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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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通史編5(近・現代2)
(北門を継ぐ)
宮川逸仙に学んだ
加賀
谷雪泉(かがやせつせん)は書宗院に参加、その南ケ丘書道会に、昭和四十六年、桑原翠邦,会の代表は
加賀
谷雪泉、古典臨書を中心にしている。
通史編2(近世1)
(慶安二年の「弘前古御絵図」)
秋田屋 米沢屋 仙台屋 南部屋 黒石屋 最上屋 8 2 2 1 1 1 北 陸
加賀
屋,そして、これらの地名は、越前・若狭・
加賀
などの各湊津に物資を揚げ、琵琶湖を経由して京・大坂へと通じる輸送路,また、大坂・京・近江・
加賀
など、西廻り海運に関係する地名の屋号が、東北地方を地名を冠する屋号よりも圧倒的,こうした、職人集団の出自をその由緒書からたどってみると、津軽出身者以外では、秋田・
加賀
・近江・山城・和泉
通史編3(近世2)
(野辺地戦争の動機)
軍艦
加賀
丸は九日、青森を出発したが天候が悪く、いったん安渡(あんど)村(現青森県下北郡大湊)へ停泊し、,十日、改めて野辺地沖より砲撃を開始したが、盛岡藩側からも応戦があり、八発のうち二発が
加賀
丸に命中してしまった,逆に、
加賀
丸は損傷を受け、盛岡藩は馬門口の警備強化を進めたため、弘前藩はその意に反し、総督軍の威を損なう
通史編3(近世2)
(真教寺)
真教寺 真教寺(しんきょうじ)は、天文十九年(一五五〇)に
加賀
国(現石川県)出身の浄理が坪貝(つぼかい
通史編2(近世1)
(材木移出)
万治三年(一六六〇)から翌寛文元年にかけて、材木の積み出しを求めた船頭で、地名を冠した者を拾ってみると、
加賀
二木,・越後・
加賀
安宅(あたか)・十三・庄内・鰺ヶ沢・新保(越前)・越後今町と、津軽領内を除くと、おおむね越前
通史編2(近世1)
(天保の飢饉の特徴)
136石 飢饉の前半において、津軽弘前藩では天明飢饉の後設けられた郷蔵(ごうぐら)が功を奏し、また
加賀
通史編2(近世1)
(豊臣政権の奉行衆)
豊臣政権の奉行衆 秋田氏へ杉板運上の朱印状を取り次いだ人物は、文禄元年は
加賀
の前田利家、文禄三年(一五九四
通史編2(近世1)
(飢餓対策における殖産政策)
たとえば、阿波(あわ)の六兵衛は藍の栽培、米沢の武助は苧(カラムシ)の糸取り法、
加賀
の清三郎は綿の栽培
通史編2(近世1)
(上方廻米)
一方、「雇船(やといぶね)」はその多くが他国船であり、大きく敦賀・越前新保・
加賀
などの北国海運関係と、
通史編2(近世1)
(西廻海運による大坂廻米)
弘前藩は、藩財政を支えるためには、北国諸藩のなかでも
加賀
藩に次ぎ秋田藩と並ぶほど、より多くの蔵米を大坂廻米
通史編2(近世1)
(飢饉への対応)
ようやく、上方・
加賀
から米が入ってきたのは翌年の春二月以降になってからのことであった。
通史編2(近世1)
(奥羽大名の名護屋参陣)
朱印状によれば、原則として各大名はすべて一隊を形成しているが、例外として東北の大名だけが、「一、百人
加賀
宰相,
加賀
宰相前田利家の配下には南部信直・本堂忠親(ほんどうただちか)、蒲生氏郷の配下には最上義光・大崎義隆
通史編2(近世1)
(天保四年における藩の対応)
翌五年には
加賀
から米一万五〇〇〇石の購入を行い、春二月に到着している。
通史編2(近世1)
(飢饉に至るまでの経緯)
「藤田権左衛門家記」によれば、天明二年には江戸・大坂へ各二〇万俵余、
加賀
へ三万俵余、これに小納戸米(こなんどまい
資料編1(考古編)
((1)東北地方南部以南との交易・交流)
なお、この時期には北陸地方(
加賀
・能登・佐渡)との関係も深く、須恵器の一部は、この地方からの搬入品であることも
通史編2(近世1)
(宝暦~天明期の弘前藩の財政状況)
ほかに江戸廻 米が二万四五〇〇石(一一・六五パーセント)、先納金を供出した
加賀
・上方の商人五人への廻米
通史編2(近世1)
(中世の北国海運)
ったという『廻船式目(かいせんしきもく)』に三津七湊(さんしんしちそう)とあり、そのうち七湊には越前三国・
加賀
本吉
通史編2(近世1)
(旅行者のみた領内海防)
秋田領小綱木(小繋(こつなぎ)村、現秋田県山本郡二ツ井(ふたつい)町)に宿泊した時、青森から国元に帰る途中の
加賀
出身
通史編2(近世1)
(伏見作事板の運上と太閤蔵入地)
去年以来被仰付候板之事、秋田・津軽・其方領内何之山ニ而成共、勝手能所作杣取、至敦賀差上、大谷刑部少輔可相渡候、猶
加賀
大納言可被申也
資料編2(近世編1)
(編年史料 (天正十七年~明暦二年))
●天正十七年(一五八九)八月二十日、
加賀
金沢城主前田利家、南部信直へ書状を遣わし、大浦為信に叛逆の動きあること,●天正十八年(一五九〇)七月、
加賀
金沢城主前田利家検地のため津軽へ赴く。,●慶長七年(一六〇二)七月十八日、これより先、津軽信枚家臣、
加賀
金沢城主前田利長の家臣と、洛中にて争闘,●元和七年(一六二一)九月十八日、幕府、美濃国代官栗原
加賀
の孫泰藝を、津軽家へ預ける。,翌十一日、
加賀
材木買衆、能代から津軽へ赴かんとする。
通史編2(近世1)
(伏見滞在と派閥抗争)
その朱印状の末尾の文言には「猶
加賀
大納言(前田利家)可被申也」(南部利昭氏蔵)とあり、朱印状の発給の取次
通史編1(古代・中世)
(一 古代における北奥の宗教世界)
袋宮寺 同右 天正年中 (11) 報恩寺 同右 江戸輪王寺 明暦三年 (12) 長勝寺 曹洞宗
加賀
宗徳寺
資料編1(古代・中世編)
(出典・典拠一覧(第一章・第二章))
石井忠藤家蔵文書 ……………………………………………………………………… 秋田藩採集文書〔秋田県立図書館〕 伊勢
加賀
守貞満筆記
資料編1(古代・中世編)
(第一章 綱文・史料一覧)
……………… 伊勢
加賀
守貞満筆記 286 ●天文五年(一五三六)六月、蠣崎良広、西蝦夷の首長タリコナを
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