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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編5(近・現代2) (高度経済成長と出稼ぎ)

高度経済成長と出稼ぎ わが国の農業・農村は昭和三十年代以後の高度経済成長で大きな変貌を遂げるが、昭和三十五年,特に青森県では、出稼ぎによる兼業が農村部において多数見られた。,出稼ぎ者は、全国で東北地方が一番多く、中でも、その半分が青森県となっており、最大時では全国の出稼ぎ労働者,)には弘前市からの出稼ぎは八二七六人に及んだ。,その多くは農家からの出稼ぎであった(高田浩稔『青森県出稼労働史』、一九九九年)。 / 高度経済成長と出稼ぎ
通史編5(近・現代2) (出稼ぎの実態)

出稼ぎの実態 大正九年(一九二〇)に起こった第一次世界大戦後の反動恐慌は多くの失業者を生み出した。,青森県人の出稼ぎは、北海道・樺太などにおける漁業や林業従事が大半で、斡旋(あっせん)業者が出稼ぎ者を募集,このように、出稼ぎ労働者の雇用環境の保障は出稼者保護組合が担うことになったが、ここに昭和十七年の樺太林業出稼,ぎ者は、日雇い人夫より実入りがよいと聞き、樺太へ林業出稼ぎに行くが、前借金で得た二〇〇円は身仕度や作業道具,この書簡は、当時における出稼ぎ者の経済状態の実態を表していると考えていいだろう。 / 出稼ぎの実態
通史編4(近・現代1) ((一)北洋の出稼ぎ農民たち)

(一)北洋の出稼ぎ農民たち 本県における大正・昭和の労働運動指導者で、最も広く大衆に愛された人物に黒石出身,翌大正八年の春にはカムチャツカの缶詰工場に出稼ぎする同年輩の少年労働者三百人の小頭見習いという役で漁場,しかし、本県の出稼ぎ者は組織化されなかった。,一万三、四千人が出稼ぎに行った。,本県の出稼ぎ漁夫数は、昭和五年までは例年三万人を越していた。 / (一)北洋の出稼ぎ農民たち
通史編5(近・現代2) (凶作と小作争議)

なお、副業的な出稼ぎ漁夫は、昭和六年には一万五〇〇〇人と半減している。,弘前管区では昭和八年の場合、統計に出ているのは七二五人、特徴的なのは石川町から北海道へ七三人、相馬村の出稼,ぎ者は全員樺太へ二四〇人、豊田村は八一人のうちロシア領へ六〇人という多人数が赴いており、逆に清水村は全出稼,ぎ者がわずか一人、千年村八人、裾野村六人という少数である。  
通史編2(近世1) (面改めの結果)

他領に出稼ぎに行っている者は男女合わせて五〇四一人、うち九浦が一三二〇人である。,人口の比率以上に九浦では出稼ぎ人の数が多く、老人・子供を除いた生産者人口(十六歳~五十九歳)に限ると、,蝦夷地に対峙(たいじ)し、出稼ぎの拠点となっていた九浦の性格をうかがわせる。,実際には、出稼ぎや在方商売によって経済的利益を得ようとする領民の動きを食い止めることは不可能であった。
通史編2(近世1) (安政期の蝦夷地警備と交通問題)

こうして、翌安政六年四月一日には弘前藩に対して、神奈川・長崎・箱館への出稼ぎと移住の自由、および八月二十一日,特に青森・深浦・蟹田では生産労働力人口(十六歳~五十九歳の者)の一〇パーセント以上が出稼ぎに出ており、,表63 元治元年(1864)九浦出稼ぎ率一覧 No.,地名 総人口 男   子 女   子 出稼ぎ 総合 (%) 人口 生産労 働力人 口(A) 出稼,ぎ 人数 (B) B/A (%) 人口 生産労 働力人 口(C) 出稼ぎ 人数 (D)
通史編3(近世2) (商社の活動内容)

この時期、津軽領からは二〇〇〇~三〇〇〇人に上る出稼ぎ人が蝦夷地の鯡場労働に従事していたが、蝦夷地の場所経営者,は深刻な資金難に陥っており、出稼ぎ人たちの前借りにも応じられない状態であった。,そこで、藩は青森で出稼ぎ人に多くの「仕込(前貸金などの貸与)」をし、場所経営の実態に詳しい長谷川ら三人,大木屋円太郎・近江屋弥兵衛と三厩の商人安保(あんぽ)正兵衛を松前・江差に派遣し、商社が場所の仕込みに当たって、出稼,こうして、翌三年正月には西蝦夷地古平(ふるびら)(現北海道古平郡古平町)の数ヵ所に場所が設定され、出稼
通史編2(近世1) (人返し令)

さて、この人返し令と同一線上にあるのが、他領への出稼ぎの制限であり、前述した他領からの呼び戻し策および,」天明七年十月七日条(資料近世2No.二七~二九)などからは、松前表への鰊割(にしんわり)や鰊漁への出稼,ぎを禁じているにもかかわらず、実体としてはそれが守られていないことが読みとれる。,人寄せにみられるような、単に必要な人数の確保という点だけではなく、百姓成り立ちにかかわって、領外への出稼,ぎを黙認せざるをえないという状況があったのである。
通史編3(近世2) (日雇と松前稼ぎ)

奉公に出るのは家業を継ぐため修業に出ているものと考えられるが、松前稼ぎは現在の北海道への出稼ぎであり、,幕末期になっても松前へ出稼ぎに行く状況がなくならないのは、そのことを証明していよう。  ,八月の「弘前町中人別戸数諸工諸家業総括牒」(同前No.一九六)によれば、弘前城下の町方の内、男で他領に出稼,ほかにも、桶屋の通い弟子でいったん松前に出稼ぎに行ったが、当時は秋田領へ奉公に行っている者も一人いる。,女性も二人おり、いずれも洗濯師として松前に出稼ぎに行っている。
通史編5(近・現代2) (指導者・石岡彦一)

借金を抱え、樺太への出稼ぎで生計を立てていた。,ところが、弘前警察署は、小作人男子が全員出稼ぎのすきをねらって指導者石岡彦一(下湯口、労農党員)を三日間不当検束
通史編4(近・現代1) (大凶作下の農村)

出稼ぎも急増し、凶作窮民の食糧は悲惨を極め、玄米、南瓜(かぼちゃ)、馬鈴薯(ばれいしょ)、大根の乾菜に,大正二年の凶作時、その被害は激甚を極め、集落の男性は北海道などへの出稼ぎを余儀なくされたほか、ようやく
通史編2(近世1) (蝦夷地への人口流出)

さらに蝦夷地の幕領化・産業開発に伴い、津軽領を含む奥羽の人々の蝦夷地への出稼ぎ・移住が盛んになった。,それよりも、手っ取り早く現金収入の道が得られる都会や蝦夷地への出稼ぎの方がよほど望ましいことであった。
通史編2(近世1) (文久の面改め)

弘前市立図書館蔵八木橋文庫に架蔵されているほか、個別の町村の帳簿もいくつか残り、当時の町村の構成を浮かび上がらせるほか、出稼,ぎや通婚などにみる人の動きを伝える好史料となっている。  ,藩にとって一番の関心は、領民の出稼ぎの実態とともに、身分秩序の再確認であった。,また家中・在方・町方を問わず、他領からの奉公人の実態、出稼ぎや他領への移住の実態の把握も重要な要件であり
通史編5(近・現代2) (農民運動の変質)

農民運動の変質 本県も、都市の不況や北洋漁業の出稼ぎの減少から土地取り上げの争議が目立って増え、八年
通史編5(近・現代2) (婦女子の身売り)

〇  八六  一二四  三三三  中津軽郡 一七  五四  八一   八五  二三七  これらの出稼,ぎ原因はほとんど経済的なもので、彼女らの前借り金は、芸妓は最高二〇〇〇円から最低二〇円で平均三七〇円、
通史編5(近・現代2) (農村社会の変貌と減反政策)

」は、工業の地方分散化を促進したことから、津軽地域にも多くの兼業先が生まれ、農家の就業構造は冬季間の出稼,ぎ者の厚い層とともに在宅通勤兼業型に変化した。,しかし、一方では、「機械化貧乏」「出稼ぎ」の増加など、新たな問題が生まれた。
通史編4(近・現代1) (凶作の影響)

大正二年の年末には出稼ぎ賃金が入り、米の売れ行きが好調となった。
通史編5(近・現代2) (台風災害)

小学生五三人の作品が、「台風に備える」「台風がやってきた」「台風がさって」「リンゴのじゅうたん」「出稼,ぎにいかねば」という五章に分けて掲載されている。
通史編5(近・現代2) (台風一九号とりんご被害)

しかし、過去に例を見ない本県りんご栽培史上最大の災害により、出稼ぎに行かざるを得ない農家も多く出た。
通史編3(近世2) (商社の収支実態)

そして③場所への仕込金は総計一三万七一五二両で、うち出稼ぎ人などの漁場労働者への貸付金が一一万六〇四八両
通史編4(近・現代1) (就学励行)

県民の大半は小作農か零細農家で、わずかに北海道に出稼ぎに行き、いくばくかの現金収入を得ている状況では、
通史編2(近世1) (幕府の蝦夷地政策)

しべつぐんしべつちょう)・目梨郡羅臼町(めなしぐんらうすちょう)付近)のアイヌが、飛騨屋の不当・過酷な労働強制と、日本人出稼,ぎ者の横暴に対して決起した事件である。,多くは飛騨屋によって現地の運上屋や番屋に派遣された支配人・通詞・番人といった出稼ぎ者であったが、飛騨屋手船
通史編5(近・現代2) (弘前市総合開発基本計画(昭和四十六年計画)の策定)

即ち、①工業と農業の経済水準の格差の存在、②農村地帯の若年労働者の流出、③出稼ぎ者増大、④物価上昇、道路
通史編5(近・現代2) (戦時下のりんご統制)

のりんご小作料は、反当たり粗収入の一割程度の金納で済んだため、りんご小作農家の北海道、千島、樺太への冬季出稼,ぎも、新植や増反して結実するまでの間という限定的なものに終えることができた。
通史編5(近・現代2) (農地改革と自作農創設)

この問題は、その後の高度経済成長の中で、農家の出稼ぎ、兼業問題として表面化した。  
資料編3(近世編2) (【解説】)

寛政元年五月、飛騨屋久兵衛請負の国後場所およびその対岸のメナシ地方で、日本人出稼ぎ者の横暴に苦しむアイヌ,家族構成とともに、戸主やその妻などの出自や縁組・相続の記載、他の家業の兼業や日雇い、さらには松前への出稼,ぎ状況なども記載され、幕末維新期の町人の実態を明らかにすることができよう。
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