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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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通史編2(近世1)
(北奥羽の大名の動向)
北奥羽
の大名の動向 まず、南部氏についてみてゆくことにしよう。,これまで述べてきたように、奥羽に対する惣無事令の発令の時期、そして、それが
北奥羽
にまで伝達されたかどうかというところについては,しかし、少なくとも、
北奥羽
の大名と豊臣政権とのかかわりを考えたとき、右の二つの事実は動かしがたいものであるといえよう,本堂道親(ほんどうみちちか)も、豊臣勢の出羽出動に期待し、その情報を南部氏に問い合わせていたといい、
北奥羽
,ここでみたように、南部・安東(秋田)氏のような
北奥羽
の大名は、中央の状況に対して敏感に反応していることがうかがわれる /
北奥羽
の大名の動向
通史編2(近世1)
(北奥羽の領知確定)
北奥羽
の領知確定 天正十八年(一五九〇)七月の奥羽仕置は、奥羽の諸大名の領土を確定することが第一の目的,表4
北奥羽
の大名・小名の領知高 領 主 場 所 石 高 年 代 南部大膳大夫 南部内七郡 天正18 /
北奥羽
の領知確定
通史編1(古代・中世)
(応永初期の動乱)
安藤氏の「蝦夷沙汰」の対象がその地域での交易活動を含んでいたということからも、
北奥羽
の世界と無関係のものであったとは,考えにくく、この動乱の鎮圧は、
北奥羽
の南北朝の動乱を終わらせ、新たな時代の幕開けをもたらした事件であった
通史編4(近・現代1)
(城西小野球部全国大会出場)
全国少年野球大会の第二次予選は、これまで東北第二次予選として仙台で行われていたが、大正十四年に規則が改正されて
北奥羽
予選,抽選の結果この年の
北奥羽
予選は弘前市が大会場と決定し、城西校はそれに出場することになった。,十四年七月十二日
北奥羽
予選は弘前市南塘球場で開催され、出場チームは盛岡市城南小学校、青森市莨町小学校、
通史編1(古代・中世)
(奥羽地方の戦国時代)
奥羽地方の戦国時代 戦国時代の奥羽地方については、大きく南奥羽と
北奥羽
に分けてその動きをみることができる,一方、
北奥羽
は陸奥北部の南部氏と北出羽の安東氏の二大勢力がそれぞれ勢力を拡張していく。
通史編2(近世1)
(伏見滞在と派閥抗争)
この関ヶ原の戦いでの
北奥羽
の諸大名の行動も、この時期の彼らの対応をみれば当然予測されることであった。,
北奥羽
の大名らは、秀吉の朱印状によって「奥羽・日の本」と一括して把握されながら、取次を媒介としながらそれぞれまったく,伏見という「日本之つき合」の場は、
北奥羽
の大名にとって領国支配の維持を左右する重要な場であった。,津軽氏を含む
北奥羽
の大名らは、領国での居城移転や反対勢力の抹殺、支城への一族・重臣の配置等により、領国支配,しかし、この伏見での「日本之つき合」の中で
北奥羽
の大名らは保身を図ることはできなかった。
通史編2(近世1)
(関東・奥惣無事令)
少なくとも
北奥羽
の地域については、現在のところ、惣無事令が伝達された形跡はみえないようである。,もちろん、
北奥羽
の地域が、これとまったく無関係にあったとは思われない。,次に、このころの
北奥羽
大名の様子についてみてゆくことにしよう。
通史編1(古代・中世)
(「東夷征討」祈願)
陸奥守源頼俊が「大将軍」として「追討人(使)」に任命され、その頼俊の指揮下で、鎮守府将軍清原武則の孫真衡ら
北奥羽
,このように、この時期、九世紀以後も「蝦夷の地」のまま残った
北奥羽
地域(現在の青森県全域と秋田県の北部、
通史編2(近世1)
(湊合戦と惣無事令違反)
湊合戦と惣無事令違反 その後、
北奥羽
地域では、天正十七年(一五八九)二月初め、元湊城主湊茂季(みなとしげすえ,湊合戦は、
北奥羽
全域を巻き込んだものであった(なお、檜山城での戦いはなく、ここを本拠として、カトウド城
通史編1(古代・中世)
(内乱期の蝦夷沙汰)
行使し、比内(ひない)郡・鹿角(かづの)郡などで所領を新しい知行人に渡したりしていることから、南部氏を
北奥羽
通史編2(近世1)
(慶安二年の「弘前古御絵図」)
―若干の解説と復元―」『文化における「北」』一九八九年 弘前大学人文学部人文学科特定研究事務局、同「
北奥羽
近世都市,といった傾向をみることができる(長谷川前掲「
北奥羽
近世都市の諸問題―都市絵図を用いて―」)。
通史編1(古代・中世)
(応永十八年の衝突)
安藤氏は、夷島・
北奥羽
の沿岸地域を中心として交易の主導権を握り、北方の産物を畿内へ送り、畿内・西国の産物
通史編2(近世1)
(関ヶ原の戦いと奥羽の情勢)
わした家康の使者である中川忠重(なかがわただしげ)・津金胤久(つがねたねひさ)は、家康の命を受ける形で
北奥羽
,なつかまさいえ)の三奉行連署で、秋田実季と小野寺義道に豊臣氏に味方を求める書状が届き、小野寺氏はこの後、他の
北奥羽
諸氏,一方、先に領国に引き揚げた
北奥羽
の諸大名のうち、南部利直は、その領内和賀郡から稗貫(ひえぬき)郡において
通史編5(近・現代2)
(白取朝陽小学校長の奇禍)
白取朝陽小学校長の奇禍 これまで弘前市少年野球大会で最下位を低迷していた朝陽小学校野球部は、大正十五年初めて
北奥羽
代表
通史編5(近・現代2)
(国土総合開発計画の進展と青森県の位置)
なお、県内の地区として、東青、
北奥羽
、岩木川、下北の四地域に区分している。,ダム建設などを課題とする十和田・岩木川地域及び八戸の工業立地条件の整備などを課題とし、岩手県北をも含む
北奥羽
地域
通史編5(近・現代2)
(終戦直後の東奥義塾)
ると、その翌年には二連覇をなし、総合でも二位となったほか、同じく二十七年、初めて甲子園への切符をかけた
北奥羽
大会
通史編1(古代・中世)
(奥羽の特殊産物)
とくに蝦夷地に近い
北奥羽
においては、官物として強制された特殊な産物を確保するために、分業編成を強化しなければならなくなる
通史編2(近世1)
(中世の比内浅利氏)
に立てることにより南比内を勢力下に収め、さらに永禄十三年(一五七〇)には湊(みなと)安東家を併合し、
北奥羽
資料編1(古代・中世編)
(-例言-)
中世においては津軽地方関係史料に焦点を当てながら、関連の深い
北奥羽
・北海道、さらには北アジア関係史料をもその
資料編1(古代・中世編)
([十五世紀])
●この時期、『時衆過去帳』に
北奥羽
住人の名が多数記され、下国安藤氏や合浦・十三湊住人の名も見える。,一四三五)、応永年間「安部大乱」あり、続いてこの年、陸奥国和賀郡内に騒乱が起こり、南部遠江守長安ほか
北奥羽
,●康正二年(一四五六)、この年、秋田湊氏と南部氏が抗争し、
北奥羽
の動乱におよぶという。
通史編1(古代・中世)
(城館タイプの分類)
またこのタイプの城館跡が
北奥羽
地方ではもっとも多く存在している。
通史編3(近世2)
(神道)
このような藩の神職組織は、秋田・盛岡・松前の
北奥羽
諸藩および支藩津軽黒石藩にもみられない特異なものであった
通史編3(近世2)
(戦局の展開と兵員の不足化)
一方、
北奥羽
では同盟側に立った盛岡藩が隣の秋田藩に猛烈な勢いで攻め込んでいた。
通史編2(近世1)
(知行安堵)
表1
北奥羽
大名の領知高(万石以上) 史 料 名 南部氏 津軽氏 秋田氏 小野寺氏 戸沢氏
資料編2(近世編1)
(【解説】)
右に見られた華々しい領内開発の一方で、十七世紀後半から十八世紀に入ると、
北奥羽
地方は度重なる凶作や飢饉
通史編1(古代・中世)
(南部晴政の登場と一族間の対立)
この史料の記述から、幕府が「九戸五郎」を三戸南部氏当主と並ぶ
北奥羽
の有力者と見なしていたことが明らかとなる
通史編2(近世1)
(関ヶ原の戦いと津軽氏)
最上氏支援の動員体制にも、慶長六年の上杉景勝国替に際しての動員にも津軽氏は組み入れられておらず、当時の
北奥羽
通史編2(近世1)
(中世の北国海運)
これら
北奥羽
の諸湊の共通点は、大きくいうと、北国海運の諸船の寄港地として発展したことにある。
通史編2(近世1)
(伏見作事板の運上と太閤蔵入地)
この「隣郡之衆」による杉板運上は、以後慶長四年まで継続しているが、伏見作事板は、
北奥羽
の大名・小名の場合
通史編1(古代・中世)
(延久蝦夷合戦の実相)
また浪岡町の高屋敷館遺跡の発掘調査などによって明らかにされたように、北緯四〇度以北の
北奥羽
の地に広がっていた
資料編2(近世編1)
(【解説】)
このことは、南部信直をはじめとする
北奥羽
の大名が豊臣政権へ上洛を連絡することによって、服属を公式に表明
通史編1(古代・中世)
(新編 弘前市史 通史編1(古代・中世) 目次)
384 一 「日の本将軍」安藤氏 …………………………………… 384 二 室町幕府体制と
北奥羽
通史編2(近世1)
(新編弘前市史 通史編2(近世1) 目次)
……………… 80 二 浅利騒動への加担 …………………………………………… 92 三
北奥羽
通史編2(近世1)
(津軽家宛ての領知宛行状と領知高の変動)
秀吉当時の大名の領知高を記した各史料と、豊臣政権下で
北奥羽
の大名に課された役である秋田杉板の作事板搬出割
資料編3(近世編2)
(【解説】)
この八月から九月に
北奥羽
では熾烈な戦闘が展開していた。
資料編1(古代・中世編)
([十六世紀])
●天正十七年(一五八九)二月、秋田豊島城主湊通季(湊安東茂季の子)、湊城主安東実季を急襲、
北奥羽
をまきこむ
資料編1(古代・中世編)
(第一章 綱文・史料一覧)
………………………………… 後鑑 237 ●この時期、『時衆過去帳』に
北奥羽
住人の名が多数記され、下国安藤氏,一四三五)、応永年間「安部大乱」あり、続いてこの年、陸奥国和賀郡内に騒乱が起こり、南部遠江守長安ほか
北奥羽
,新羅之記録・福山秘府・八戸湊文書 251 ●康正二年(一四五六)、この年、秋田湊氏と南部氏が抗争し、
北奥羽
, 344 ●天正十七年(一五八九)二月、秋田豊島城主湊通季(湊安東茂季の子)、湊城主安東実季を急襲、
北奥羽
資料編2(近世編1)
(編年史料 (天正十七年~明暦二年))
●慶長五年(一六〇〇)七月七日、徳川家康、
北奥羽
の各大名に上杉景勝包囲の指令を出す。
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