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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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通史編1(古代・中世)
(津軽平賀郡への入部)
曽我氏が
北条氏
の地頭代として平賀郡に入部したことが確認できるのは、建保七年(一二一九)、曽我広忠の時のことである,これに関係するのが、曽我氏が得宗
北条氏
の被官となった時期の問題である。,相模国足柄上郡曽我郷(荘)を本領とする御家人曽我氏の一族は、
北条氏
と被官関係を結ぶことによって初めて津軽方面,曽我氏と
北条氏
との関係については、従来、仇討ちで有名な曽我兄弟が、祖父および父のことがもとで源頼朝を憚,代々知行」の地として早くから伊豆国安富郷国吉名に所領を有しているが(岩手大学新渡戸文書)、その伊豆国は
北条氏
通史編1(古代・中世)
(得宗被官の入部)
得宗被官の入部 さてこうした経緯のなかで、曽我氏や安藤氏・工藤氏・横溝氏、その他の得宗
北条氏
の被官(,御内人)たちが青森県域の各地に、地頭
北条氏
の地頭代として入部することとなった。 ,もっとも彼らの本拠は鎌倉付近にあって、
北条氏
にも近侍しなければならないから、現地でさらに所務代官を登用
通史編1(古代・中世)
(北条得宗領の形成)
北条得宗領の形成 さてこれら津軽地方の諸地域は、鎌倉時代を通じて最終的にすべて鎌倉
北条氏
の得宗領となった,得宗とは執権
北条氏
の嫡流(家督)のことで、二代執権義時の法名に由来する。
通史編1(古代・中世)
(顕家からの安堵)
たとえばここで安堵されたのは、
北条氏
時代以来の地頭代職であるが、地頭職ではなくて地頭代職を国宣によって,この権限は、かつて
北条氏
から足利尊氏が受け継ぎ、安藤高季に望んでいたものである。
通史編2(近世1)
(一 検地・人質徴収・城破(わ)り・刀狩り)
検地・人質徴収・城破(わ)り・刀狩り 天正十八年(一五九〇)三月一日、豊臣秀吉は京都をたち、小田原の
北条氏
攻略,さて、
北条氏
を攻略した秀吉は、天正十八年七月十七日、いよいよ奥羽仕置のために小田原から会津黒川に向かった
通史編1(古代・中世)
(後醍醐方につく)
に取り立てられたのであったが(それが鎌倉時代末期の「安藤の乱」の直接の原因であった)、最終的にはその
北条氏
通史編1(古代・中世)
(得宗北条貞時)
ちょうどこのころは、得宗の専制化によって
北条氏
内部での得宗の地位をめぐる覇権争いも激しく、貞時としては
通史編1(古代・中世)
(北畠親房の政権構想)
北畠親房の政権構想 後醍醐(ごだいご)天皇(写真152)は、正慶二年(元弘三年、一三三三)六月、
北条氏
滅亡,それは北畠氏が、かつてこの地を独占的に支配していた
北条氏
の権力構造をそのまま継承・発展させようとしていたことによるものとも
通史編1(古代・中世)
(安藤氏の所領)
いうまでもなくこれらの所職は得宗
北条氏
の被官としてのものであるが、その被官化の時期は不明である。,建保五年(一二一七)に北条義時が陸奥守となってから
北条氏
の奥州支配が強まってくるが、そうしたなかで、
北条氏
通史編2(近世1)
(関東・奥惣無事令)
その意味で、関東惣無事令は、
北条氏
のみならず、北関東の諸大名をも対象とするものであった。,図1.豊臣秀吉画像 関東惣無事令は、
北条氏
を中心とした北関東の諸大名間の紛争をその対象としていた,このころ、
北条氏
の北進と対峙(たいじ)していた北関東の諸大名は、豊臣政権による介入を望んでいたという政治的,そのころ三河国岡崎(おかざき)にいた家康のもとに届き、そして、家康が朝比奈泰勝(あさひなやすかつ)を
北条氏
資料編1(古代・中世編)
(一 銅鐘)
藤崎は、得宗領を管理した安藤氏の拠点であり、
北条氏
の所領維持政策と結び付く文化財と考えられる。,また、
北条氏
の得宗専制が強大化し、その面からも地方の御家人、御内人(みうちびと)対策が必要だった時代と
通史編1(古代・中世)
(時頼廻国伝説)
翌宝治元年(一二四七)の宝治合戦にて時頼が有力御家人三浦泰村を滅ぼしたことは、
北条氏
の所領を飛躍的に増大
通史編1(古代・中世)
(日の本将軍と鎮守府将軍)
その後、外浜・糠部郡を含む十三ヵ所の
北条氏
遺領を与えられ、尊氏はこれを利用して蝦夷沙汰にも着手している
通史編1(古代・中世)
(津軽曽我氏の出自)
すでに述べた和田合戦においては、当初去就に迷った曽我氏も、結局は
北条氏
の味方をしており、あるいはそれを
通史編1(古代・中世)
(足利幕府の奥羽支配)
足利幕府の奥羽支配 これより先、建武二年七月に、北条時行(ときゆき)を旗頭に立てる
北条氏
残党の反乱(
通史編1(古代・中世)
(津軽安藤氏)
を中心に北の世界で活躍してきており、そうした北の非農業世界を代表する一族として、鎌倉殿、あるいは執権
北条氏
通史編1(古代・中世)
(安藤氏の特殊な氏族結合)
こうした非農業民の代表者としての活躍を買われて鎌倉殿や
北条氏
に採用され、地頭代・蝦夷管領としての領主的
通史編1(古代・中世)
(複雑化する城館)
たとえば日本でも屈指の戦国大名といわれる、関東の小田原
北条氏
を例に挙げてみると、本城(根城)が直轄支城
通史編1(古代・中世)
(嫡流と庶流)
嫡流が「太郎」の系統から庶子家へ変わることは津軽安藤氏の場合にもみられることであるし、
北条氏
嫡流も「四郎
通史編2(近世1)
(秀吉の東国への停戦令)
その内容は、①下野佐野(さの)氏の家督を
北条氏
忠(うじただ)が継承することの承認、②徳川家康の赦免(当初
通史編1(古代・中世)
(所領の経営)
平賀郡は、地頭代曽我氏が、郡政所を通さず直接に
北条氏
に対して所当進納を請負う「別納請所」であるからである
資料編1(古代・中世編)
((1) 南北朝時代の「堀越楯」)
は、津軽曽我氏の嫡流で、鎌倉幕府滅亡後、いちはやく朝廷側につき、元弘三年(一三三三)から翌建武元年の
北条氏
与党反乱
資料編1(古代・中世編)
((1)南北朝時代の「石川楯」)
前年の元弘三年、津軽地方で
北条氏
与党の建武政府に対する反乱が勃発し、出羽国小鹿島・秋田方面の動きと合流
通史編2(近世1)
(津軽信英による後見政治と法令の整備)
両名は信義時代からの家老で、明暦三年八月五日付で幕府大目付
北条氏
長宛てに信政家督相続に際しての家老起請文
資料編1(古代・中世編)
(一 はじめに)
十三世紀、鎌倉の
北条氏
は、弘前に隣接する藤崎に壮大な禅寺「護国寺」を営み、津軽得宗領支配の拠点としたし
資料編1(古代・中世編)
(二 本章で取り上げる中世城館跡)
⑤ 乳井茶臼館跡(弘前市乳井)と周辺の城館群 ①の石川城(石川大仏ケ鼻城)は、南北朝時代初期、
北条氏
与党勢力
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