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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編1(古代・中世) (「津軽(郡)中名字」と浪岡北畠氏)

「津軽(郡)中名字」と浪岡北畠氏 津軽平野の地名や集落の歴史を探るときに、必ずといっていいほど引用される,文献に、浪岡北畠氏が天文十五年(一五四六)に編んだとされる「津軽(郡)中名字(つがる(ぐん)ちゅうなあざ,一六世紀半ばには、しばしば浪岡北畠氏の名が同時代史料にあらわれるようになる。,これらの官位は比較的高いものであり、任官コースは、「三国司家」と呼ばれた浪岡北畠氏と同族とされる伊勢国司北畠氏,浪岡北畠氏の官位獲得も、双方の思惑の上に成り立っていたものとみてよいであろう。   / 「津軽(郡)中名字」と浪岡北畠氏
通史編1(古代・中世) (浪岡城攻略)

北畠氏は、鎮守府将軍兼陸奥守北畠顕家の子顕成(あきなり)を祖として、文中三年(一三七四)ころに閉伊郡船越,山科家は浪岡北畠氏の朝廷取り次ぎ役的な立場にあったともみられる。,そして、具永・具運といった名前は浪岡北畠氏の当主であり、伊勢国司の北畠氏と同じ「具」を通字とし、伊勢北畠氏,浪岡北畠氏の官途は、従五位侍従から始まり、具永は従四位下左中将にまで昇進している。  ,浪岡北畠氏は、中世末から近世初期に書かれた諸記録からは、戦国期には「御所」と呼ばれており、その所領は現在
通史編1(古代・中世) (足利幕府の奥羽支配)

建武政権から離反した尊氏は、ここで北畠氏の奥州支配奪取を目指して、斯波家長(しばいえなが)を奥州総大将,足利氏は北畠氏の管轄下にある国府の官僚を引き抜いたり、北朝側の除目(じもく)で家長を陸奥守に任じて、現地,北畠氏の国府と同じように、鎌倉幕府以来、奥羽各地を掌握していた得宗御内人(とくそうみうちびと)クラスの,北畠氏側が陸奥守から鎮守府将軍へ、足利氏側が奥州総大将から陸奥守へと、それぞれ相手の制度的拠点を奪い合
通史編1(古代・中世) (安藤愛季の津軽侵略)

愛季の家臣であるにもかかわらず、「津軽之南部」を名乗って上洛させたのは、山科家と浪岡北畠氏との関係から,一方、安藤氏と浪岡北畠氏との関係では、たとえば、為信に攻められた顕村は愛季の娘を正室としていた。,愛季が為信による浪岡北畠氏の攻略後、津軽に侵攻したのは、愛季と浪岡北畠氏との間にこのような関係があったからである
資料編1(古代・中世編) (三 刀剣)

森宗は、浪岡北畠氏関係の刀工であり、年号が刻まれていることから、北畠氏の活動状況をしのぶことができる。
通史編1(古代・中世) (北畠親房の政権構想)

郡奉行所は国府の支庁として地方支配の要(かなめ)であり、郡地頭職さえもそのなかに包摂(ほうせつ)しようと北畠氏,それは北畠氏が、かつてこの地を独占的に支配していた北条氏の権力構造をそのまま継承・発展させようとしていたことによるものとも
通史編1(古代・中世) (日の本将軍と鎮守府将軍)

そして、鎮守府将軍という官職を背景とした行動であることから、陸奥守北畠氏もこの行動を非法と見なしてはいなかったという
通史編1(古代・中世) (一六世紀の湊)

『新羅之記録』によると、永禄三年(一五六〇)に勝山館から松前に移った蠣崎(かきざき)氏が浪岡御所北畠氏,このように一六世紀の陶磁器の動きをみると、主体となる交易港は十三湊ではなく、外浜を支配していた浪岡北畠氏
通史編1(古代・中世) (足利尊氏の離反)

しかし建武二年八月に、離反した尊氏が建武政府から鎮守府将軍の職を解かれると、北畠氏は後醍醐天皇に積極的
通史編1(古代・中世) (文献史料から見た戦国動乱の激化)

永禄五年(一五六二)三月には、波岡北畠氏の内部で内紛が生じ、川原御所具信が波岡御所具運(ともゆき)を殺害,一五七五)八月には平賀町の大光寺城攻撃(史料一〇〇〇・一〇〇一・一〇〇二)、天正六年(一五七八)には北畠氏
通史編5(近・現代2) (用の美と津軽民芸)

豪農の相馬家は館野越北畠氏出身の祖母が嫁入りに『資治通鑑』二九四巻を持ってきた。
通史編1(古代・中世) (湊安藤氏の誕生)

室町幕府の北方政策は、先にみたように下国・湊の両安藤氏をそれぞれ京都御扶持衆扱いの家柄、このほか、浪岡城の北畠氏
通史編1(古代・中世) (中世の農民)

この「津軽(郡)中名字」とは天文五年(一五三六)に、波岡北畠氏が記録したとされる津軽の地名集で、村名の
資料編1(古代・中世編) ([十四世紀])

●文中三年(一三七四・北応安七)、このころ、浪岡御所北畠氏(顕家子孫という)、稗貫・閉伊船越を経て津軽,親能は波岡北畠氏系という。,波岡御所北畠氏については、顕家子孫、文中三年入部説もあり。
通史編1(自然・原始) (江戸時代~明治十七年(一八八四))

この記事は、浪岡北畠氏の子孫といわれる山崎立朴(やまざきりゅうぼく)(?
資料編1(古代・中世編) (第二節 五輪塔)

これらの五輪塔の分布を視点を変えて見直すと、乳井福王寺の勢力や藤崎・十三の安藤氏、浪岡御所北畠氏、浅瀬石城
通史編1(古代・中世) (二 北奥宗教界を彩る中世的寺社)

浄土宗 貞昌寺 建仁年間 (一二〇一~〇四) 金光上人 中野 (浪岡町) 新寺町 当初、浪岡城主・北畠氏,京徳寺 同右 長勝寺 享禄三(一五三〇) 北畠具永 松澗梵栄 五本松 (浪岡町) 同右 北畠氏の滅亡後
通史編4(近・現代1) (巡幸の日誌と弘前)

沿道各地の地方の歴史や沿革に特別な関心を示し、青森から弘前に至る間についてみると、浪岡のところでは、北畠氏
通史編1(古代・中世) (三戸南部氏による領国支配の強化)

しかし、南部盛信が「大浦ノ屋形」と呼ばれるように強い勢力を誇り、また南部政行も大浦氏や浪岡御所北畠氏などとともに
通史編1(古代・中世) (四 中世津軽の宗教世界の特色)

既述の安藤氏の津軽山王坊や修験的先達をはじめ、北畠氏の京徳寺、武田氏の宗徳寺、津軽氏の藤先寺、大浦氏の
通史編1(古代・中世) (一 中世寺院の建立)

『津軽一統志』貞昌寺  そのなかにあって、唯一、特異なのが、中野(浪岡町)に造営され、浪岡城主北畠氏
資料編1(古代・中世編) ([十六世紀])

●天文十五年(一五四六)、浪岡御所北畠氏、「津軽郡中名字」を編纂するという。
資料編1(古代・中世編) (第一章 綱文・史料一覧)

……………………… 白河証古文書 221 ●文中三年(一三七四・北応安七)、このころ、浪岡御所北畠氏(,親能は波岡北畠氏系という。,波岡御所北畠氏については、顕家子孫、文中三年入部説もあり。,… 新羅之記録・松前家記・八戸湊文書 289 ●天文十五年(一五四六)、浪岡御所北畠氏、「津軽郡中名字
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