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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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通史編3(近世2)
(大社の神仏分離)
次に深沙宮(現南津軽郡尾上町)は神宮寺が
別当
を免じられ、本社の仏像は神宮寺に預けられ、社号を猿賀(さるか,袋宮(ふくろのみや)権現宮(現熊野宮、市内茜町)は袋宮が
別当
を免じられ、報恩寺(ほうおんじ)境内の無量院,、例外的に
別当
が還俗(げんぞく)して神職となり、仏体を神体に代えることとした。,ところが、
別当
は老年の師匠を捨てておけないし、自分は仏恩が深いとして仏像とともに貞昌寺(ていしょうじ),ほかに古懸(こがけ)不動尊
別当
の国上寺(こくじょうじ)(現南津軽郡碇ヶ関(いかりがせき)村)、観音堂
別当
久渡寺
通史編3(近世2)
(袋宮寺)
信枚が夢にみて再興し、
別当
袋宮寺を置き、三〇石を寄進したという。,信義は
別当
慶覚の祈祷により男子(信政)が誕生したので二〇石を寄進し、合わせて五〇石とした(同前No.四,明治二年(一八六九)、
別当
職が廃止となり、そのまま社内に寺院を置くことが不都合になり、報恩寺境内の十一面観音堂無量院
通史編3(近世2)
(神宮寺)
神宮寺 神宮寺(現南津軽郡尾上町)は、深沙宮(じんじゃぐう)(現猿賀神社)の
別当
であった。,天正十四年(一五八六)、為信が参拝し祈願所としたが、翌年、領内統一の妨げになるとして
別当
延命院を追放、,真言宗最勝院に
別当
を兼帯させた(「津軽一統志」『記類』)。,元和五年(一六一九)、信枚が再建、もとの天台宗へ戻し、
別当
を神宮寺とし一〇〇石を寄進した。
通史編1(古代・中世)
(三 中世寺社の存在形態)
一方、貞応二年(一二二三)十二月六日、僧栄秀が次のように平賀郡の福王寺・極楽寺へ敷地を寄進し、両寺
別当
職,父栄秀から福王寺と極楽寺の両
別当
職を譲り受けた僧栄秀は、嘉禎二年(一二三六)、北条泰時より平賀郡乳井郷,の毘沙門堂の
別当
職にも補任されている(史料五六〇)。,また、延応二年(一二四〇)の「北条泰時書下状」によれば、同郷内の阿弥陀堂
別当
職も兼ねていたことが判明する,乳井郷における僧栄秀と長秀の
別当
職をめぐる世襲には、ひとつの郷内における中世堂社の存在の在り方を伺い知
資料編1(古代・中世編)
([十三世紀])
●嘉禎二年(一二三六)八月九日、僧長秀、平賀郡乳井郷毘沙門堂
別当
職補任。,●延応元年(一二三九)十二月二十二日、平賀郡乳井郷福王寺
別当
職等の相続配分の協議。,●延応二年(一二四〇)三月十日、平賀郡乳井郷阿弥陀堂
別当
職を毘沙鶴等に安堵。,●仁治三年(一二四二)十月一日、平賀郡乳井郷阿弥陀堂
別当
職を安堵。,●弘安七年(一二八四)十月三十日、僧幸秀、平賀郡乳井郷福王寺
別当
職を譲る。
通史編3(近世2)
(深沙宮)
永禄八年(一五六五)とも元亀二年(一五七一)ともいわれるが、
別当
を兼帯していた乳井毘沙門宮(現乳井神社,天正十四年(一五八六)、為信が参拝し祈願所としたが、翌年
別当
延命院を追放し、最勝院に兼帯させたという。,元和五年(一六一九)、信枚がもとの天台宗へ戻して神宮寺を
別当
とし、塔頭四院と神主四軒を置いた。
通史編3(近世2)
(百沢寺)
百沢寺(ひゃくたくじ)は、岩木山三所大権現の下居宮(おりいのみや)(現岩木山(いわきやま)神社)の
別当
,明治四年(一八七一)、
別当
は廃止となり、一二支院とともに廃寺となった。
通史編3(近世2)
(東照宮)
正室満天姫が徳川家康の養女であったことから、寛永元年(一六二四)、天守閣の近くに建立され、江戸常福寺本祐を
別当
,同四年、天守閣が雷火により焼失すると、東照宮も被害を受けたらしく、同五年に現在地へ再建され、
別当
薬王院
通史編3(近世2)
(最勝院)
最勝院 最勝院(さいしょういん)は、天文元年(一五三二)、弘信僧都が堀越村に創建し、為信が神宮寺
別当
,のち賀田村へ移り、慶長十七年(一六一二)、弘前城下形成に伴い八幡宮(現弘前八幡宮)
別当
となり、寺領三〇〇,明治の神仏分離により、八幡宮
別当
を免じられ、堂塔は破壊され、同五年(一八七二)に大円寺跡へ移った。
通史編3(近世2)
(白狐寺)
白狐寺 白狐寺(びゃっこじ)は、稲荷宮(現新寺町稲荷宮)の
別当
であった。,弟子の貞昌寺隠居入誉が貞昌寺内に勧請したが、信政が宝永五年(一七〇八)新寺町に稲荷宮を創建し、
別当
を白狐寺
通史編3(近世2)
(橋雲寺)
橋雲寺 橋雲寺(きょううんじ)(現中津軽郡岩木町)は愛宕権現宮の
別当
であった。,慶長六年(一六〇一)、為信が京都の愛宕山より勝軍地蔵を浅瀬石村(現黒石市)に勧請して橋雲寺を
別当
とし、
通史編3(近世2)
(八幡宮)
最勝院が
別当
で、神仏習合のあり方から最勝院本堂に安置した八幡宮の本地仏は阿弥陀如来、勢至・正観音菩薩であった,神主小野氏は、
別当
最勝院の支配を受け、熊野宮(現熊野奥照(くまのおくてる)神社)神主長利氏とともに社家頭
通史編3(近世2)
(神仏分離の準備)
を頼って奥羽鎮撫総督府参謀醍醐忠敬(だいごただゆき)が来弘し、最勝院(さいしょういん)(弘前八幡宮の
別当
,とりあえず、藩は寺社奉行を社寺(しゃじ)御用所、寺社役を社寺調方と改め、
別当
寺院の神職支配を停止させた,明治二年八月~同四年十二月の神職組織であるが、このふたつを比べると、薬王院(やくおういん)や最勝院などの
別当
寺院,8月~同4年12月) 明治二年(一八六九)八月当時、藩では図77のような組織を定め、神社から
別当
通史編3(近世2)
(久渡寺)
久渡寺 久渡寺(くどじ)は観音院の
別当
であった。小沢村に創建され、のちに現在地へ移る。
通史編3(近世2)
(浄土宗)
信政は、宝永五年(一七〇八)に江戸浅草の熊谷(くまがい)稲荷を新寺町に創建(現新寺町稲荷神社)し、
別当
白狐寺,になっている出羽国大館の青蓮庵が金戒光明寺の末寺であったことと(遠藤聡明「宝永五年の弘前新寺町稲荷神社の勧請と
別当
浄土宗白狐寺
資料編1(古代・中世編)
(二 乳井茶臼館の歴史)
しかし、『津軽一統志』や『封内事実秘苑』によると、戦国時代にこの地を領していたのは、乳井福王寺の
別当
で,、猿賀深沙大権現(現在の猿賀神社)の
別当
も兼ねた乳井福王寺玄蕃であり、また、福王寺玄蕃ははじめ乳井古館,福王寺門前集落(寺内)のすぐ南にそびえる茶臼館の立地から考えて、館の築造者はこの福王寺
別当
乳井氏以外には
通史編3(近世2)
(大石明神)
「津軽一統志」は、本地垂迹説により十一面観音を祀り、
別当
を百沢寺、神職を長見筑後、正徳五年(一七一五)
通史編3(近世2)
(藩政前期為信)
天正十四年(一五八六)に為信は深沙宮(じんじゃぐう)(現猿賀神社、南津軽郡尾上町)へ参拝し、
別当
神宮寺,(じんぐうじ)の所領を安堵し、祈願所としたが、翌十五年には領主の命に
別当
が従わないのは反乱に結びつくとして,慶長六年(一六〇一)には、領民の信仰を集める岩木山三所大権現の
別当
百沢寺下居宮(ひゃくたくじおりいのみや
通史編3(近世2)
(薬王院)
薬王院 薬王院は、初め東照宮の
別当
東照院として創建され、信義の時に改称した。,東照宮には
別当
東照院を配置して本祐を開基第一世とし、寺領二〇〇石が寄進された。,この時、熊野宮(現市内茜町)
別当
袋宮寺が十一面観音堂無量院と合併となり、昭和二十九年(一九五四)、隣接
通史編3(近世2)
(十一面観音堂)
「津軽一統志」は、
別当
を百沢寺、神職を長見勘ノ太夫、元禄四年(一六九一)の再興とする。
通史編3(近世2)
(袋宮権現宮)
為信が守護神とし、信枚が霊夢をみて再興し、
別当
袋宮寺を配して寺領三〇石、信義は二〇石を寄進し、合わせて
通史編1(古代・中世)
(北条得宗領の形成)
その契機としては建暦三年(一二一三)の和田合戦にて、義時が有力御家人、侍所
別当
和田義盛を滅ぼすという勝利
通史編3(近世2)
(常福寺)
常福寺本祐とも師弟関係にあったため、寛永元年(一六二四)、東照宮の
別当
薬王院の開基・第一世に本祐を推し
通史編3(近世2)
(稲荷宮)
白狐寺を
別当
とし、神職を置かなかった。
資料編3(近世編2)
(●袋宮寺 本堂 新寺町--県重宝)
袋宮寺は天台宗の寺院であり、弘前の樋の口にある熊野宮(本殿は県重宝)の
別当
寺であったが、明治に廃止されたために
通史編3(近世2)
(二代信枚)
くまのおくてる)神社)の地が城の鬼門に当たるとして八幡(やわた)村(現中津軽郡岩木町)から移転させ、
別当
最勝院,このことから、信枚は常福寺(じょうふくじ)(現東京都台東区)本祐と結びつき、東照宮の
別当
東照院(とうしょういん,)(現薬王院)の創建に当たっては本祐を開基に推し、真言宗に改宗させられていた深沙宮の
別当
神宮寺を天台宗
通史編3(近世2)
(真言宗)
真言宗 真言宗は最勝院が僧録所であり、八幡宮(現弘前八幡宮)
別当
も兼職し、社家頭を通して領内の神職をも
通史編1(古代・中世)
(一 古代における北奥の宗教世界)
9) 神明社 為信公 神職 (10) 八幡太神宮(浪岡) 延暦十二年 坂上田村麻呂 同右 退転前の
別当
,それを
別当
別ないし宗派別にみると、最初の岩木山三所大権現・八幡太神宮・大聖不動明王・勝軍地蔵堂・聖観音,このように、神社の
別当
が各々、真言宗・天台宗および神職や修験に所属していたこと自体、北奥地域の神仏習合,だがしかし、一方の真言宗寺院が
別当
を勤仕する岩木山三所大権現・八幡太神宮・大聖不動明王・聖観音に眼を転,具体例を挙げると、「神社」の項でみた岩木山三所大権現の
別当
寺院である百沢寺は
別当
寺院ハ者往日有二山
通史編1(古代・中世)
(二 北奥宗教界を彩る中世的寺社)
開基 開山 建立地 現在地 備考 最勝院 真言宗 八幡村 (岩木町) 銅屋町 弘前八幡宮の
別当
,天正年間(一五七三~九二)猿賀山神宮寺(尾上町)の
別当
。,所在地 開山 開山年次 宗派 備考 岩木山神社 岩木町 坂上田村麻呂 延暦年中(七八二~八〇六)
別当
寺院,円智 推古天皇十八年(六一〇) 真言宗 古懸村の浪不寄八幡は、延暦中に田村麻呂の建立と伝え、この八幡の
別当
,坂上田村麻呂 延暦年中(七八二~八〇六) 猿賀神宮寺 尾上町 (もと猿賀村) 天台宗 猿賀神社の
別当
通史編3(近世2)
(稲荷宮)
を不詳とし、元和年間(一六一五~二三)に信枚が再建して、社領三石を寄進し、最勝院塔頭の稲荷山徳恩寺を
別当
通史編3(近世2)
(熊野宮)
神主長利氏は、八幡宮
別当
最勝院の支配のもと、八幡宮神主小野氏とともに社家頭を務めた。
通史編1(古代・中世)
(阿津賀志山の合戦)
金剛
別当
秀綱(こんごうべっとうひでつな)以下の「二万騎」が、二重堀に沿って横に広がりながら展開していた,加藤景廉(かとうかげかど)・工藤行光(くどうゆきみつ)・工藤祐光(すけみつ)らの率いる鎌倉軍と、金剛
別当
秀綱
通史編1(古代・中世)
(二 津軽の修験道と神社)
一、津軽三郡内しりひきの三世寺の
別当
ハ常陸阿闍梨房舎弟大和阿闍梨房にて候、彼引たんな皆当房へ可参候、安藤又大郎殿号下国殿,岩木山神社が延暦年間(七八二~八〇六)、坂上田村麻呂を開基にして造立され、その
別当
寺院は百沢寺である。,) (「安倍社寺由緒書」) 永正三年(一五〇六)に葛西頼清が建立したと伝える深浦円覚寺薬師堂の
別当
,間口観音深浦聖徳太子妙巧
別当
修験善光院 初開同上(大同二年坂上田村麻呂造立
通史編3(近世2)
(神道)
にあっては、弘前城下の形成に当たり、八幡宮(現弘前八幡宮)を大浦城下から移転させて、弘前総鎮守とし、
別当
最勝院,神道本末関係図 神明宮(現弘前神明宮)神主斎藤長門のみは寺社奉行の直接支配を受け、他の神職はすべて
別当
寺院
資料編1(古代・中世編)
(五 乳井地区の城館群と宗教的領域)
また玄蕃は、乳井福王寺の
別当
職にあり、猿賀深沙大権現の
別当
職も兼ねていた。
通史編3(近世2)
(居開帳)
一七七九)、創建一〇〇〇年になることから、七代藩主津軽信寧の社参をどのように行うかが、家老代・目付と
別当
百沢寺,宝永四年(一七〇七)創建の稲荷宮の
別当
であった白狐寺は、供米九石で経済的基盤が弱く、宝暦改革で寺社の修復,秘仏ではあるが藩庁から禁止されていないので、開帳は
別当
に任せられたものとしてとらえてきた、と答えている
通史編3(近世2)
(弘前八幡宮小野家)
八幡宮の
別当
最勝院は、寺社奉行のもとにあって、領内神職の約九〇パーセントを配下に置き、社家頭を通して神職
通史編1(古代・中世)
(嘉元鐘銘文に登場する鎌倉武士)
小川氏は、鎌倉初期より乳井郷の福王寺・極楽寺
別当
職を受け継いだ一族で、小川宗直は弘安十年(一二八七)、,北条貞時より乳井郷の極楽寺阿弥陀堂
別当
職を安堵されている。
通史編1(古代・中世)
(三 北奥宗教界の中世的転回)
宗教センター」ともいうべき鶴岡八幡宮(神奈川県鎌倉市・写真143)の経営のなかで、次のような八幡宮の
別当
職補任,一四代房海(寺)、一五代信忠(東)、一六代顕弁(寺)、一七代有助(東)、というように、鎌倉時代の鶴岡八幡宮
別当
職,ここでなによりも重要なことは、
別当
職が山門派(天台宗)を排除した、非山門系の寺門派と東寺系によって独占,これは、表現を変えていえば、鶴岡八幡宮の
別当
職補任をめぐる「真言密教圏」の独占といえる。
通史編1(古代・中世)
(乳井福王寺の伝承)
沢田古館に住み、その地の人々を指導して「長崎村より高畑まで」高二千石余を開発した上に、猿賀山神宮寺の
別当
職
通史編3(近世2)
(神仏分離とは)
仏像として祀ることの禁止、鰐口(わにぐち)(仏殿などの銅製の金鼓)・梵鐘(ぼんしょう)など仏具の除去、
別当
通史編2(近世1)
(城下高岡の形成)
寺社の配置をみると、城下の東北から北にかけて八幡宮とその
別当
寺院の真言宗最勝院、熊野宮、および神職の住,をはじめとする曹洞宗寺院、東には浄土真宗(門徒宗)・天台宗・日蓮宗(法華宗)・浄土宗の各寺院と、東照宮とその
別当
寺院
通史編3(近世2)
(藩政中期四代信政)
宝永五年(一七〇八)に江戸浅草の熊谷(くまがい)稲荷宮を新寺町へ勧請(現新寺町稲荷神社)し、
別当
白狐寺
資料編3(近世編2)
(●岩木山神社 岩木町大字百沢字寺沢)
●岩木山神社 岩木町大字百沢字寺沢 (一)楼門--重要文化財 下居宮の
別当
寺であった真言宗寺院の
通史編3(近世2)
(寺院の動向)
この寺社禄の削減は、
別当
寺院廃止も手伝って寺院の存続を根底から揺るがした。
通史編3(近世2)
(藩政後期)
最勝院配下の社家頭が、社家隊に他の
別当
寺院に属する神職も加えて編成し、命令系列の一元化を図っているのは
通史編1(古代・中世)
(埋納銭の出現)
元来このあたり一帯は、昔乳井毘沙門堂(乳井神社の前身)の
別当
、乳井福王寺(ふくおうじ)址である。」
通史編2(近世1)
(本村と新田)
一三四九)十二月二十九日の陸奥国先達旦那系図注文案(同前No.七〇二)に「津軽三郡内しりひきの三世寺に
別当
通史編3(近世2)
(出開帳)
奥州津軽 岩木山権現
別当
新義真言宗 百沢寺 諸堂舎修復為助成、本地仏弥陀薬師観音之三像、
通史編3(近世2)
(江戸時代中期の建築)
袋宮寺は天台宗の寺院であり、元来は樋の口の「熊野神社」の
別当
寺であったが、明治に廃止された後、現在地の
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