ノ米アルモ、昭和三、六、七、九、十年度ノ如ク打チ続ク冷害水害
通史編2(近世1) (「用」の重視)

事実、彼は自身の陸稲耕作の経験に基づいて、冷害の頻発する寒冷地では水稲より陸稲の方が適しているとして、
通史編1(自然・原始) (津軽地域の気温と特徴)

これに関連して、近年の冷害年における気温偏差分布によると、弘前、中・南津軽地域の気温は、平均的に三~五
通史編5(近・現代2) (りんご栽培の進展)

昭和初期のりんご作経営は農業恐慌、冷害凶作による打撃を受けたものの、経営内容は他作物に比べ相対的に順調
通史編5(近・現代2) (安定成長への転換)

95,839 計 36 525 9,467,565 『商工ひろさき』186  昭和五十五年と五十六年は冷害,(中略)  もう一つの個人消費面では実質賃金の目減り、冷夏冷害の影響による買い控え等により振わず、関連業種
通史編2(近世1) (飢饉に至るまでの経緯)

の噴火以前から始まっており、直接的に凶作を引き起こしたのは東風冷雨の、いわゆるヤマセ気候がもたらした冷害
通史編2(近世1) (乳井の略歴)

中でも、冷害に襲われやすい津軽領内の気候・風土に鑑みて、水稲の代わりに陸稲の栽培を強く奨励した「陸稲記
通史編2(近世1) (乳井の思想―「天職」―)

藩財政の完全な破綻とそれに追い打ちをかけるかのように、津軽地方特有の周期的に襲来する冷害が士・庶を問わず
通史編5(近・現代2) (戦時下のりんご統制)

しかし、昭和十六年の冷害後、緊急食糧対策で、果樹園と桑園の整理が割り当てられたにもかかわらず、もも、かき
通史編2(近世1) (糧米確保)

糧米確保 こうした冷害による凶作の不安から、藩のとった対策は、米穀の確保・移入・移出・流通統制を基軸
通史編2(近世1) (災害の続発とその影響)

もはなはだ低温で六月中旬まで停滞したが、月末から七月六日にかけて「東風(やませ)」が吹き、それが原因で冷害
通史編1(自然・原始) (昭和時代)

昭和七年(一九三二)の冷害は、東北北部に多くの被害を与え、一部には深刻な社会問題を引き起こしたのである
資料編1(古代・中世編) ([十六世紀])

●永禄八年(一五六五)、この年冷害により津軽大凶作。翌年にかけ餓死者続出すると伝えられる。
資料編1(古代・中世編) (第一章 綱文・史料一覧)

パードレ・ルイス・フロイスより中国及びインドのパードレ・イルマン等に贈りし書翰 304 ●永禄八年(一五六五)、この年冷害
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