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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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資料編1(古代・中世編) (三 刀剣)

三 刀剣 弘前市内にある刀剣類は、次の表(『弘前の文化財』による)のとおりである。,森宗は、浪岡北畠氏関係の刀工であり、年号が刻まれていることから、北畠氏の活動状況をしのぶことができる。,那須氏所有の「成高」の太刀は『集古十種』にも記載されている名刀で、平安末期の作、那須与一にかかわる伝承,刀長 70.2 反り 2.4 茎長 21.2 ・弘前市指定有形文化財 ・古刀期に属す・中世,(銘なし) 4 太刀 -銘、成高綾包太刀拵- 弘前市東城北三丁目  那須隆氏 刃長 79.0 反 / 三 刀剣
通史編2(近世1) (刀狩り)

(藤木久志「奥羽刀狩事情―付、廃刀令からの視点―」羽下徳彦編『北日本中世史の研究』一九九〇年 吉川弘文館刊,八月十日の刀狩り令では、百姓の武器の所有は郷村の連帯責任とした。,つまり、豊臣政権の刀狩りの関心は、「刀・わきさし・弓・鑓・鉄炮」など一切の武具類の所持というよりは、百姓,の大刀・脇差にあったようである。  ,刀による流血慣行の惨禍から百姓を救済し、さらには、天正十六年(一五八八)七月の刀狩り令にみえる大仏建立 / 刀狩り
資料編1(考古編) ((9)蕨手刀)

(9)蕨手刀 蕨手刀は、把頭の形状が早蕨(さわらび)のように渦巻いた曲線を持つことから付いた名称である,刀身は幅が広く、しかも全長が約50cm前後と短い点に特徴がある。,この蕨手刀は、切先部が欠損しているため、刀部の全容は明らかでないが、残全長38.5cm、柄長10.5cm,、残刀長28.5cmと蕨手刀の中でも極めて短く、刀身の棟は反りがない平棟造である。,図92 青森県内出土の蕨手刀(2) / (9)蕨手刀
通史編2(近世1) (一 検地・人質徴収・城破(わ)り・刀狩り)

一 検地・人質徴収・城破(わ)り・刀狩り 天正十八年(一五九〇)三月一日、豊臣秀吉は京都をたち、小田原 / 一 検地・人質徴収・城破(わ)り・刀狩り
資料編1(考古編) (-鉄製品-)

武器・武具には直刀・蕨手刀・山刀・刀子類のほか、刀の鍔や締金具などの刀装具類、あるいは鎧の小札(こざね,しかし一般集落内では刀子類以外はまれに出土するにすぎない。  
通史編1(古代・中世) (戦いの道具)

武具は、人を殺傷する攻撃の武器と、自らの身体を防御する武具の二系統に分類でき、前者には刀剣(太刀・刀),境関館で出土している小柄(こづか)は、刀の附属品として刀装具に属し、鉄鏃は弓矢の一部品であり、攻撃の武具,写真177 小友遺跡出土の小札  県内の遺跡から出土する武具をみると、太刀の刀装具として足金物(,あしかなもの)、刀本体とその刀装具である鐔(つば)・切羽(せっぱ)・小柄・笄(こうがい)・目貫(めぬき
通史編5(近・現代2) (笹森順造の偉業)

著者は明治二十年代幼少七・八才の頃から弘前市北辰堂道場で旧津軽藩の指南役対馬健八等に一刀流の手ほどきを,受け、続いて青年の頃から中畑英五郎に就いて師が八十二才の高齢に達するまで絶えず一刀流の指導を受けた。,(中略)更に著者は小野次郎右衛門忠一から津軽土佐守信寿に伝え、爾来代々津軽家に伝わった一刀流の正統直伝,を悉皆伝えられ、一刀流の一切の技法、目録、口伝聞書極意解説書等を相伝している。,笹森順造が昭和四十年、八十歳のとき著した『一刀流極意』の緒言の一節であるが、剣道の歴史について、日本の
資料編1(考古編) ((10)工具)

図93 津軽地方の古代の刀・山刀(1) 図94 津軽地方の古代の刀・山刀(2) 図,鉄鏃)(1) 図97 津軽地方の古代の武具(鉄鏃)(2) 図98 津軽地方の古代の刀子,(1) 図99 津軽地方の古代の刀子(2) 図100 津軽地方の奈良・平安時代の砥石
通史編4(近・現代1) (生活刷新の布告)

そのころから邏卒(らそつ)(後に見廻役という)といって、羽織袴(はかま)で刀は差さず、二、三人連れで町々,それによれば、木刀を帯びる者は、ややもすれば庶民の無礼をとがめて打擲(ちょうちゃく)することがあるので,之ニ依リ自今木刀佩帯ノ儀厳禁セシメ候」と達せられている。  やがて九年三月に帯刀禁止令が出た。,これより先、四年八月に政府の「脱刀勝手たるべし」という布令が出ていたので、開化の世情に鑑み、刀を差すことを,憚って、代わりに木刀を帯びる者が多かったのである。
通史編1(古代・中世) ([口絵])

1 嘉元鐘(重文)弘前市長勝寺 龍頭 紀年銘 撞座 2 蕨手刀(,弘前市門外出土)青森県立郷土館 3 蕨手刀(県重宝)弘前市熊野奥照神社 4 板石塔婆,奥州十三之図 市立函館図書館 19 丹後平古墳群(八戸市) 20 獅噛式三塁環頭大刀柄頭
通史編3(近世2) (剣術)

剣術 ○一刀流(いっとうりゅう)―流祖は伊藤一刀斎景久(いとういっとうさいかげひさ)。
通史編5(近・現代2) (北辰堂規則)

そして、文武の講習に参加したのは小野派一刀流、梶派一刀流、卜伝流の三団体で、総員数は一二〇人であった。
資料編1(考古編) ((3)葬制(終末期古墳))

この被葬者たちは、在地(蝦夷)の首長層を中心とする人々と見られ、副葬される文物には直刀や蕨手刀のほか、,また、昭和48年にはこの遺跡から蕨手刀が1振出土している。,されるものと同類の勾玉が、田舎館村境森や平賀町大光寺新城遺跡で、また銅釧が金木町で、さらに8世紀の蕨手刀が
資料編1(考古編) ((1)石器と石製品の種類)

く発見される石器は、利器では箆(へら)状石器・トランシェ様石器、石製品として半円状扁平打製石器・青竜刀形石器,玦状耳飾 臼玉 ・ 管玉 ・ 丸玉 匂玉 硬玉製大珠 有孔石製品(垂飾品) 石棒 石剣 石刀,青竜刀形石器 石冠 岩偶 岩版 円盤状石製品 動物型石製品 縄文時代 草創期 (無文土器) ○            ,青竜刀形石器は、『雲根志(うんこんし)』三編巻之五に「その形状青竜刀ともいうべし」とあり、木内石亭(1724
通史編1(古代・中世) (大光寺新城跡)

武器・武具関係が多く、武器としては鉄鏃(蕪(かぶら)矢、尖根(とがりね)式・鑿根(のみね)式)や、太刀・,刀子といったものが多数出土している。,また太刀は先端部分の欠損品が多い。このことは実際に使用されたことを物語っている。
資料編1(考古編) ((3)石製品)

くぼみいし)・石錘・浮きなどと、精神的な弱さをカバーするための宗教的な道具として考えられる石棒・石剣・石刀のほか,、岩偶・岩版等が発見されており、前述した青竜刀形石製品もこの仲間に加えられるのかもしれない。  ,石剣・石刀は、名称より利器を想像するが、刃物と考えるには程遠く、形態が剣並びに刀に類似することから命名,された遺物で、石剣は細く扁平、石刀は反りを持ち、刃に相当する部分は反りの内側に存在する。,尾上山遺跡(晩期) 半円状扁平打製石器… 岩崎村・相沢遺跡(前期) (個人蔵) 石刀…
通史編4(近・現代1) (藩祖の銅像)

高さ一丈三尺(約四メートル)、甲冑を着けた軍装直立の像で、左手に太刀(高照神社蔵、友成の太刀を摸す)、
通史編1(古代・中世) (原エミシ文化・エミシ文化の祭祀遺物)

墳墓の副葬品は、岩手県の例になるが、北上市岩崎台地墳墓群からは土師器甕(かめ)・壺、直刀・刀子(とうす
資料編1(考古編) (第4節 中世・近世の生活用具)

鑓鉋(やりがんな),鉋,釘,鎹(かすがい) 一般道具 砧(きぬた),箆(以上木製品)/鋤,鍬,鉈,小刀,,計量具 錘,秤皿(銅製品) 馬具 轡・焼印(鉄製品)/しおで(銅製品)/馬櫛(木製品) 武器 刀,,小柄小刀,鐔,槍,打根,胸板,小札,鏃(以上鉄製品)/鐔,切羽,笄(こうがい),鐺(こじり),足金具,
資料編1(考古編) ((1)明治時代から太平洋戦争まで)

され、しかも各遺跡の炉(かまど)の構造や素材上での分類、あるいは須恵器や土師器などの土器類のほか、直刀・,刀子などの鉄製品の出土遺物について具体的な報告が行われている。
通史編1(古代・中世) (東北地方北部の群集墳)

原墳墓群は一九七三年、耕作中に偶然蕨手刀(わらびてとう)が出土(図6-3)したことから、その存在が予想,図4 原墳墓群の構造 図5 原墳墓群出土の遺物 図6 津軽地方出土の蕨手刀, このほか一八九四年、弘前市大字門外(かどけ)において、奥羽本線鉄道敷設工事中に蕨手刀が発見されている,また出土地は不明であるが、弘前市熊野奥照神社には宝物として伝世されてきた蕨手刀がある(図6-2)。
資料編1(古代・中世編) (はじめに)

金石文には、梵鐘・鰐口・仏具・仏像・刀剣・銅鏡・古銭・擬宝珠などの金属製品に刻まれた文字や五輪塔・宝篋印塔,他からの移入品も刀剣が残る程度である。
資料編1(古代・中世編) (第一節 金属資料)

本章では、銅鐘と懸仏、刀剣を表にして取り上げた。
通史編4(近・現代1) (弘前士族の反発)

津軽平八郎は廃刀令に反対して帯刀を止めず、山崎清良は封建復帰の建白書を旧藩主の反対を押し切って政府に提出
通史編3(近世2) (武士と庶民の喧嘩)

二人は自分たちの身の危険を感じ刀を抜いて追い払った際に、切りつけられて傷を負った者が出たことが判明した
通史編2(近世1) (一 九戸一揆と動員大名)

おううひのもとしおき)が終了し、その仕置軍が帰還した直後の同年十月、奥羽の地においては、豊臣政権の徹底した検地・刀狩
通史編2(近世1) (裁判と判決)

月番(つきばん)(その月の当番)の徒(かち)目付が当たったようで、斬罪・死罪(死刑の一種でその死体は新刀の,刑(敲(たたき))のうえ追放が申し渡され、徒目付・足軽目付・町同心・縄取人足(なわとりにんそく)・太刀取
資料編1(考古編) (資料編1「考古編」掲載図・表・写真一覧)

88 平安時代の苧引金 図89 青森県内の古代の牛・馬骨及び馬具の出土分布図 図90 全国の蕨手刀分布図,図91 青森県内出土の蕨手刀(1) 図92 青森県内出土の蕨手刀(2) 図93 津軽地方の古代,の刀・山刀(1) 図94 津軽地方の古代の刀・山刀(2) 図95 津軽地方の古代の武具 図96 ,の古代の武具(鉄鏃)(1) 図97 津軽地方の古代の武具(鉄鏃)(2) 図98 津軽地方の古代の刀子,(1) 図99 津軽地方の古代の刀子(2) 図100 津軽地方の奈良・平安時代の砥石 図101 
通史編3(近世2) (信寿・信著・信寧時代)

武芸では小野次郎右衛門忠於(ただお)について学び、小野派一刀流の免許皆伝を受けている。,七代信寧は弓馬・刀槍・兵法・儒道・柔術などさまざまな技芸に関心を持ち、剣術は小野派一刀流の免許皆伝を受
通史編1(自然・原始) (大森勝山遺跡)

石器は珪質頁岩(けいしつけつがん)を原材としており、ナイフ・彫刻刀・削器・スクレパー(掻器(そうき))
通史編5(近・現代2) (虫祭り)

笛太鼓で囃(はや)し、特殊な掛け声をかけ、太刀振りの行列を伴う場合もある。
通史編3(近世2) (農民と藩士の出会い)

③帯刀の人をみたならば、農民は馬に乗ったまま通過せず、すぐ降りて馬を道のわきに寄せ、帯刀の人が通れるよう
通史編3(近世2) (建坪と住宅平面図)

「槍稽古所」と「太刀稽古処」である。,表口から入って「沓(くつ)ヌキ(脱ぎ)」「式タイ(台)」から右側が「槍稽古所」で正面が「休息処」と「太刀稽古処
通史編5(近・現代2) (忠霊塔の建設)

忠霊像は旗を光背代わりに兜鎧に太刀を横たえ、太刀は右手で固く押さえ、足元には浄火が渦巻き、高さ八尺という
通史編3(近世2) (虫送り)

わりとしておく人形と紙ののぼりを押し立てて、鼓や笛、鐘といった楽器で囃し立て、舞い踊りながら田を巡る様子や、刀で
通史編1(古代・中世) (征夷大将軍 坂上田村麻呂)

その田村麻呂に節刀が賜られたのは、延暦二十年のことである(史料二五〇)。
通史編1(古代・中世) (大浦氏関係の中世城館跡)

かめ)・擂(すり)鉢)、唐津破片八点(皿・碗・甕)といった陶磁器をはじめ、鉄製品では武器である鉄鏃や刀の
通史編3(近世2) (猿賀神社より盗み)

(一八一九)、三上清吉の次男の庄五郎は、猿賀(さるか)深沙宮(現南津軽郡尾上町猿賀神社)へ侵入して太刀・
通史編1(古代・中世) (桓武の登場)

桓武天皇は古佐美に対して、全権委任の証(あかし)である節刀(せっとう)を賜る際に、「坂東の安危はこの一挙
通史編1(古代・中世) (夷語を解する小野春風)

・方口(かたぐち)(八竜・若美)・大河(おおかわ)(八郎潟・大川)・堤(つつみ)(井川・飯田川)・姉刀(
通史編2(近世1) (初代為信の動向)

図59.津軽信建奉納巖鬼山神社鰐口  また、慶長九年に為信が津軽に呼び寄せた刀工の相州綱広(つなひろ,)は、三年かかって慶長十一年に大小三〇〇腰の作刀を完成させている。,慶長十二年(一六〇七)二月十二日為信は朝廷に刀五〇腰を献上しており(資料近世1No.二二四)、これが綱広作,なお、現存する慶長十一年作のものには「津軽主為信」が「相州綱広」を呼び下して作刀させた旨の銘文があり(,図60.日本刀相州綱広の銘 表(津軽主為信相州綱広呼下作之) 裏(慶長十一丙午年八月吉日三百腰之内
資料編1(考古編) ((1)東北地方南部以南との交易・交流)

製品としては鋤・鍬・鎌・刀子・蕨手刀・直刀等がある。  
通史編2(近世1) (大庄屋制の成立)

大庄屋は俵子(ひょうす)五〇俵で帯刀御免、年始登城を許され、おおよそこれまでの代官の勤めを果たすこととなった,にわかに武士となった大庄屋たちは、金銀にまかせて大小の刀を差すなど、その威勢はもとの代官の一〇倍もあったという
通史編3(近世2) (高岡霊社の宝蔵・弘前城の金蔵へ侵入)

高岡(たかおか)霊社(現中津軽郡岩木町百沢、明治初年に高照神社と改称)の御宝蔵の錠前を破って侵入し、太刀・,小刀などを盗み、同十一日には弘前城の御金蔵に二度も侵入して盗みを働いた。
通史編3(近世2) (農民意識の変化)

そこでこの態度に激怒した鷹匠のひとりがやにわに抜刀し、弥三郎の背中や胸を二・三度強打した。,それをみていた村人が刀を取り押さえようとして割って入ったが、手のひらを二・三寸も切ってしまい、弥三郎は
通史編1(古代・中世) (石川城跡)

鉄製品では釘や刀子(とうす)といったものが出土し、木製品では下駄が五点、桶底、箸、箆(へら)状木製品なども
通史編3(近世2) ((三)主要人物)

江戸へ出て梶新右衛門正直(かじしんえもんまさなお)に従って梶派一刀流を学んだ。,江戸で中西忠兵衛(なかにしちゅうべえ)の門に入り、小野派一刀流を学んだ。
通史編3(近世2) (弘前の民衆)

さらに四年七月には、士族・卒やその子弟らが夜中に酔って大声で歌ったり、抜刀して通行人を威嚇するなど粗暴,士族も断髪令や脱刀令によって服装が変わったが、最初は相当慣れなかったらしい。,怒った官吉は家に戻って刀を取り出し、ついに農民の一人を斬り殺し、六年一月に斬罪に処せられた(「青森県史料
通史編3(近世2) (城下での生活)

それより柳河(川か)素庵・木立新左衛門・岡田帯刀・山中六左衛門・唐牛甚右衛門を訪ね、さらに庄右衛門宅へ,帰宅後岡田帯刀(たてわき)より廻状がきていた。,帰宅後、山中六左衛門・岡田帯刀が来訪し、組の者の相談をする。  ,二十四日、今朝、六左衛門・帯刀が登城。,岡田帯刀は登城せず、組の者たちが各御門の勤方の書き付けを用人中へ申し上げる。午前九時帰宅。
通史編1(古代・中世) (東北地方の古墳文化)

)古墳(写真18)からは、三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)・銅鏃(どうぞく)・三葉環頭大刀(,会津大塚山古墳からはほかにも多数の刀剣・玉などが出土しているが、これらも西日本的色彩の強いものである。
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