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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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通史編1(古代・中世)
(北畠顕家の死)
北畠顕家
の死 この年八月、陸奥国伊達郡の自然の要害霊山(りょうぜん)にあった
北畠顕家
は、ようやく足利郡,明けて暦応元年(延元三年、一三三八)五月には、
北畠顕家
・南部師行が和泉国石津で、また閏七月には新田義貞 /
北畠顕家
の死
通史編1(古代・中世)
(内乱期の蝦夷沙汰)
内乱期の蝦夷沙汰 建武二年(一三三五)三月二十三日、陸奥守
北畠顕家
は南部師行(もろゆき)に津軽を巡見,一方、この年の閏十月二十九日には安藤高季にも
北畠顕家
より所領が安堵されているが(史料六七一)、このとき
資料編1(古代・中世編)
((1)南北朝時代の「石川楯」)
元弘四年正月十日曽我光高代沙弥道為軍忠状案、建武元年六月日曽我光高申状・曽我光高軍忠状、同年六月十二日
北畠顕家
御教書,石川楯は五月に陥落したらしく、曽我光高軍忠状に「五月廿一日石河合戦事、分取頭 ……」、建武元年六月十二日
北畠顕家
御教書,安達高景を主将とする北条勢は、奥地の持寄(もちよせ)城(中津軽郡相馬村)に立てこもって抵抗を続け、国司
北畠顕家
通史編1(古代・中世)
(足利尊氏の離反)
が建武政府から鎮守府将軍の職を解かれると、北畠氏は後醍醐天皇に積極的に働きかけて、同年十一月、陸奥守
北畠顕家
,北を征する者の強みは、この直後の尊氏征討を目指す
北畠顕家
率いる奥州軍の見事な長征の成果によって知られるであろう
通史編1(古代・中世)
(南北朝の動乱と曽我氏)
この直後、長征によって
北畠顕家
(写真154)が京都を奪回し、また摂津国では楠木正成(くすのきまさしげ),写真154
北畠顕家
同年五月には安藤家季の楯が南朝方に攻められたようであるが、貞光は叔父光俊
通史編1(古代・中世)
(蝦夷沙汰職の行方)
しかし尊氏が建武新政府から離反すると、鎮守府将軍の職は
北畠顕家
に移り、建武政権側に蝦夷沙汰を掌握する法的根拠
通史編1(古代・中世)
(安藤高季の活躍)
写真156
北畠顕家
御教書 たとえば安藤五郎二郎家季は、足利尊氏が惣地頭となった外浜について、,そこで
北畠顕家
は、やはり外浜に拠点をもっていた安藤一族の外浜明師祐季(そとのはまめいしすけすえ)の懐柔
通史編1(古代・中世)
(顕家からの安堵)
蝦夷沙汰は、当時、足利尊氏にかわる鎮守府将軍に予定されていた
北畠顕家
直轄という意識もあったのであろう。
通史編1(古代・中世)
(検断奉行への抜擢)
その家長が
北畠顕家
との戦闘で死んだのちに、奥州総大将として多賀府に着任した石塔義房は、家季に替えて五郎太郎高季改
通史編1(古代・中世)
(鎌倉幕府滅亡と津軽曽我氏)
後醍醐天皇は、同八月、
北畠顕家
を陸奥守に任じ、ここから建武政府の陸奥支配が本格化した。
通史編1(古代・中世)
(討幕の論功行賞)
北畠顕家
の扱いが、南部氏に厚く曽我氏や安藤氏に薄かったのは事実である。
通史編1(古代・中世)
(北畠親房の政権構想)
天皇(写真152)は、正慶二年(元弘三年、一三三三)六月、北条氏滅亡を受けて京都に帰ると、同年八月に
北畠顕家
通史編1(古代・中世)
(浪岡城攻略)
北畠氏は、鎮守府将軍兼陸奥守
北畠顕家
の子顕成(あきなり)を祖として、文中三年(一三七四)ころに閉伊郡船越
通史編1(古代・中世)
(津軽曽我氏の所領・岩楯村)
しかし陸奥守
北畠顕家
によって安堵されたのが確認できるのは、岩楯村については熊野堂燈油料田(史料六五九)
通史編1(古代・中世)
(曽我貞光の奮戦)
後を継いだのは、かつて
北畠顕家
とともに奥州にあった後村上(ごむらかみ)天皇(義良親王)である。
資料編1(古代・中世編)
([十四世紀])
六月十二日、
北畠顕家
、津軽・安藤氏らの動向について指示。,●建武元年(一三三四)八月、
北畠顕家
、津軽に向かう。 ●このころ、安藤祐季、津軽静謐を述べる。,●建武二年(一三三五)三月二十三日、
北畠顕家
、南部師行に津軽を巡検させる。
通史編2(近世1)
(本村と新田)
建武元年(一三三四)三月十二日の
北畠顕家
袖判下文は、安藤高季を「上柏木郷」に補任したものであるが(資料古代
通史編1(古代・中世)
(三 中世寺社の存在形態)
任此状可致沙汰之状如件、 ((
北畠顕家
)花押) 建武二年正月廿七日 津軽平賀郡岩楯郷給主曾我太郎光貞謹言上
資料編1(古代・中世編)
(第一章 綱文・史料一覧)
六月十二日、
北畠顕家
、津軽・安藤氏らの動向について指示。,………………………… 南部家文書 183 ●建武元年(一三三四)八月、
北畠顕家
、津軽に向かう。,………………………… 南部家文書 196 ●建武二年(一三三五)三月二十三日、
北畠顕家
、南部師行に津軽
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