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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編2(近世1) (東蝦夷地直轄下の勤番体制)

東蝦夷地直轄下の勤番体制 寛政十年(一七九八)三月、幕府は目付渡辺久蔵以下、一八〇余人に及ぶ大規模な,に勤番所を設け、盛岡藩はウラカワ以東を担当して、ネモロ(現北海道根室市)・クナシリ・エトロフに勤番所を,同年四月に渡海、箱館において勤番地と詰め人数は以下のように指示された。,一六ヵ所に分散したのは各地に勤番小屋を設置したからであり、享和二年から勤番箇所が縮小するのは、それぞれの,文化二年・三年も勤番地は同様であった。 / 東蝦夷地直轄下の勤番体制
通史編2(近世1) (東西蝦夷地直轄下の勤番体制)

東西蝦夷地直轄下の勤番体制 文化四年三月の松前および西蝦夷地の上知決定に伴い、翌四月、津軽弘前藩は盛岡藩,当藩は二五〇人と、西蝦夷地上知に伴う新たな勤番人数を用意していたが、エトロフ襲撃事件への増援要請が箱館奉行,この年の各勤番所の越年者を加えると、総人数は一〇〇二人にのぼった。,松前・江差・ソウヤ・北蝦夷地(サハリン、カラフト)が主たる勤番地であり、毎年半数以上の越年者がいることがわかる / 東西蝦夷地直轄下の勤番体制
通史編3(近世2) (江戸勤番と生活)

江戸勤番と生活 江戸藩邸は基本的に上(かみ)・中(なか)・下(しも)の三屋敷があり、上屋敷は藩主やその,このように「添田儀左衛門日記」から、藩士の江戸勤番と非番の時の生活が具体的に知られるのであるが、次に天明五年,(一七八五)の「江戸御屋敷勤方御用留」の中にみえる「御上屋敷勤方覚」によって、上屋敷における勤番の主要 / 江戸勤番と生活
通史編2(近世1) (開国と箱館警備)

くような事態が発生した場合、鎮圧に人数が必要ならば津軽弘前藩・盛岡藩・松前藩に人数を差し出させ、箱館勤番,その構想のなかで、堀は津軽弘前藩を含む奥羽諸藩に対して東西蝦夷地警衛勤番を命ずるよう主張し、(その割り,.東西蝦夷地上知被仰出向後警衛向御書付 目録を見る 精細画像で見る  この結果、奥羽諸藩は、勤番人数,図207.松前箱館千代ヶ台ニ御陣屋造営之図 目録を見る 精細画像で見る  ここに詰めた勤番人数,これらの諸藩は、前期幕領期(第一次幕領期)に勤番や臨時出兵の実績があり、いわば蝦夷地体験のあったことが
通史編2(近世1) ((二)蝦夷地出兵の諸段階)

しかも、寛政十一年までの三年間の勤番(一年交代)と定められた。  ,(3)は寛政九年から同十一年までの勤番が、同十一年の蝦夷地直轄化によって、勤番地や派遣人数を変えながら,そのつど、警備地や派遣人数に変化がみられ、特に文化四年以降は、総人数を毎年交代するという方式をとらず、各勤番所,寛政十一年以降の蝦夷地直轄下の勤番体制については、本章第三節一で触れることにする。
通史編3(近世2) ((一)勤務)

藩士それぞれが所属によって勤務場所に出仕(しゅっし)することを勤番または出番といい、終わると明け番・非番
通史編2(近世1) (大問屋制の導入)

荷物は関所の役人が確認した後、扱いの問屋が「出入目録」を作り勤番目付へ提出し、勤番目付が印を押して大問屋
通史編3(近世2) (災害と生活)

災害と生活 江戸勤番の藩士が、江戸で遭遇した災害などにどのように対処していたか、「江戸日記」にみえる,これは江戸勤番の藩士が悪法の施行に忍従した例である。  ,柳島勤番の石崎十右衛門は、勤務中のため自分の住居を顧みられず、所持品すべてを流失してしまった。
通史編2(近世1) (「分領」体制下の警衛と政策の実態)

蝦夷地警衛は、安政期の警衛同様、箱館千代ヶ台に元陣屋(もとじんや)、スッツに出張陣屋が置かれ、そこに勤番人数
通史編2(近世1) (弘前八幡宮の祈祷)

寛政元年のクナシリ・メナシの戦い、同四年のラクスマン来航による派兵を経て、同九年以降蝦夷地常駐を強制される勤番体制,そして勤番体制が本格化するなかで、廻船海上無難祈祷が警備藩士に対する蝦夷地渡海安全祈祷に取って代わられることになったとみることができよう
通史編2(近世1) (負担の増大による民衆の困窮)

は町人・職人・郷夫であり、無苗字であることが不都合であることから、以後職人・郷夫といった名目をやめ、勤番中,蝦夷地直轄化を契機に、勤番所や道路を普請し、幕府による蝦夷地支配体制の整備を図ろうとしたからであり、文化元年,また、文化四年から翌年にかけてシヤリ(現北海道斜里郡斜里町)で越冬した勤番人約一〇〇人の内、多くが「浮腫病
通史編2(近世1) (ロシアによるエトロフ襲撃事件)

続いてエトロフの中心であるシヤナに二度にわたって上陸し、勤番の津軽弘前・盛岡藩兵を撃退し、ナイボ同様、
通史編2(近世1) (綱吉政権下における大名課役)

主君の居城の警護や勤番は家臣の義務であり、その意味からも、門番や防火に当たることは、大名にとって重要な,江戸町人の研究』五 一九七八年 吉川弘文館刊、針谷武志「軍都としての江戸とその終焉―参勤交代制と江戸勤番
通史編2(近世1) (警備引き揚げとその背景)

ゴローニン事件の解決以降、蝦夷地警衛の体制は縮小へと向かい、文政元年(一八一八)以来、蝦夷地警衛の勤番地,蝦夷地経営および幕府・東北諸藩による警衛でもたらされた会所や運上屋を通したアイヌ支配と、各所に置かれた勤番所
通史編2(近世1) (江戸時代初期の大名課役)

信枚は十一月二十五日大坂住吉に到着して徳川家康に拝謁したが、その場で江戸勤番を命じられ、実際の戦闘に参加,担っているから、国元が手薄になることを危惧して帰国を促されたとするが、さきにみたように津軽信枚は江戸勤番
通史編2(近世1) (「松前復領期」における蝦夷地派兵準備体制)

により始まり、開国、安政元年(一八五四)の箱館近辺の上知を経て、同二年に東西蝦夷地上知、奥羽諸大名の勤番開始
通史編2(近世1) (対蝦夷地政策と青森商人の商業活動)

たとえば、仙台米を仙台と江戸で津軽家の都合どおりに渡す代わりに、青森と箱館で蝦夷地勤番に必要な津軽米を
通史編2(近世1) (赤石安右衛門・菊池寛司の「覚」)

人足馬割と城下から知行地(土着地・在宅地)までの遠近の関係、(2)弘前城下割、(3)役屋敷・在府長屋=勤番,特に(3)は、藩士の存在意義の一つである勤番についてであり、注意を要する問題であった。
通史編2(近世1) (異国船の領内来航)

たまたま三厩勤番に赴く途中の隊が油川にあり、袰月に急行した。
通史編2(近世1) (旅行者のみた領内海防)

じゅつ)せしが、今は稍(やや)減じて僅かに百人のみ」とするのは、直接海防に当たる人数ではなく、三厩に勤番
資料編3(近世編2) (【解説】)

「旅籠帳」からは、勤番の藩士が毎日の暮らしに、どのような品物を買っていたかが分かり、またその他種々の出費
通史編2(近世1) (文化~文政期の藩財政)

なお、その後はしだいに減少し、松前や吉岡台場など渡島(おしま)半島部に勤番地が縮小された文化十二年(一八一五
資料編3(近世編2) (【解説】)

ただし、この時の派兵は、同十一年までの勤番と定められたもので、事態が収拾されれば帰還できるというものではなかった,本項では、この間の事情を伝えるとともに、斜里での厳しい勤番の状況を記載した、齋藤勝利「松前詰合日記 全
通史編3(近世2) (城下での生活)

足軽どもの勤番を今後大組の勤務場所四ヵ所にするよう唐牛甚右衛門が命じられた。午後六時出番。  
資料編2(近世編1) (編年史料 (天正十七年~明暦二年))

●慶長十九年(一六一四)十一月二十五日、津軽信枚、大坂住吉において大御所徳川家康へ拝謁し、江戸勤番を命
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