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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編2(近世1) (土着策実施への布石(Ⅱ期))

(5)望みの者は、郡・勘定奉行に問い合わせ、確認のうえ申し出ること。 等である。  ,小給者の困窮対策が直接の目的となっており、また、まったくの自分「手人数」をもっての開発となっているが、勘定奉行,郡奉行と勘定奉行を土着策の担当としたのは、この理由からである。  ,こうして、同三年一月、赤石安右衛門が郡奉行(勘定奉行兼帯)に、菊池寛司が勘定奉行(郡奉行兼帯)に登用され
通史編2(近世1) (乳井の略歴)

乳井の略歴 勘定奉行乳井貢(にゅういみつぎ)は宝暦期の藩政を主導し、改革を断行していった。,一七五二)には「病気全快ニ付」御役復帰を願い出て、三月には手廻五番組、八月には寄合、翌年の一月十五日に勘定奉行,乳井の勘定奉行登用の経緯は「高岡記」(『伝類』)によれば次のようである。,勘定奉行に就任するや、思い切った財政改革を断行し、当初めざましい成果を挙げた。,図135.乳井貢画像  安永七年(一七七八)、乳井は再度勘定奉行を仰せ付けられ、胸中深く計策を秘
通史編2(近世1) (改革推進体制の構築)

改革推進体制の構築 さて、右の課題を解決するため、家老津軽主水、用人毛内有右衛門、勘定奉行乳井市郎左衛門,中でもその中心は勘定奉行乳井であった。,乳井の勘定奉行就任は同年一月十一日であり、乳井の就任によって勘定所の吟味が万事改まった(「徧覧日記」宝暦三年一月十一日条,仕事内容は「勘定所惣調方御用」であり、勘定奉行佐藤伝左衛門に惣調方を命じ、同役の乳井に手伝いを申し付けている,宝暦五年(一七五五)十二月二十三日、江戸において調方勘定奉行の乳井は「元司職(もとししょく)」を命じられ
通史編2(近世1) ((三)藩士土着政策廃止をめぐる諸問題)

これに先立って、同年五月二十三日・二十四日に、家老牧野左次郎、用人赤石安右衛門、勘定奉行菊池寛司が御役御免蟄居
通史編2(近世1) (幕末期の藩財政)

幕末期の藩財政 嘉永七年(一八五四)四月、津軽弘前藩の勘定奉行はペリー来航に伴う国情から異国への防備,勘定奉行は、家中や在方からの買い上げ米の復活などを中心とした赤字の縮小計画を立てたが、借財が多い中で江戸
通史編3(近世2) (藩営紙漉座と蘭医星弘道)

安政六年(一八五九)十月、御用人楠美荘司(くすみしょうじ)が楮仕立・紙漉座御用係、勘定奉行浅利(あさり,御用人本多東作(ほんだとうさく)・佐野茂助、勘定奉行寺田慶次郎(てらだけいじろう)ら一七人と手付き七人,同じころ、仕立方御用係勘定奉行寺田慶次郎・永野弥作(ながのやさく)らが、薄市開山の検分のため中里村に出張
通史編2(近世1) (赤石安右衛門・菊池寛司の「覚」)

この前後、人事の一新が行われて、寛政二年五月信明帰国、同年六月牧野を用人に、翌三年正月赤石を郡奉行(勘定奉行兼帯,)に、菊池を勘定奉行(郡奉行兼帯)に登用、また同年五月までに、赤石・菊池とともに、いわゆる「寛政七人衆,」に数えられる竹内長左衛門嘉次(よしつぐ)(勘定奉行手伝)・楠美荘司則徳(のりとく)(勘定奉行)・工藤甚之助祐与,(すけとも)(錠口役兼勘定奉行)・成田祐衛門恒佐(つねすけ)(勘定奉行)・三橋勘之丞定禧(さだよし)(,錠口役兼勘定奉行)が登用されている。
通史編3(近世2) (猿賀神社より盗み)

すなわち庄五郎は「国日記」文化八年十一月七日条にみえる四奉行(寺社奉行・町奉行・勘定奉行・郡奉行)の命令
通史編3(近世2) (入学式)

「封内事実秘苑」は、その状況を伝えて、当世、何事も「唐流」になり、家老を「唐風」に「国相」と、勘定奉行
通史編2(近世1) (殖産政策の前提)

にとられた大老堀田正俊(ほったまさとし)の主導による「天和の治(てんなのち)」の年貢増徴策や、元禄期の勘定奉行荻原重秀
通史編2(近世1) (異国船打払令の発令と津軽弘前藩)

打払令の発令を受けて同藩では、三奉行(郡奉行・町奉行・勘定奉行)が今後の処置について検討し、藩庁へ申し,については、三厩派遣の兵員・浦々の町奉行・湊目付にその心得方を申し渡すよう、また大筒掛役・廻船の乗組員へは勘定奉行
通史編2(近世1) (農村部での騒動)

騒動に参加した者は約一〇〇〇人で、弘前郊外の石ノ渡の川原で、郡奉行三上理左衛門・勘定奉行石郷岡徳左衛門
通史編3(近世2) (半紙の増産事業)

紙代金が過分に他領へ流出するのを改善するのがねらいであって、なんとか半紙だけでも国産にできないかと郡・勘定奉行
通史編4(近・現代1) (最初の県会)

山田登は旧藩の勘定奉行、用人として功があり、山崎清良も旧藩大目付で戊辰の役で活躍、藩を勤王とした功があるが
通史編2(近世1) (茨木屋の苦悩)

宝暦四年甲戌御改革帳之写 左側は上方の借財、右側は江戸の借財 目録を見る 精細画像で見る  この年、勘定奉行釜萢,翌十二年、勘定奉行釜萢が来坂し、再び返済免除の申し出を行った。
通史編3(近世2) (子供を池に投げ殺害)

そのため三奉行(寺社奉行・町奉行・勘定奉行)が、三〇〇日の牢居の期間が終わってから一〇里四方追放・大場
通史編2(近世1) (津軽領内のアイヌ民族)

その搬出すべき米は青森御蔵にあった津軽弘前藩の蔵米が充てられており、勘定奉行が藩側の払米責任者となり管理,青森御蔵からの払米を認める場合はその量と価格を藩中枢(この期では財政方の中心である元締方)で決定し、勘定奉行
通史編2(近世1) (新施策の実施と知行制度の転換)

これら一連の政策は、勘定奉行武田定清(さだきよ)をはじめ、信政に取り立てられて藩の財政・地方支配等を掌握
通史編4(近・現代1) (弘前士族の反発)

このときの貫属の総代は、旧藩時代勘定奉行を務めた菊池幸八をはじめ、八木橋直世、川越石太郎、相馬三郎、野呂精一
通史編3(近世2) (勤務の状況)

御用座敷は上ノ間から家老、二ノ間は用人・大目付、三ノ間は三奉行(寺社奉行・町奉行・勘定奉行)、四ノ間は,吟味役・勘定小頭(かんじょうこがしら)(両者は勘定奉行の下僚)が詰めて藩政を処理する。  
資料編2(近世編1) (第二節 乳井貢の思想【解説】)

 乳井貢の思想【解説】 乳井貢(一七一二~一七九二)、本名建福(一説に建富)は宝暦三年(一七五三)勘定奉行
通史編2(近世1) (大問屋制の導入)

この目録は、さらに勘定奉行・勘定元方と回覧されたから、大問屋が関所と藩の幹部との間で、交易の確認をする
通史編2(近世1) (裁判と判決)

目付が担当し、武士とともに斬(ざん)罪や追放が申し渡され、四奉行(寺社奉行・郡(こおり)奉行・町奉行・勘定奉行
通史編3(近世2) (恩を仇で返し殺害・盗み)

)一枚、木舞(こまい)一本、大板付釘三本が必要であると町奉行が申し出てきたので、すぐ準備して渡すよう勘定奉行
通史編3(近世2) (森内繁富)

森内は寛政十年に勘定奉行を仰せつけられたが、「無調法」があったとして退役させられ、書院番に戻り、享和二年
通史編2(近世1) ((二)藩士土着政策の展開)

Ⅱ期は、赤石・菊池の建議と、両人の郡奉行・勘定奉行への登用期。
通史編2(近世1) (預手形とは)

.現存する預手形(宮崎札)  当時、藩の勘定方の実務を担っていたのは、同年四月に就任した御元方勘定奉行
通史編3(近世2) (青森商社の設立)

商社惣司(そうじ)(通商署商社局長)にはとりあえず勘定奉行毛内貫太郎(もうないかんたろう)が任命されたが
通史編2(近世1) (綱紀粛正・倹約奨励)

このため、以後そのようなことがあれば早速申し出るようにと、勘定奉行と台所頭へ申し付けている。  
通史編2(近世1) (藩政の転換と家臣団統制の動き)

さらに、郡方・勘定方中心の「出頭人」グループの中心であった勘定奉行武田定清は、正徳二年正月、金策に赴いていた
通史編4(近・現代1) (不平の源流)

「島津左大臣上言ニ付テノ議」(明治8年)  不平派の統領山田登も派の幹部菊池幸八も、旧藩時代に勘定奉行
通史編3(近世2) (二 藩主の日常生活)

、多膳と会い藩政について用談・決裁――杉山源吾・高安(たかやす)治右衛門祖父拝領の紋付着用願いの件、勘定奉行,すぐ平服に着替えて再び山吹ノ間へ出座し、多膳と会い藩政について用談・決裁――勘定奉行より年末に払う金銭調達,会い藩政について用談・決裁――留守居組杉山田万之助病身につき隠居申し出の件、紙蔵へ購入の品注文書調帳勘定奉行,午前十一時すぎ山吹ノ間へ出座し、多膳と会い藩政について用談・決裁――町人・徒(かち)の御目見の件、勘定奉行,勘定奉行より、薬屋の金屋惣兵衛(かなやそうべえ)が今年春疫病流行に際し、薬を一万一五〇貼(ちょう)寄附
通史編2(近世1) (隠津出・抜け米の取り締まり)

これらの米穀の購入状況を御元方勘定奉行に報告し、支払いの仲介に当たったのが御用達元方の商人であり、一般
通史編3(近世2) ((三)住居)

・三ノ間(三奉行…寺社奉行・町奉行・郡奉行の総称)・四ノ間(吟味役・勘定小頭(かんじょうこがしら)…勘定奉行
通史編4(近・現代1) (第一回通常県会)

そして、議長に家老だった大道寺繁禎、副議長に勘定奉行だった蒲田昌清、幹事になった鳴海謙六は鰺ヶ沢代官で
通史編2(近世1) (弘前藩庁日記の開始)

のころを除いて、まずその月初めには、その月の月番である家老・用人・大目付・寺社奉行・郡奉行・町奉行・勘定奉行
通史編2(近世1) (町役)

この地子銀納は、正徳三年(一七一三)一月に、その徴収に当たって藩当局の出費が大きいという勘定奉行・郡奉行
通史編2(近世1) (対外交易の実態)

を採取しており、年々一〇〇箇ほどを江戸に廻漕(かいそう)しているので、これを箱館の異人に売れないか、勘定奉行
通史編2(近世1) (東蝦夷地直轄下の勤番体制)

けた幕府は、ロシアの蝦夷地進出に一層の危機感を持ち、翌十一年、書院番頭(しょいんばんがしら)松平忠明・勘定奉行石川忠房
通史編2(近世1) (家臣団の成立)

これは、隣藩の秋田藩の勘定奉行で、のち家老に昇進する梅津政景(うめづまさかげ)の日記で、元和三年(一六一七
通史編2(近世1) (江戸での借財の増加)

自己の借財の返済に廻米売立代金を流用するなど、なりふり構わない経営を行うようになり、同二年には江戸詰勘定奉行
通史編2(近世1) (藩士対象の司法制度)

家老・用人・大目付・勘定奉行など上級藩士に対する取り調べの詳細は不明であるが、「国日記」によれば、預り
通史編3(近世2) (生活の困窮)

そのため彼らの支配頭(がしら)と三奉行(町奉行・寺社奉行・勘定奉行)の相談により、質入れした品物は本人
通史編3(近世2) (信寿・信著・信寧時代)

乳井は勘定奉行、御元司として宝暦改革を推し進めた中心人物である。
通史編2(近世1) (貞享検地への影響)

たとえば検地奉行の太田茂左衛門が任じられた馬廻番頭の支配機構上の序列は、竿奉行の田村・対馬の役職である勘定奉行
通史編2(近世1) (改革の終焉と成果)

明和五年(一七六八)に蟄居を解かれ、安永七年(一七七八)再度出仕を許されて者頭格(ものがしらかく)勘定奉行
通史編2(近世1) (穀物の流通統制)

御用達は月ごとに手形を最終的に御元方勘定奉行へ渡すことになっていた。
通史編3(近世2) (毛内宜応)

父茂巧は創設された御調方(おしらべかた)役所の惣司として、勘定奉行の乳井とともに宝暦改革を担っていったが
通史編2(近世1) (土着策と蝦夷地警備)

たとえば、派兵藩士からの前金無しの武具の修理願いの取り扱いが郡・町・勘定奉行の間で論議されているのをはじめ
通史編3(近世2) (盆踊り)

安政元年(一八五四)には、町奉行と勘定奉行の間で、宵宮・ねぷた・盆踊りの問題点が出され、その中で、盆踊
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