• 機関トップ
  • 資料グループ
  • テキスト一覧
  • 年表一覧
  • キーワード一覧

弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

  1. トップページ
  2. 詳細検索

詳細検索


検索条件を追加
閉じる
検索結果 : 18件
辞書ファセット
/ 1ページ
通史編5(近・現代2) (北門書道会の結成)

北門書道会の結成 昭和六年(一九三一)九月、葛西真鶴(かさいしんかく)他数人が、四月に県立弘前中学校書道教師,ふじもとぶざん)、横山北華の七人が参集し、さらに今泉虚洞、宮川逸仙、宮川松子、荒関雲鶴の四人を加え、「北門書道会,そして会報『北門書道』を月刊で発行、翌昭和八年には『少年北門書道』を発行した。,この『少年北門書道』の会員は、昭和十一年には七千余名、支部も県外の樺太、北海道から三重、大阪まで九〇支部,写真313 石倉守拙と北門書道会報第1号 / 北門書道会の結成
通史編5(近・現代2) (北門を継ぐ)

北門を継ぐ 昭和三十七年、石倉守拙が書道では最初の県文化賞を受けた。,なお、七十余年の北門書道会の歴史に忘れてならないのは、虚洞、達郎、良郎と三代にわたって主幹として会の生成発展 / 北門を継ぐ
通史編3(近世2) (城門番所の警備)

廃藩当時には、追手門(現存)・西坂門、二の丸の内南門(現存)・内東門(現存)・内北門(賀田門)、西の郭,の埋門(うずみもん)、内北の郭の東門、三の丸の外東門(現存)、本丸の武者門・南門・北門、四の郭の外北門
資料編3(近世編2) (3 現存する天守・城門等の考察)

丸追手門  脇戸付き櫓門   銅瓦葺    三の丸東門       櫓門   銅瓦葺    北の郭北門,これら現存する五棟の城門は、すべて築城当時のものとみられており、北ノ郭北門を除く四棟は、ほとんど同じ形式,北門は、大光寺城の追手門を移築したものと伝えており、他の四棟より規模も大きく、また、銃眼がないなど、形式,また、現在はすべて銅瓦葺であるが、当初はいずれも本瓦葺であり、北門のみ栩葺であったことが知られている。,立面図・平面図 (『重要文化財弘前城三の丸東門修理工事報告書』より転載) 図15 北の郭北門
通史編2(近世1) (信枚の築城)

大光寺城や大浦城の門も移築され、外北門(通称亀甲門)、内北門(通称賀田(よした)門、現存しない)になった
通史編3(近世2) (松前方面の攻防と青森)

その書状では、彼らの行動は、蝦夷地が「皇国北門枢要之地」であるから、政府に追われて居場所を失い、降伏するべき,また、列藩同盟諸藩に対して、「日本北門」のために尽力することを望むということが述べられていた。,弘前藩は青森港の警備を一手に任されていたが、総攻撃の際、江差への出兵に自藩が除かれては「北門之御任」が
通史編2(近世1) (民次郎一揆)

(きづくりしんでん)(現西津軽郡木造町・同郡車力村・同郡森田村)の四組、岩木川左岸の百姓たちが弘前城北門,図159.民次郎記念碑 図160.弘前城北の郭北門(亀甲門)  さて、一揆の規模であるが
通史編3(近世2) (町家の遺構)

町家の遺構 石場家(いしばけ)住宅(重文)は、外堀を隔てて弘前城の北門(きたもん)(亀甲門)の真向かいにある
通史編5(近・現代2) (協力機関および協力者一覧(機関・個人順、五十音順))

学校法人弘前東高等学校 (弘前市)          弘前大学 工学院大学図書館 (東京都新宿区)          北門書道会
通史編3(近世2) (瓦の利用)

現追手門)と東門、四の丸北門(現北門〈亀甲門〉)はそれぞれ瓦葺きであったが、葺き初めの年代は異なる。,その後、三の丸南門、次いで東門と続き、四の丸北門は元禄十四年(一七〇一)に認められる。
通史編2(近世1) (城下高岡の形成)

は東門(三の丸東門)・南門(三の丸追手門)および三の丸と四の郭(北の郭)の間にある和徳堰の南にあった北門,四の郭も侍町で四九軒の侍屋敷があり、北門(北の郭北門、亀甲門)があった。
通史編5(近・現代2) (戦争を挟んで)

しかし、昭和十九年、戦局いよいよ急、用紙不足いよいよ大、一、二月号合併号として発行したが『北門書道』は
通史編3(近世2) ((三)住居)

――侍町(現在府町(ざいふちょう)) がみられ、郭内の二の丸・三の丸に重臣の邸宅があり、正門である北門
通史編3(近世2) (強訴)

ふじしろ)・高杉(たかすぎ)・広須(ひろす)組などの弘前および西・北津軽地方の農民約二〇〇〇人が、弘前城外北門
通史編5(近・現代2) (掲載写真の典拠・所蔵一覧)

写真308 弘前市立博物館蔵 写真309 弘前市立堀越公民館蔵 写真313 『書のみち50年-北門書道会,の記録-』北門書道会 1981年 写真315 稲葉克夫氏提供
通史編5(近・現代2) (昭和恐慌の勃発と商工業)

雖も、民衆群を為し、隣近貧なりと雖も衣を脱して猶ほ慰霊の祭に努む、嗚呼若し万一斯る場面と窮状とが在満北門健児
通史編2(近世1) (家中屋敷の郭外移転)

天和三年(一六八三)三月、城内四の郭(北の郭)、北門(亀甲門)付近の棟方作左衛門邸など七つの屋敷が御用地
通史編3(近世2) (三 八幡宮の祭礼と山車の運行)

天和二年の行列は、辰(たつ)の上刻(午前七時ころ)に八幡宮を出て、田茂木・亀甲町より外北門(亀甲門)から
/ 1ページ
  • 資料グループ
  • テキスト一覧
  • 年表一覧
  • キーワード一覧
  • 機関トップ
  • 利用規定
  • 利用ガイド
  • サイトマップ
  • ADEACトップ
X(旧Twitter) facebook line urlcopy
トップへ
ページURLがコピーされました