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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編2(近世1) (越後加増説)

越後加増説 信枚の越後転封は結局沙汰やみになったが、この騒動の最中に津軽弘前藩にとって一つの重要な点,六月二十一日付けで国元の服部長門・白取瀬兵衛宛てに出した申渡状(同前No.三七二)に記載されていた「越後への加増転封,十五万石の高で信州へ所領替えをするという将軍の内意があった」という文言があり、津軽家はこの時一五万石に加増,加増転封先が信州のみの表記であるが、越後国魚沼郡と信州川中島で合わせて一五万石であったものと思われる。 / 越後加増説
通史編2(近世1) (正保の信義排斥事件)

また、信義の弟である津軽信隆はこの年十二月に五〇〇石の加増を受けているが(同前No.六九五)、加増理由,図76.津軽百助(信隆)宛津軽信義知行加増黒印状  なお、慶安元年(一六四八)閏正月十七日に弘前城中,津軽信隆はこの年二月十三日さらに三〇〇石の加増を受けており(同前No.七〇五)、二年連続しての大幅な加増
通史編2(近世1) (知行宛行状の発給)

同日に神左馬丞へ荒地で高一一石が館山村(現平賀町館山)で与えられているが(同前No.五二九)、これは加増,(一六四七)十二月に入ると、津軽信隆は掛落林(からばやし)村(現板柳町掛落林)一村の内で高五〇〇石の加増,外崎は慶安五年(一六五二)二月五日に青女子村で高二〇石の加増も受けている(同前No.七三七)。  ,二月十三日には津軽信隆にまた加増があり、二七ヵ村で高三〇〇石が加増された(同前No.七〇五)。,この二例からもわかるように、加増の場合は一村あたりの加増高は一〇石前後になるように割り振りされていたと
通史編2(近世1) ((三)藩士土着政策廃止をめぐる諸問題)

いうまでもなく土着策の責任をとらされたのであるが、赤石が同年三月二十八日に五〇石加増されて用人となっていることから
通史編2(近世1) (江戸での借財の増加)

もっとも、この代償に津軽屋は禄高二〇〇石の加増を受け、さらに津軽屋が提供した金子に見合う額になるまで、,それ以前からの加増分を含めると、津軽屋の総禄高は一〇〇〇石に達し、上級藩士なみの待遇を得たのである。
通史編2(近世1) (黒石津軽家の大名昇格)

大名の分限である一万石にするために、本家の蔵米を充当しようとしたのは、幕府の加増を受けて大名に昇格することが
通史編2(近世1) (関ヶ原の戦いと津軽氏)

慶長六年、関ヶ原での功績により、津軽為信に対して上野国勢多(こうずけのくにせた)郡のうち二〇〇〇石が加増,この加増についても後世に編まれた編纂物にのみ記載されていることであり、実際のところ、いつどのような理由
通史編2(近世1) (信寿の高増運動)

については、編纂史料以外で初めて、いわゆる「北狄(ほくてき)の押へ」論を主張する史料であって、政治的上昇=加増
通史編3(近世2) (繭)

目録を見る 精細画像で見る  野本道玄の出身地は山城(現京都府南部)で、宝永三年に一〇〇石加増
通史編3(近世2) (藩政前期為信)

この功により為信は念西坊に寺領二四石を与え、慶長九年(一六〇四)には一三石余を加増するなど、その地域の
通史編2(近世1) (二度の高直り)

領地が元どおりなので、家士への加増は、ほとんどなかったし、蝦夷地警備などの軍事費に食われて藩財政が窮迫
通史編2(近世1) (津軽信枚の越後転封)

一、国替を命じられ、福島正則が津軽へ転封となり、自分は加増されて越後に転封となった。,これらの者は元和七年(一六二一)に知行が一〇〇石に加増され、士分(しぶん)に召し直された。,一揆対策を指示 20 島田直時に津軽下向任務問い合せ 21 福島正則の津軽転封と,信枚の越後への加増転封
通史編2(近世1) (大名の改易と幕領検地)

をみると、綱吉政権当初から元禄五年(一六九二)までに改易された大名の総石高は一一〇万石を越え、この間の加増石高
通史編3(近世2) (江戸後期の漆工芸)

、よく働いたので嘉永五年(一八五二)十二月十五日に二歩、安政三年(一八五六)正月二十一日、さらに二歩加増
通史編3(近世2) ((三)主要人物)

つがるやすちか)の時に中小姓に召し出され、一〇代信順(のぶゆき)の時代、文政八年(一八二五)五〇石を加増
資料編3(近世編2) (3 現存する天守・城門等の考察)

する天守・城門等の考察 四万五〇〇〇石で始まった弘前藩は、関ヶ原の戦いで東軍への加担により二〇〇〇石加増
通史編2(近世1) (信義の襲封)

信義の出生地上野国勢多郡大舘(正しくは上野国新田郡大舘)は、藩祖為信が関ヶ原の戦いでの戦功で加増された
通史編2(近世1) (負担の増大による民衆の困窮)

高直りによって、七万石、さらに一〇万石となっていくが、それに伴う領地の加増がないことから、軍役負担の増加
通史編2(近世1) (信政晩年の藩政)

御城御普請」手伝が困窮を理由に一〇分の一免除されたものの、家中救済策が示されず不評であること、表向き加増
資料編2(近世編1) (編年史料 (天正十七年~明暦二年))

●慶長六年(一六〇一)、この頃、津軽為信、上野国大舘に二千石を加増されるという。,●正保四年(一六四七)十二月、この月、津軽信義、一門の津軽信隆へ掛落林村に加増し、五百石の知行宛行状を,唐牛吉太夫、村山を討ち取り、その功を賞して加増される。,●慶安元年(一六四八)二月十三日、津軽信義、一門津軽信隆へ知行目録を下付し、三百石を加増する。,同日、家臣外崎弥五右衛門へ二十石を加増する。
通史編2(近世1) (津軽家宛ての領知宛行状と領知高の変動)

幕府は元禄七年(一六九四)、今後一万石以上の加増・所替の場合は、判物を下される大名(一〇万石以上ないし
通史編2(近世1) (掲載図版・写真の典拠・所蔵一覧)

74 南津軽郡浪岡町 浪岡八幡宮蔵 75 鉄砲之定 元和9年 弘前市立博物館蔵 76 津軽信義知行加増黒印状
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