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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編3(近世2) (凶作の状況)

凶作の状況 元禄八年の凶作の状況は、次のようなものであった。,またこの風で稲穂は半分ほど黒くなっており、人々は凶作・飢饉の到来を覚悟したようである。,九月七日から稲刈りを始めたが、岩木川中・下流域および外ヶ浜方面の村々の田圃は不作で、稲の穂が立って実っていないものまでも / 凶作の状況
通史編5(近・現代2) (凶作と小作争議)

凶作と小作争議 本県に恐慌の影響が本格的に現れるのは昭和五年末からで、ついに昭和六年、凶作の不安や不祥事,小作争議は、昭和二年の四件が四年には八倍の三二件となった。,昭和六年の本県の稲作は大正二年以来の凶作となった。,昭和六年、弘前警察所管内の小作争議は、反別一三町一反二畝、関係地主五人、小作一八人、要求は小作継続希望四件,、小作料一時減額一、永久減額一で、同年中に解決三件、未解決二、法調停二件である。 / 凶作と小作争議
通史編4(近・現代1) (凶作の影響)

凶作の影響 大正二年(一九一三)は、青森県において気候が不順であり、稲作が打撃を受け、収穫は平年の二分作,青森県が作成した報告書である『青森県凶作状況一班』は、大正二年時点での金融の逼迫(ひっぱく)と商況の不振,凶作に伴う不況の影響が現れている。  ,また、米の不作が不況発生の原因であるため、国内の他地域産米の移入や外国産米の輸入が増加し、米価は低落傾向 / 凶作の影響
通史編4(近・現代1) (大凶作下の農村)

大凶作下の農村 大正二年(一九一三)の凶作は、春先から低温多雨が続き、明治以降のものとしては史上希にみる,県や市は、凶作救済策として、郡債と県補助金により土木工事を中心に道路の砂利敷、川底の浚渫(しゅんせつ),、川筋の変更、道路の改修などを行い、凶作窮民を雇用する救済事業を行った。,出稼ぎも急増し、凶作窮民の食糧は悲惨を極め、玄米、南瓜(かぼちゃ)、馬鈴薯(ばれいしょ)、大根の乾菜に,塩を混ぜ合わせたお粥(かゆ)を日常食とせざるを得ないこともあった(「青森県中津軽郡凶作に関する概況」、 / 大凶作下の農村
通史編4(近・現代1) (凶作と副業の奨励)

凶作と副業の奨励 明治後期、三十五年(一九〇二)、三十八年、三十九年と大きな凶作が続いた。,明治三十五年の凶作は、中津軽郡では所により皆無作もあり、ほとんどは半作程度であった。,中層以下の農民は惨憺(さんたん)たる状態に陥った(斎藤芳風編『青森県凶作惨状』、一九〇三年、弘前市立図書館蔵岩見文庫,』、明治36年より作成  この時期の連続凶作により、周辺農家の顧客で成り立っている弘前市内の商店街は,第四は、害毒なき野草の摘み取りなど、雑食の推奨を要望し、これらを通して凶作の危機を乗り切ろうとした。 / 凶作と副業の奨励
通史編3(近世2) (凶作の状況)

凶作の状況 天明三年(一七八三)五月一日は東風(やませ)が吹いて寒く、六月一日に綿入れの着物を着るほどで,十六日の朝は強い霜が降りたため、橋の上は真っ白になり、この霜と十三日の強い風雨で稲の作柄はさらに悪くなったと / 凶作の状況
通史編4(近・現代1) (大正二年大凶作と小学校)

大正二年大凶作と小学校 大正二年の大凶作は天明の飢饉に次ぐものといわれ、青森県下産米の実収は平年作の,この凶作の影響は弘前にも及んで、『朝陽小学校沿革誌』大正三年一月に「昨年気候不順にて凶作不況、窮乏児童,とその反省を小冊子にまとめているが、それによると大凶作は典型的な冷害によるものであることがわかる。,藁餅ヤ乾菜(ほしな)ナドト旧式ナ方法デ凶作ヲシノイダモノモアッタ。人トアヘバ凶作ノ噂サデモチキッタ。,県内でも比較的損害が軽微といわれた中津軽郡でさえ、凶作は農民をこのような窮乏に追い込んだのである。 / 大正二年大凶作と小学校
通史編5(近・現代2) (昭和初期の恐慌と冷害凶作)

昭和初期の恐慌と冷害凶作 大正七年(一九一八)の米騒動を契機に、政府は米増産政策をとった。,さらに、昭和六年(一九三一)、九年(一九三四)、十年(一九三五)と相次いだ冷害凶作は、農家の収入を著しく,農業恐慌と移入米の激増が「昭和農村恐慌」を現出し、特に東北では冷害凶作が追い打ちをかけた。  ,昭和初期の農村は農業恐慌、冷害凶作と続き、わが国の農業の歴史の中でも最も悲惨な状況に置かれた時期であった,しかし、昭和六年(一九三一)冷害凶作の影響はその後も続き、『東奥日報』(昭和八年五月十三日付)は、「凶作 / 昭和初期の恐慌と冷害凶作
通史編3(近世2) ((一)凶作・飢饉とその対策)

(一)凶作・飢饉とその対策 津軽領の四大凶作といわれるのは、元禄・宝暦・天明・天保年間の冷害による凶作,くの餓死者を出す惨状を呈したのは、元禄八年(一六九五)・天明三年(一七八三)・天保四年(一八三三)の凶作,このような凶作・飢饉による下層民の城下への滞留の状況について、天明期を中心にその様子をみると次のようになる / (一)凶作・飢饉とその対策
通史編5(近・現代2) (米市場開放と平成の大凶作)

米市場開放と平成の大凶作 昭和六十年代半ば以降、「経済構造調整」政策が進められた。,このような中で生じたのが平成五年の冷害・凶作であった。  ,しかし、一九八〇年代に入ると豊作年を除いては六〇〇キログラム水準を超えることはできなくなった。,こうして「平成の大凶作」は、米不足と米輸入の誘因となった。,写真188 機械化の進む稲作農業 / 米市場開放と平成の大凶作
通史編3(近世2) ((一)農作業と農事暦)

ここでは、津軽弘前藩が隔年に襲われたといってもよい凶作に、どのように対処していったのかみてみたい。,宝暦4年12月7日条 宝暦5年 4月28日 7月12日 9月16日 「日記」宝暦5年12月10日条 凶作,7月20日条 104日 大凶作(米穀直段留扣帳) 天保5年 4月28日 (同上) 7月15日 「日記,宝暦五年九月十六日の稲刈りは凶作のためであり、明和九年(一七七二)九月十日は、豊凶の記録がないが遅い稲刈,天保四年(一八三三)は一〇四日、同六年は九一日で稲刈りが開始されているのは、例年より冷涼で実りが遅く大凶作 / (一)農作業と農事暦
通史編5(近・現代2) (小作争議と地主制)

加えて昭和初期には農業恐慌と冷害凶作が農業・農民問題を一段と深刻化させていた。,の状況、特に東北・北海道地方の農民が置かれた状況は、度重なる凶作の影響もあって悪化し、そのため生活をかけた,すなわち地主の中には温情的な者もいたが、恐慌と冷害凶作により小作人と同じ境遇に置かれた小規模地主の場合,一般に東北地方で小作争議が頻発するようになったのは、前述のように昭和期に入ってからであり、冷害凶作による,中小地主と小作間の耕作条件(耕作の継続、小作料の減額)をめぐる争いであった。 / 小作争議と地主制
通史編5(近・現代2) (米穀の統制と自作農創設)

米穀の統制と自作農創設 昭和十二年(一九三七)、日中戦争開始以降、特に同十四年の朝鮮の干ばつによる凶作,の目標は過剰の解消から生産量の維持・増産へと転換した・昭和十六年(一九四一)の青森は六年ぶりの冷害・凶作,津軽の農業は、米とりんごを基幹作物として発展してきた。,稲作が低位技術に低迷している一方で、りんごは高度な技術と雇用労働に支えられ、「稲作の収入のみでは払ひきれない,すなわち地主制度の変革と自作農創設、それらを担い手とする商品作物の正常な発展が課題となって浮上せざるを / 米穀の統制と自作農創設
通史編4(近・現代1) (地主・小作関係)

特に、松方財政のデフレ政策とその後の農村不況は、明治政府の徴税の厳しさも加わって、自作農民から小作農民,明治前期における地主的土地所有の発展期には、地主・小作関係は幕藩期以来の小作慣行が維持されており、「信義,不作による小作料の延滞納付などに際しても、地主は小作人の実情を斟酌(しんしゃく)し、苛酷な取り立てをするようなことはなく,また、小作料は普通田で五割程度であったが、凶作時の減免や条件不利地の場合は低額に抑えられた(同前)。,このように初期の地主は、小作人保護や農事改良に熱心であった。   / 地主・小作関係
通史編5(近・現代2) (津軽の基幹作物-米とりんご)

津軽の基幹作物-米とりんご 青森県農業、特に津軽地域の基幹作物は米とりんごである。,この二つの作物は不作時には双方が補完し合い、農家経済を支えてきた。,しかし、戦後の一時期は、米凶作が続いた。,昭和二十八年、二十九年の作況指数は、県全体では九三、八三の低い水準となった。,も、津軽地方の米不作は比較的軽微に終わった(表27)。 / 津軽の基幹作物-米とりんご
通史編1(自然・原始) (冷害の歴史)

津軽地方でも平均的に六年に一回の割合で凶作年になっていることになる。,ここでも観測時代における気候変動との関連に似て、低温時代に冷害による凶作群の出現が連鎖的にみられた。,そのうち、元禄、天明、天保の凶作群は、持続性や災害の深刻さから、弘前藩の三大飢饉に挙げられる。,延宝2 1674 凶 作 干天  餓死者多し 延宝5年も凶作 元禄7 1694 凶 作 低温・長雨  , 田畑皆無作 明治2年(1869)大凶作
通史編4(近・現代1) (義民藤田民次郎建碑運動)

大正二年の大凶作は、この年から数えてちょうど一〇〇年目に当たっていた。,民次郎の出身地鬼沢村(現弘前市)では、凶作の影響が深刻になる中の大正三年(一九一四)一月、鳴海柾吉(一揆,(きょうけん)ニ遇ウ、亦タ奇ナラズヤ」と凶作の原因の一端と結びつけており、その中にも凶作の惨状がうかがわれる,大凶作の原因が「民次郎」の供養にあったか否かは別にして、地域住民の建碑に込めた願いが伝わってくる。,民次郎は今日では、凶作で疲弊した農民を救うために減免の要求を掲げてその先頭に立った義民として評価されている
通史編5(近・現代2) (連続する災害と東北振興政策)

「昭和六年大凶作」である。,弘前市も含め青森県は、二十世紀最大の凶作といわれた「大正二年大凶作」で深刻な被害を被った。,その最大の根拠は「大正二年大凶作」が単発的に終わったのに対し、昭和の農村恐慌が「昭和六年大凶作」以降、,凶作対策事業の施行、市町村財政の確立、政府所有米の払下げと配給、冬期の副業奨励、代用食の奨励、小作紛議防止委員会,凶作や連続災害は、それに拍車をかけた。
通史編2(近世1) ((一)宝暦の飢饉)

しかし津軽領の場合、「封内事実秘苑」(資料近世2No.六)に「今年の凶作は全国的な飢饉となり、特に国元,では寛延二年の凶作を上まわり、元禄以来の大凶作になったが、領内で餓死者は出なかった。
通史編1(自然・原始) (夏季の平均気温の変化)

平年差二℃以下では異常低温に対応し、冷害を受け大凶作になっている。,前者は明治凶作群に、後者は昭和初期の凶作群に対応している。,この期間における夏季平均気温は平年値(二〇・二℃)から平年差〇・五℃以下になっており、稲作作況指数九四以下,の不作年が、六回発生している。,これらの年は、夏季平均気温一八・三℃以下で、昭和二十九年が凶作であった以外は大凶作となっている。
通史編2(近世1) (飢饉に至るまでの経緯)

飢饉に至るまでの経緯 宝暦の飢饉でみたとおり、近世の飢饉は単なる自然災害ではなく、凶作下でも江戸や上方,また、鎖国体制のもとでは明治以降の凶作のように、外国から米を輸入できないことはもちろんであるが、さらに,図表32 江戸時代の津軽領の人口推移  宝暦五年(一七五五)の凶作の際は、前年がたまたま豊作で余剰米,の田方はほぼ一〇分の一、よくても三分の一(大光寺組・猿賀組)の出来という大凶作となった。,藩は遅まきながら元禄八年・宝暦五年を上回る凶作と認識した。
通史編3(近世2) (人家の火災)

元文元年は豊作。 寛延3年3月3日条 火の用心の徹底 去年の凶作のため青森物騒で投火度々。,寛政7・8両年は凶作。,天保3年は凶作(半作とも)。,天保4年は大凶作。 天保7年4月12日条 火の用心の徹底 天保6年は半作又は3分3厘作。,天保9年は大凶作。
通史編5(近・現代2) (道路の整備)

次の資料は、昭和六年(一九三一)に起こった冷害凶作に対する救済事業の一つとしての道路改修工事に関するものである,交通上支障甚シキ実情ニ在リ曩キニ昭和五年十一月詳細具陳請願セルモ未タ実現ノ運ニ至ラス遺憾トスル処ニ候然ルニ今回凶作救済,ヲ兼ネ失業救済事業トシテ各所ニ土木事業ヲ起ス御計画ノ趣ニ付キ凶作失業間接影響ノ甚大ナル当市ヲ中心トスル,付近農村凶作救済トシテ前掲個所ノ適当ナル改築工事御執行相成様御配慮相成度市制第四十六条ニ依り意見提出候也
通史編4(近・現代1) (大戦景気と弘前市)

大戦景気と弘前市 「大正二年大凶作」で青森県は甚大な被害を受けた。,弘前市は肥沃な津軽平野のなかにあり、やませの影響も少なく、稲作栽培に適していた。,そのため青森県のなかにあって凶作の影響が最も少ない地方だった。,それでも「大正二年大凶作」の被害は深刻だった。
通史編5(近・現代2) (岩木川改修運動)

岩木川改修運動 「昭和六年大凶作」と「昭和九年大凶作」は、青森県だけでなく東北地方全体に激甚な被害を,だがその「昭和九年大凶作」でも弘前市周辺の米の収穫量は七分作以上あった。,やませの猛威にさらされ、三分作ないし皆無作だった太平洋側の上北・下北地域に比べれば、弘前地方は収穫に恵,「昭和六年大凶作」以来、連続災害で疲弊していた青森県民にとって、「昭和十年大水害」は致命的・壊滅的な打撃
通史編5(近・現代2) (東北振興)

しかし、九年に東北地方を襲った凶作は、六年の大凶作の疲弊が癒えないうちに起こったため、婦女子の身売りと,そこで新聞社が、凶作問題に対する義捐金の募集や東北救済の特集記事、政財界人の東北振興論を特集すると、東北,の救済と振興を希求する世論は全国的に広まり、政府は議会や政党の要請を受け、凶作対策に取り組むのである。,3,500 青森県農地改革史編纂委員会『青森県農地改革史』 農地委員会青森県協議会、1952年より作成,注) 昭和8年の統計は示されていない  岡田啓介内閣が東北の凶作対策として、九年十二月に東北振興調査会
通史編5(近・現代2) (県の対応)

県の対応 この極度に窮迫した状況に対し、県当局、県会は声を大にして救済を叫ぶが、その実態は凶作救済に,土木費、副業資金、肥料決済資金などは、農民を潤すより先に請負師、村当局、地主、肥料商の懐に入って、逆に「凶作成金
通史編1(古代・中世) (農民の生活)

農民の生活 農民は田畑の耕作や、その他の労働に従事して暮らしを立てていた。,収穫した作物から年貢を納入するように定められ、残りで自分たちの日々の生活を賄なわなければならなかった。,冷害など天候不順により凶作になることが多かったため、豊作の年にはできるだけ蓄えをして、凶作の年に備えなければならなかった,中略)七月末方迄出穂有、八月五日大山セ吹候て稲黒ク相成候、大豆の葉も赤くかはき候、当年ハ昔より無覚大凶年,被害を受けた農民の中には、苦労して作った農作物がだめにされたことに腹を立て、牛馬の尾を切ったり、たたいたり
通史編5(近・現代2) (昭和恐慌と相次ぐ災害)

それに輪をかけるように、六年の大凶作は農家に決定的な打撃を与えた。,その後も、七年八月の豪雨では岩木川堤防の決壊による水害、九年は再び凶作となり、十年八月の豪雨では県下一帯
通史編3(近世2) (武士に不相応な行為と食料奪取)

の仕方これ無きにつき」というのは、具体的な犯罪内容は不明であるが、元禄九年(一六九六)の夏は前年の大凶作,同二年は土用に入っても雨が降り続いて寒く、翌三年も八月中旬まで快晴の時がほとんどなく、霜が降りる状態で大凶作,っていないので、いかなる刑罰が科せられたのか不明であるが、日常は助け合って平和に暮らしている農村が、右のような大凶作
通史編2(近世1) (樋口善兵衛の報告書)

九日ころから天気もよくなり、段々と出穂してゆくようであり、今月中には穂がそろうであろうとし、さらに、畑作についても,冷害による凶作が予測されたにもかかわらず、しかも、米価が高騰する端境期に米を売り払ってしまった藩の判断,津軽領内で、凶作が本格的に意識されるようになるのは、八月七日、武田源左衛門(本締役〈出納総括責任者〉兼大目付,)が弘前を立ち、田畑の作毛を見分し、十二日に弘前へ帰り、翌十三日に「大凶作」の様子を江戸へ報告した(同前
通史編3(近世2) (施行小屋の設置と犯罪防止)

施行小屋の設置と犯罪防止 天保年間(一八三〇~四四)は五年を除き天候不順で凶作となった(盛田稔『近世青森県農民,飢饉に比較して餓死者が少なかったのは、八代藩主津軽信明(のぶはる)以来、備荒貯蓄(びこうちょちく)(凶作,天保四年の大凶作では、藩が困窮者救済のために領内の農村へ施行小屋を一一ヵ所設置した(「国日記」天保四年十月十九日条,一人一日当たり混ぜものを加えた一合五勺の粥を炊き出し、秋田領の出身地・一族の名前・本人名などを記した人別帳を作成,津軽領において、このような大凶作の後の大飢饉では、農村の下層民(水呑百姓など)はなんとか生き延びるために
通史編2(近世1) (寛延の飢饉)

寛延の飢饉 十八世紀半ばには寛延二年(一七四九)と宝暦五年の両度、大きな凶作が続いた。,「猪飢渇」とは猪の大量発生により畑作物が食い荒らされたことによって引き起こされたといわれていたからだが,平山日記』)と述べており、典型的な東風(ヤマセ)気候で、七月末に出穂のところ、大風が吹き稲がなぎ倒され、凶作
通史編2(近世1) (経済政策の前提)

この措置は、同五年の大凶作を経て、翌六年からの知行蔵入り(蔵米知行制)へと展開している。,今年の凶作を乗り切るためには、藩の蔵から農工商の扶助を行い、家中については出来高にかかわらずすべての知行米,その違いをもたらした要因はやはり宝暦五年(一七五五)の大凶作であった。,そして機構的には大凶作への対応を背景として乳井貢が「元司職(もとししょく)」に任命され、改革推進のための
通史編2(近世1) (預手形とは)

天保八年は前年からの不作であり、買い上げ制により不足・高騰しがちになる藩内の穀物の流通を管理し、藩の統制力,また、藩が困窮者に安く穀物を販売することで、凶荒対策も併せ持っていた。,しかし、藩では連年の凶作により、現金が払底し購入資金が不足していた。,「国日記」天保八年九月二十八日条(資料近世2No.一二六)によると、天保四年以来の凶作で、家中の扶持米,もっとも、凶作はともかく、藩財政の窮乏はそれ以前のことからであり、翌年に予定された幕府巡見使の下向による
通史編3(近世2) (会合・来客の場合)

同年十月十九日条(同前No.二〇五)、寛延三年(一七五〇)八月四日条にみえるだけであるが、元禄八年は元禄の大凶作,、寛延二年は凶作であった。  
通史編3(近世2) (生活の困窮)

生活の困窮 元禄期(一六八八~一七〇四)には幕府の財政窮乏が始まり、津軽弘前藩でも元禄八年の大凶作以後,推定されるが、両者間に問題が多く生じてくるのは天明期(一七八一~八九)以後であり、それは天明・天保の大凶作,これによって、天明三年の大凶作の影響で質屋への借金返済に苦しむ藩士の救済方法の一端が知られる。  ,「国日記」天保五年(一八三四)六月五日条によれば、質保管の期限はこれまで一三ヵ月であったが、昨年の大凶作,これは前年の大凶作による彼らの生活を救済しようとする藩の対応であった。  
通史編4(近・現代1) (民次郎百年忌)

大正二年の凶作は深刻だったが、村々には藤田民次郎の祟(たた)りという噂が飛んでいた。,(きょうけん)ニ遇フ亦タ奇ナラズヤ不肖柾吉等報恩謝徳ノタメ凶作ナル本年ヲ顧ミズ各位ノ御賛助ヲ得テ一基ノ,風教ニ資セント欲ス仰キ希クハ幸ニ御賛助アランコトヲ  尚ヲ当時強訴ニ関連シテ処罰セラレタ人名及ビ当時凶作,  斬罪            民次郎    仝組立石村庄屋   鞭刑 参拾鞭永牢      作太郎,       専右衛門    木造新田山田村庄屋   庄屋取放ノ上十日戸〆    太右衛門     当年凶作
通史編2(近世1) (宝暦の飢饉)

凶作は日本海側の諸藩にも及び、地域によっては水害や虫害も加わり被害を大きくした。  ,八月中には二度の霜害を受けて、成育がよくみえた田畑も立ち枯れて、ついに大凶作に至った。
通史編2(近世1) (農書の成立)

農書の成立 宝暦の飢饉の後には、凶作に備えるため津軽の気候に合わせた農書の成立がみられる。,飢饉に際しては、津軽の農書の草分けといえる蒲田(がまた)村(現南津軽郡尾上町)の一戸定右衛門による「耕作口伝書,(こうさくくでんしょ)」(元禄十一年成立)が、各組の大庄屋を通じて農民たちに冷害と凶作を乗り越えるための,宝暦の飢饉の後には、安永五年(一七七六)に津軽における北限の稲作の技術を集大成した「耕作噺(こうさくばなし,この二つとも成立年代は不詳であるが、いずれも地域の実態に即した稲作栽培の手引き書で、農業経営の方策も説
通史編3(近世2) (非常時の服装)

「国日記」によれば、凶作による飢饉の年である天保四年には御目見以下の者が袴を着用せずに勤務することが許,おそらく元禄八年(一六九五)・宝暦五年(一七五五)・天明二~四年(一七八二~八四)の大凶作の時も同様の
通史編2(近世1) (宝暦改革と蔵米)

そのため藩士層の不満に配慮してか、実施に当たっては、本来凶作に対する扶助米は藩庫から出す性格のものであるが,蔵米制も歩調を合わせるがごとく、同月に凶作後の復興もなったとして、再び地方知行制に戻された(同前No.,「平山日記」の作者は地方知行制の復活を喜ぶ藩士層の様子を紹介している。  ,百姓に対しても、そのような行為があったら大庄屋を通じて代官へ訴えるよう呼びかけており、蔵米化の前に凶作
通史編2(近世1) (飢餓対策における殖産政策)

権四郎の凶荒対策は凶作の際も米穀のほかに産物があればしのげるとして、山川海陸の産物を育成するよう、藩の,水田単作地帯の津軽領は、冷害で稲が被害を受けると経済的な被害が甚大になるので、米穀以外の産業の育成は重要,時代は宝暦からやや下るが、安永三年(一七七四)十二月に郡奉行樋口弥三郎は凶作の対策として、空き地などへの,新しい農作物の栽培については領内のみならず、全国から専門家を招聘(しょうへい)し、指導に当たらせた。,在方には慣れない新作物導入に対する不満が根底にあったと思われる。
通史編2(近世1) (騒動のその後)

津軽領での騒動は、大凶作の兆候がみられる天明三年七月末に集中し、被害が明らかになった八月以降には発生していない,にみたとおりであるが、青森でも天明四年一月から閏二月までの三ヵ月間に二〇〇余人が餓死したという(『天明凶荒録,この年の暮れにかけて、ヤマセによる凶作が特に太平洋側で著しかったのを反映して、打ちこわしは陸奥国の諸藩,この年は不作であったが、奥羽諸藩は飢饉には至らず、打ちこわしもほとんど起こっていない。
通史編5(近・現代2) (昭和弘前市民の一側面)

昭和弘前市民の一側面 大火に始まった昭和の弘前市は、たしかに一面で金融恐慌による不景気が広がり、「昭和六年大凶作,しかし昭和初期の弘前市は凶作と恐慌に苛(さいな)まれていただけではない。,当時の観桜会を紹介した写真を見ても、恐慌・凶作・戦争のイメージは全く見られない。,昭和戦前の世相を語るとき、そこには常に不況と恐慌・凶作のイメージがつきまとう。,たしかに恐慌・凶作が青森県をはじめ、北海道や東北各県を襲ったのは事実である。
通史編2(近世1) (消極的な藩の救済策)

天保七年の凶作では、御救米を一人当たり籾で三合を支給したが、「窮民への対応は藩では行われず、組ごとに代官,なぜなら打ち続く不作でお上に貯えもないからだ」と、『永宝日記』の筆者も諦めの境地である。,天保十年は『永宝日記』によると、「午ノ年(天保五年)ノ宝(豊)作ニ増程ノ宝作」で、「天道ノ御助ト国中大悦,ニ候」とあるが、実際は数年来の凶作で廃田も多く、虫害もあり決して平年作といえない状況であった。,翌十一年は豊作となり、ようやく作柄も回復してきた。
通史編2(近世1) (天保四年の飢饉)

前年の天保三年も天候不順で、前年比約二割減の不作だったが、『永宝日記』によれば、四年も春には雪消えが遅,そのうえ八月七日に雪が降るという異常気象で、凶作が決定的になった。,江戸の飢民約二〇〇人は、翌五年二月に国元に帰されたという(『天保凶荒雑報』)。
通史編5(近・現代2) (全農青森県連合大会)

多数の小作人が結束すれば凡ゆるものに勝つ」と言うと、斎藤警部補は「中止」と呼んだ。,凶作でも百姓は食えない」ことを実証した。,昭和五年の産米は六六八七万石で、神武以来の大豊作といわれたが、米価の暴落で米作収入は前年の七〇%、「豊作飢饉,」といわれ、翌六年は天候不順もあり、実に一一〇〇万石減の五五二一万石の凶作だったが、農家の庭先相場はかえって,そして、小作争議の中で地主の土地取り上げを原因とするものが増加した。
通史編2(近世1) (天保の飢饉の特徴)

特徴 この飢饉の特徴は、天明三年(一七八三)・四年の二ヵ年に大きな被害が集中した天明飢饉と異なり、不作が,したがって、俗に「七年飢饉」といわれるが、唯一豊作であった天保五年(一八三四)を挟み前後に分けられる。,津軽領の天保飢饉の様子を伝える『永宝日記』では、「天保四年凶作、同五年豊作、同六年半作、同七年不作、同九年,また、『天保凶耕雑報』(青森県立図書館郷土双書一四 一九八〇年刊)では、天保年間の年貢収納高を挙げているが,しかし、後半には相次ぐ不作によって藩の対策も息切れがし、ついに餓死者を出したというのが大まかな特徴である
通史編3(近世2) (松森町紙漉)

松森町紙漉 安永元年(一七七二)ころ、楮町は畑作第一となり、一株の楮もみられなくなった。,楮仕立てのために畑を貸与したのに、作人が交代したりしたこともあって、大豆・菜種などの有利な換金作物のみという,天明の凶作・飢饉で荒廃した領内の廃田復興の事業が一段落した寛政十二年(一八〇〇)、楮町の者たちが相変わらず,しかし、申し付けどおり実行しなかったので、翌十三年、三一町歩余の畑は作人たちから引き上げて郡所支配になった,打ち続いた天保の凶作は領内の産業を衰退させ、製紙業も例外ではなかった。
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