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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編1(古代・中世) (北奥における建郡)

北奥における建郡 延久北奥蝦夷合戦に始まった北奥世界の再編成の成果として、もっとも注目されるものが、,古代国家がついに達成できなかった、北奥での郡郷制の施行である。,図30 北奥の郡郷制  ここで注目されるのは、秋田城と関係の深い河北郡を除いて、他のすべての新郡,これは北奥の建郡に関心が向けられ、南方には手が回らない状況、逆にいえば北奥諸郡の収益が南方の両郡からの,北奥における郡設置は、このような水田開発を伴いつつ進められたと考えられること。 / 北奥における建郡
通史編2(近世1) (北奥羽の大名の動向)

北奥羽の大名の動向 まず、南部氏についてみてゆくことにしよう。,しかし、少なくとも、北奥羽の大名と豊臣政権とのかかわりを考えたとき、右の二つの事実は動かしがたいものであるといえよう,本堂道親(ほんどうみちちか)も、豊臣勢の出羽出動に期待し、その情報を南部氏に問い合わせていたといい、北奥羽,北奥では、このルートを通じて惣無事令の情報をつかんでいたのであろうか。  ,北奥地域では、史料の信憑性の問題はあるが、天正十五年四月ころから、南部信直が斯波へ進発しようとしたという / 北奥羽の大名の動向
通史編1(古代・中世) (三 北奥宗教界の中世的転回)

三 北奥宗教界の中世的転回 鎌倉前期の幕府は、奥州平定に絡(から)む源義経・平泉藤原氏一族の討滅に流,時期においては幕府と東国地域とが宗教史的にそう際立ったかかわりを持つことは少なく、その意味で鎌倉前期の北奥,しかし、その北奥宗教界にも鎌倉時代の中後期に予期せぬ大きな変化が起こる。,これまで天台宗一色に彩られてきた北奥仏教界が、この幕府による反天台宗の立場からする「禅密主義」の宗教指導,ここに、北奥の地がより一段と幕府とのかかわりを強めたことは、いうまでもない。   / 三 北奥宗教界の中世的転回
通史編2(近世1) (北奥羽の領知確定)

北奥羽の領知確定 天正十八年(一五九〇)七月の奥羽仕置は、奥羽の諸大名の領土を確定することが第一の目的,表4 北奥羽の大名・小名の領知高 領 主 場 所 石 高 年 代 南部大膳大夫 南部内七郡 天正18,からすれば一括して同じ豊臣政権の領土であるということを明らかにしたことを意味しており、その最北端にある北奥 / 北奥羽の領知確定
通史編1(古代・中世) (一 古代における北奥の宗教世界)

一 古代における北奥の宗教世界 現在の弘前市内における中世寺社を語ることは、必ずしも中世の弘前宗教界,それゆえ、私たちはどうしても弘前の中世宗教史とはいえ、現在の弘前市域を広く越えて、北奥津軽における古代,このように、神社の別当が各々、真言宗・天台宗および神職や修験に所属していたこと自体、北奥地域の神仏習合,平安前期における北奥宗教界に君臨していたのは、やはり天台宗であったと考えられる。,古代北奥の仏教界は、このように天台宗に色濃く彩られた二つの宗教拠点を有していたと考えられる。 / 一 古代における北奥の宗教世界
通史編1(古代・中世) (二 北奥宗教界を彩る中世的寺社)

二 北奥宗教界を彩る中世的寺社 前項一においては、『津軽一統志』によりながら、弘前を含めた北奥津軽の,次に、この鎌倉幕府と護国寺との史的かかわりを中心にして、北奥津軽と鎌倉幕府の間に展開して宗教史的な様相 / 二 北奥宗教界を彩る中世的寺社
通史編1(古代・中世) (中国製品の出土)

このことは、北奥の地が「蝦夷」の地と呼ばれた時代から、少ないながらも既に中国製の陶磁器が持ち込まれていたことを,列挙された品目のなかには北奥の特産物も含まれ、文献の上からもこの時期の交易の進展を認めることができる。,このように、北奥の地までもたらされた白磁や青磁という陶磁器が中国で生産されたモノであること、そして北奥,中国大陸や東アジア地域と一体化した交易システムの上に成立している証拠となり、辺境とみられていた津軽・北奥
資料編1(考古編) (13.神原遺跡)

図29 神原遺跡発見の土器拓影図と石器実測図(北奥古代文化3 P.45・46より) ※参考文献 ,福田友之「津軽・神原続縄文遺跡」(北奥古代文化3)1971年6月
通史編1(古代・中世) (一 中世寺院の建立)

文明三年(一四七一)越前国吉崎御坊を建立した蓮如(写真222)は、弟子を蝦夷(えぞ)・北奥地域に派遣して,それゆえ、日持の北奥・渡道を史実とするか伝説とするかの際、安易な感情論は避けなければならない。,まず、北奥・渡道の際の交通問題である。,こうした交通・交流史的な背景を考えるとき、日持の北奥・渡道はいよいよ現実味を帯びてくる。  ,日持が北奥・渡道したとされる永仁三年の二年後には、宮城県角田(かくだ)市に日義尼の手になる妙音寺が建立
通史編1(古代・中世) (特殊な行政区画)

さてこうした建郡を契機に、北奥地域の緊張した社会情勢を示すといわれている防御性集落がこのころ姿を消している,建郡によって中央の政治力が北奥に及んだことに伴って社会が安定し、高地に堀をめぐらした防御性集落の必要性
通史編1(古代・中世) (エゾ=アイヌ)

北海道常呂町)  中央政府は津軽海峡を境界として強く意識し、本来、長く海峡を挟む共通文化圏を形成してきた北奥,アイヌと日常的に接触していた海峡を挟む世界である北奥の地の人々に対しても、エゾと呼びかけることがあったようである,もっともこれは北奥の地で起こり、それが中央にも広まったということであろう。
通史編2(近世1) (二 肥前名護屋での「日本之つき合」)

二 肥前名護屋での「日本之つき合」 北奥の糠部郡において九戸一揆が鎮圧された直後の天正十九年(一五九一
通史編1(古代・中世) (応永初期の動乱)

安藤氏の「蝦夷沙汰」の対象がその地域での交易活動を含んでいたということからも、北奥羽の世界と無関係のものであったとは,考えにくく、この動乱の鎮圧は、北奥羽の南北朝の動乱を終わらせ、新たな時代の幕開けをもたらした事件であった
通史編1(古代・中世) (延久蝦夷合戦と津軽)

延久合戦をきっかけに開始された北奥地域の政治的・社会的変容をここから読み取ることはそう無理なことではないように,75 高伯寺跡(大鰐町)  とはいえ、延久合戦後の津軽・比内・鹿角・糠部など、北緯四〇度以北の北奥,これらのことから明らかなように、延久蝦夷合戦以後も一二世紀初めまでの北奥地域は、防御性集落の存在が物語
資料編1(考古編) (〈2〉津軽地方で生産された須恵器)

原子山道溜池窯 未 須恵器,窯体壁片散布 村越潔・新谷武「青森県前田野目砂田遺跡発掘調査概報」 「北奥古代文化,7.5m×1.65m 1基 村越潔・新谷武「青森県前田野目砂田遺跡発掘調査概報」 「北奥古代文化,持子沢B-1窯 坂詰秀一ほか S47 半地下式無階無段登窯 坂詰秀一「津軽持子沢窯跡調査概報」 「北奥古代文化,半地下無階無段登窯 9.4m×1.9m 1基 坂詰秀一「津軽持子沢窯跡第2次調査概報」 「北奥古代文化
通史編1(古代・中世) (応永十八年の衝突)

安藤氏は、夷島・北奥羽の沿岸地域を中心として交易の主導権を握り、北方の産物を畿内へ送り、畿内・西国の産物,を北奥にもたらすという海上交通の主役として活躍していたものと思われる。
通史編1(古代・中世) (後醍醐方につく)

宗季は出家入道して「安東入道」と名乗り、上洛ののち、北奥での所職や蝦夷沙汰の確保に奔走していた可能性がある
通史編1(古代・中世) (「東夷征討」祈願)

しかし実際の当時の動きを見ると、北奥の地ではこのときこそ、後三条天皇の「綸旨」(宣旨)を受けて、陸奥守源頼俊,が「大将軍」として「追討人(使)」に任命され、その頼俊の指揮下で、鎮守府将軍清原武則の孫真衡ら北奥羽の,このように、この時期、九世紀以後も「蝦夷の地」のまま残った北奥羽地域(現在の青森県全域と秋田県の北部、
通史編4(近・現代1) (城西小野球部全国大会出場)

全国少年野球大会の第二次予選は、これまで東北第二次予選として仙台で行われていたが、大正十四年に規則が改正されて北奥羽予選,抽選の結果この年の北奥羽予選は弘前市が大会場と決定し、城西校はそれに出場することになった。,十四年七月十二日北奥羽予選は弘前市南塘球場で開催され、出場チームは盛岡市城南小学校、青森市莨町小学校、
通史編1(古代・中世) (糖部郡での論功行賞)

北奥方面では顕家の片腕として活躍し、顕家津軽出陣のさまざまな雑事は師行の担当であったし、安藤氏工作にも
通史編1(古代・中世) (渡嶋の終焉)

一方、こうした北奥の実力者としての津軽の蝦夷の伝統は、中世津軽安藤氏に引き継がれていくこととなるのである
通史編1(古代・中世) (蝦夷沙汰職の行方)

尊氏は、安藤氏の世界である外浜や糠部郡内の北条泰家遺領を与えられ(史料六五五)、本格的に北奥地域の掌握
通史編2(近世1) (近世における史書の編纂)

長谷川成一「津軽藩藩政文書の基礎的研究(一)」『文経論叢』一五―一・文学科篇、同「近世東北大名の自己認識―北奥
通史編2(近世1) (近世最後の大飢饉)

大飢饉 幕末に近い天保三年(一八三二)から、同九年(一八三八)まで断続的に続いた「天保の飢饉」は、北奥諸藩
資料編1(考古編) (〈注及び参考文献一覧…第3章〉)

4) 1972年 *96 江坂輝弥 「奥羽地方北部の古墳時代の文化」(北奥古代文化4) 1972年,120 福島県立博物館 『東北からの弥生文化』 1993年 *121 江坂輝弥 「青森・稲崎遺跡」(北奥,の古代文化)学生社 1975年 *122 坂詰秀一他 「シンポジウム北奥の古代文化の諸問題-土師器と,「大間貝塚第2次調査概報」(北海道考古学11) 1975年 *125 村越潔 「書評-平山久夫編・北奥,7) 1975年 *127 橘善光 「青森県大間町奥戸出土の擦文式土器」(北奥古代文化7) 1975
通史編1(古代・中世) (津軽曽我氏の滅亡)

これは南朝方立て直しの最後のチャンスであったが、結局は北朝方に破れ、北奥でも戦乱は終息していった。
通史編2(近世1) (有史以来最大級の大量死)

とりわけ北奥諸藩では大量の餓死者を出し、「明治維新前では戦乱や他の自然災害を含め、日本列島上における有史以来最大級,他の北奥諸藩も同様で、史料によって違いはあるが、盛岡藩は約四万余、仙台藩は一四万~一五万、八戸藩は約三万人
通史編1(古代・中世) (四 執権時頼の東国廻国をめぐって)

このような事態の発生は、日ごろより北奥の地に対して、人に倍する関心を持ち、その政治的、経済的関心はもとより,幕府による「禅密仏教」政策の北奥地域への遂行は、ひとり臨済禅への改宗だけではない。,古代において、桓武天皇-坂上田村麻呂-最澄の三者によって彩られてきた北奥の天台宗的仏教世界は、ここに装,この幕府による元寇を対象にした真言密教祈禱のほかに、北奥においては蝦夷反乱が幕閣の頭を悩ませていた。,かといって、北奥の全域がその図式化を受けた訳ではない。
通史編2(近世1) (中世の比内浅利氏)

当主は浅利則頼(のりより)で、十狐(とっこ)城を築き、一族を比内地方に配置し勢力を拡大した(大島正隆「北奥大名領成立過程,に立てることにより南比内を勢力下に収め、さらに永禄十三年(一五七〇)には湊(みなと)安東家を併合し、北奥羽
通史編1(古代・中世) (頼時の死)

戦局の打開を図る頼義は、翌年、奥六郡のさらに北の北奥の地にまで拠点をもっていた、かの安倍富忠に目をつけた
通史編1(古代・中世) (北の認識)

現在も使用される「東奥」「北奥」という用語とも関わって興味深い。
通史編1(古代・中世) (奥州安倍氏とのつながり)

安藤氏が安倍氏の子孫を自称したのは、北奥において、その支配者として強烈に意識され続けた安倍氏の系譜に連
通史編1(古代・中世) (奥羽地方の戦国時代)

奥羽地方の戦国時代 戦国時代の奥羽地方については、大きく南奥羽と北奥羽に分けてその動きをみることができる,一方、北奥羽は陸奥北部の南部氏と北出羽の安東氏の二大勢力がそれぞれ勢力を拡張していく。
通史編2(近世1) (弘前八幡宮の祈祷)

廻船廻米海上無難祈祷 35 五穀成就・風雨順時祈祷 163 その他(時疫退散祈祷等) 40 注) 長谷川成一「近世北奥大名,津軽弘前藩を指しており、対外危機が直接的に藩国家の危機認識につながっていることがわかる(長谷川成一「近世北奥大名
通史編2(近世1) (伏見滞在と派閥抗争)

この関ヶ原の戦いでの北奥羽の諸大名の行動も、この時期の彼らの対応をみれば当然予測されることであった。,北奥羽の大名らは、秀吉の朱印状によって「奥羽・日の本」と一括して把握されながら、取次を媒介としながらそれぞれまったく,伏見という「日本之つき合」の場は、北奥羽の大名にとって領国支配の維持を左右する重要な場であった。,津軽氏を含む北奥羽の大名らは、領国での居城移転や反対勢力の抹殺、支城への一族・重臣の配置等により、領国支配,しかし、この伏見での「日本之つき合」の中で北奥羽の大名らは保身を図ることはできなかった。
通史編2(近世1) (一 青森開港と初期海運)

一 青森開港と初期海運 慶長八年(一六〇三)、江戸幕府が成立した後、海運を通じた北奥地方と上方との経済的関係
通史編2(近世1) (宝暦の飢饉)

他の北奥諸藩でも同様で、盛岡藩では四万九四九五人の餓死者(「篤焉家訓」による。
通史編3(近世2) (住吉宮)

神職組織を変えるまでには至らなかった(篠村正雄「津軽藩における神職の官職受領について」長谷川成一編『北奥地域史
通史編2(近世1) (関東・奥惣無事令)

少なくとも北奥羽の地域については、現在のところ、惣無事令が伝達された形跡はみえないようである。,もちろん、北奥羽の地域が、これとまったく無関係にあったとは思われない。,次に、このころの北奥羽大名の様子についてみてゆくことにしよう。
通史編1(古代・中世) (系譜認識の変化)

系譜認識の変化 こうした中世以来のさまざまな伝承を統合し、それを北奥世界の自立意識に適合するように改変
通史編1(古代・中世) (青森県下の情勢)

このころには北奥の地は、出羽からも陸奥からも意識される存在であったのである。
通史編2(近世1) (湊合戦と惣無事令違反)

湊合戦と惣無事令違反 その後、北奥羽地域では、天正十七年(一五八九)二月初め、元湊城主湊茂季(みなとしげすえ,湊合戦は、北奥羽全域を巻き込んだものであった(なお、檜山城での戦いはなく、ここを本拠として、カトウド城
通史編1(古代・中世) (内乱期の蝦夷沙汰)

行使し、比内(ひない)郡・鹿角(かづの)郡などで所領を新しい知行人に渡したりしていることから、南部氏を北奥羽
通史編1(古代・中世) (新編 弘前市史 通史編1(古代・中世) 目次)

……………  75    二 大征夷時代の青森 …………………………………………  81    三 北奥地域,313 第三節 中世前期の宗教世界 …………………………………………  320    一 古代における北奥,の宗教世界 ……………………………  320    二 北奥宗教界を彩る中世的寺社 ………………………,……  339    三 北奥宗教界の中世的転回 …………………………………  347    四 執権時頼,384    一 「日の本将軍」安藤氏 ……………………………………  384    二 室町幕府体制と北奥羽
通史編2(近世1) (二 寛政改革の実施)

津軽藩寛政改革意見書の分析」『弘前大学国史研究』七九、浅倉有子「津軽藩士『在宅』政策について」長谷川成一編『北奥地域史
通史編1(古代・中世) (大河兼任の乱)

このように、着々と奥州方面の戦後処理が進んでいくが、しかしなお頼朝やその御家人の東北支配にしたがおうとしない北奥
通史編1(古代・中世) (境界の地外浜)

すでに触れたように、鎌倉時代の領域単位としての「浜」も北奥の地に特有のものであったから、「率土」の周辺
通史編1(古代・中世) (足利尊氏の離反)

尊氏は外浜・糠部郡の北条泰家(やすいえ)遺領を与えられ(史料六五五)、本格的に北奥地域の掌握に取り組んでいたのである
通史編1(古代・中世) (足利幕府の奥羽支配)

たとえば斯波家長は、南奥には斯波兼頼(かねより)と佐竹一族の中賀野義長(よしなが)を、北奥には津軽に安藤家季
通史編1(古代・中世) (後三年合戦)

延久北奥蝦夷合戦の功により鎮守府将軍になった清原真衡は、その後、独裁政治的な体制を志向していったため、
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