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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編2(近世1) (名護屋における「日本之つき合」)

になりたいと思い、徳川家康に取次を依頼したが、家康がその斡旋(あっせん)のため信直の取次を果たしている前田利家,の所へ行ったところ、前田利家は、南部は自分の力でどうにでもなるが、為信は「表裏之仁(ひょうりのじん)」,前田利家は、天正十八年の奥羽仕置の際、検地奉行として津軽の検地を行っているが、その利家から「表裏之仁」,その後、為信はこれが原因で浅野長吉や前田利家のところへは行かなくなった。,そして、月に一度前田利家を見舞うだけで、他はどの大名とも関係を持っていない。
通史編2(近世1) (浅利騒動の停戦命令)

裁定には浅野長吉と前田利家が浅利方有利に働いていた。,また、前田利家については、天正十八年、利家が津軽の検地終了後に秋田を通過した際に秋田氏が一揆を仕掛けようとし,浅野長吉と前田利家は、豊臣政権内にあって分権派の中心であり、浅利氏は政権内の分権派の中心である有力大名浅野,長束正家は石田三成とともに集権派の中心人物であり、分権派の前田利家や徳川家康らと激しく権力抗争を重ねていた
通史編2(近世1) (豊臣政権の奉行衆)

豊臣政権の奉行衆 秋田氏へ杉板運上の朱印状を取り次いだ人物は、文禄元年は加賀の前田利家、文禄三年(一五九四,前田利家は、天正十八年(一五九〇)の奥羽仕置の際、秋田や津軽の検地奉行として派遣され、家康らと同様に分権派
通史編2(近世1) (一 九戸一揆と動員大名)

この時、検地奉行として津軽の検地を終え帰国の途次にあった前田利家(まえだとしいえ)は、この起こったばかりの
通史編2(近世1) (一 検地・人質徴収・城破(わ)り・刀狩り)

すでに、前年の天正十七年八月二十日付の前田利家(まえだとしいえ)が南部信直(なんぶのぶなお)に宛てた書状
資料編1(古代・中世編) ([口絵])

三月二十四日 南慶儀書状写 (本文史料九八九号) 天正十七年八月二十日 前田利家書状 (本文史料一
通史編2(近世1) (湊合戦と惣無事令違反)

また、八月二十日付で前田利家は、この秋か来春に秀吉が出羽・奥州両国の仕置のために出馬するであろうことを,また、八月二十日付の前田利家から信直に宛てた書状の中で、湊合戦について触れ、これを私戦とみなした(資料古代
通史編2(近世1) (伏見滞在と派閥抗争)

当時の政権内では、前田利家・徳川家康・伊達政宗・浅野長吉らの分権派と、政権の強化を図る集権派に分裂し激,徳川家康画像  すでに名護屋在陣において、南部信直は天正十五年以来一貫して取次として接点を持っていた前田利家,秀吉朱印状を発給されているが、この朱印状を受け取るまで、信直は再三にわたって南部氏の取次を果たしていた前田利家,その朱印状の末尾の文言には「猶加賀大納言(前田利家)可被申也」(南部利昭氏蔵)とあり、朱印状の発給の取次,南部氏の場合、分権派の前田利家を取次としていたため「隣郡之衆」に組み込まれることはなく、伏見作事板を個別
通史編2(近世1) (北奥羽の大名の動向)

天正十五年(一五八七)六月十九日、前田利家は、南部信直に対して血判誓紙をしたためて、秀吉にとりなすことを,このように、南部信直は、前田利家との好(よし)みを通じて、豊臣政権とも結びついてゆくようになる。
通史編2(近世1) (浅利頼平の比内帰還)

天正十八年七月以後の奥羽仕置において、秋田の検地奉行として木村重茲、津軽の検地奉行として前田利家、仙北,前田利家も同じ期間に検地を行って帰国、上洛している。
通史編2(近世1) (知行安堵と検地)

天正十八年七月、前田利家が検地を行うために出羽・奥州へ向かい、津軽地域にも赴いている(資料近世1No.,大浦為信も天正十八年十二月に前田利家とともに上洛しており(資料近世1No.二七)、これらの北出羽大小名
通史編2(近世1) (伏見指月城の普請)

秀次が石田三成らから謀反の嫌疑をかけられたのは、豊臣政権内の分権派である徳川家康・前田利家をはじめ東国
通史編2(近世1) (浅利頼平の怪死)

この浅利氏の行動を秋田氏は、前田利家の調停を無視した不届きの行為であり、さらに自分に対して虚言を仕掛け
通史編2(近世1) (人質徴収)

また、津軽為信も、前田利家に伴われて十二月に足弱衆を伴って上洛している(資料近世1No.二七)。
通史編2(近世1) (九戸一揆の始まり)

四月十三日に出発した利直は、北国海運によって京へ向かい、五月二十八日に上洛、翌二十九日に南部氏の取次である前田利家
通史編2(近世1) (九戸一揆の背景)

天正十七年八月二十日に前田利家が信直に与えた書状によれば、九戸政実は「叛逆之族(はんぎゃくのやから)」
資料編1(古代・中世編) ([十六世紀])

●天正十五年(一五八七)六月二十九日、前田利家、血判誓紙をしたため、南部信直を関白秀吉に取成すことを約束,●天正十五年(一五八七)八月二十二日、前田利家、関白秀吉への取成しに成功し、南部氏が豊臣大名として認定,●天正十七年(一五八九)八月二十日、前田利家、南部信直に書を送り、今秋か来春、秀吉が「出羽・奥州両国之御仕置
通史編2(近世1) (知行安堵)

津軽氏の場合、天正十八年(一五九〇)十二月に前田利家に伴われて妻子とともに上洛を果たしており(資料近世
通史編2(近世1) (関ヶ原の戦いと津軽氏)

候衆」、すなわち牧使城を攻囲する軍勢として、蒲生氏郷、最上義光、木村重茲に属する一手として秋田実季、前田利家
資料編2(近世編1) (【解説】)

檜山安東氏は南部氏の下知に従うような勢力関係にはなかったが、同政権と南部氏を取り持つ奏者の任にあった前田利家
通史編2(近世1) (奥羽大名の名護屋参陣)

加賀宰相前田利家の配下には南部信直・本堂忠親(ほんどうただちか)、蒲生氏郷の配下には最上義光・大崎義隆
資料編2(近世編1) (編年史料 (天正十七年~明暦二年))

●天正十七年(一五八九)八月二十日、加賀金沢城主前田利家、南部信直へ書状を遣わし、大浦為信に叛逆の動きあること,●天正十八年(一五九〇)七月、加賀金沢城主前田利家検地のため津軽へ赴く。,●天正十八年(一五九〇)十一月、前田利家、津軽仕置を終えて帰陣することを、津軽より国元へ伝える。,●天正十八年(一五九〇)十二月二十九日、前田利家の家臣河島重続、津軽仕置の終了と、南部右京亮為信並びに,●文禄二年(一五九三)五月二十七日、南部信直、八戸直栄へ書状を遣わし、名護屋の陣にて津軽為信が前田利家
資料編1(古代・中世編) (第一章 綱文・史料一覧)

…………………………… 永禄日記 341 ●天正十五年(一五八七)六月二十九日、前田利家、血判誓紙をしたため,…………………… 盛岡南部家文書 342 ●天正十五年(一五八七)八月二十二日、前田利家、関白秀吉への,…………………… 盛岡南部家文書 353 ●天正十七年(一五八九)八月二十日、前田利家、南部信直に書を
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