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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編4(近・現代1) (大区小区制の成立)

それは郡を大区に、戸籍区をそのまま小区に変えて、大区に区長を、小区に戸長・副戸長を置き、「大凡百戸に一人,に「大区小区制」に移行できた。,現弘前市は、津軽郡第三大区と津軽郡第二大区一〇小区の一部で構成されている。,写真5 第三大区初代区長 大道寺繁禎 津軽郡第三大区 一小区 弘前町(八九ヵ町) 本町 上白銀丁,森山村 三ッ目内村 居土村  弘前町で、戸籍区第二〇区の町名と大区小区制の第三大区一小区の町名には大 / 大区小区制の成立
通史編4(近・現代1) (学区・学校聯合区の改正)

学区・学校聯合区の改正 明治十四年(一八八一)十月、県はこれまでの「学校聯合区」(九年決定)を廃止して,「学区割」に改めた。,隣接する学区が聯合して一校を設置することをやめ、一学区一校設置の「学区割」を実施した。,そのため県内には、一校一教室程度の小規模校が多数出現し、学区民が少ないため地区によっては学校経費の割賦,それを緩和するために出されたのが同十七年の学区及びその学聯区の指示である。 / 学区・学校聯合区の改正
通史編5(近・現代2) (地区計画)

地区計画 都市計画区域内の小さな単位の地区において、それぞれの地区が持つ特性に応じた都市環境を確保し,表58 地区計画決定状況 地区計画区域 当初決定 面積 用途地域 備考 茂森新町地区 昭和59年5月10,これらの計画を大別すれば、茂森新町地区、千年地区、浜の町地区、南大町地区、小比内地区、富士見台地区の六地区,が住居系、弘前駅前・上土手町地区、下土手町地区が商業系、藤代工業団地地区、オフィスアルカディア地区が工業,表59 地区計画の概要 地区計画区域 地区の概要 決定の概要 地区施設 建築物等に関する事項 茂森新町地区 / 地区計画
通史編5(近・現代2) (市街化区域と市街化調整区域)

市街化区域と市街化調整区域 都市計画を行うために、市は市街化区域と市街化調整区域の線引きを行う。,区域であり、土地区画整理事業その他の市街化を図る区域であり、土地区画整理事業その他の市街地開発事業や公共施設,また、市街化調整区域は、「市街化を抑制する区域であり、原則として開発行為等は規制されている」(同前)区域,変更のたびに市街化区域が増大し、市街化調整区域が減少している。,表56 市街化区域、市街化調整区域の変遷(弘前市) 変遷 市街化区域 市街化調整区域 当初決定 1,976ha / 市街化区域と市街化調整区域
通史編4(近・現代1) (学区の改変)

学区の改変 七年四月亀甲小学の設置によって、これまで大ざっぱに土手町を中心に弘前を南北に分けていた白銀小学,と、和徳小学の学区が変更された。  ,白銀小学学区は、鷹匠町、江戸町(現中新町地区)、西大工町、駒越町、馬屋町、茂森町、片堀町(旧古堀町)、,相良町、本町、元大工町、塩分町、元長町、森町、覚仙町、鍛冶町、新鍛冶町、南北川端町などとなり、和徳小学学区は,新設の亀甲小学学区は、亀甲町、田茂木町、田町、小人町、若党町、春日町、禰宜町、馬喰町、長坂町、笹森町、 / 学区の改変
通史編4(近・現代1) (戸籍法と戸籍区)

弘前での戸籍編成作業は明治五年三月に小一区から小六区までの戸籍区割りが終わっている。,;8 野田大参事 免官    6 (1873)  3 大区・小区制が敷かれる ・,県内を10大区、72小区に分ける ・弘前は第3大区となる ・1大区に区長 1小区に正副戸長を置く   ,また、同年十月十日、大蔵省は布達一四六号で、府県の下に大区、その下に小区を置いて、大区に区長、小区に副区長,かくて、大区小区制という、明治初期の旧体制打破を意図する政策が実施された。 / 戸籍法と戸籍区
通史編4(近・現代1) (連隊区の廃止)

連隊区の廃止 青森県には第五・第三一・第五二の三連隊があり、青森と弘前に管内の徴兵事務を行う連隊区があった,だが軍縮政策によって五二連隊が解散した同年、弘前連隊区が廃止され青森連隊区に統合された。,この動きは全国的なものであり、軍縮政策の結果、一県一連隊区制となり、行政機構的にも事務的な便宜をもつことになった / 連隊区の廃止
通史編4(近・現代1) (弘前市学区会の廃止)

弘前市学区会の廃止 明治三十五年(一九〇二)四月、これまでの学区会が廃止された。,弘前市の学区は第一区から第五区まであって、学区は小学校を維持するために学区会を組織し、一三人から一五人,学区会のことを通常「区会」、学区会議員を「区会議員」と称した。  ,学区が制定されたのは明治二十五年、それから一〇年間というもの、小学校の経営維持は学区民から選ばれた学区会,各学区とも区会を開いて協議したが、第一区(朝陽)、第三区(和徳)、第五区(城西)は廃止賛成、第二区(大成 / 弘前市学区会の廃止
通史編5(近・現代2) (土地区画整理事業)

土地区画整理事業 都市計画の中で、市街地開発事業も重要な施策である。,このうち、土地区画整理事業は、施行区域内の土地の交換分合により、道路、公園、河川などの公共施設の総合的,弘前市においては、昭和四十年代初頭から、組合を事業主体として、土地区画整理事業が実施されている。,面積が大きい事業は城東地区に多い。,表62 土地区画整理事業 (単位:ha,人)   地区名 事業主体 事業年度 施行面積 計画人口 整備済 / 土地区画整理事業
通史編5(近・現代2) (弘前駅前地区整備事業)

弘前駅前地区整備事業 土地区画整理事業の代表例として弘前駅前地区を見れば、その目的は、駅前広場と駅前通,また土手町に連なる第二の都心部としてふさわしい街づくりが必要であるというものである(弘前市『弘前駅前地区土地区画整理事業事業計画書,弘前駅前地区の整備計画は、昭和四十三年(一九六八)に駅前南地区の土地区画整理事業として開始され、当初の,この計画は昭和五十四年開始の弘前駅前地区土地区画整理事業に引き継がれた。  ,弘前駅前地区土地区画整理事業は、昭和五十四年の設計の方針としては、まず、土地利用計画は、都市計画により / 弘前駅前地区整備事業
通史編4(近・現代1) (学区取締(とりしまり))

学区取締(とりしまり) 学制第八章に学区取締の規定がある。,「一中区内学区取締十名乃至十二三名ヲ置キ、一名ニ小学区二十或(あるい)ハ三十ヲ分チ持タシムベシ、此(この,)学区取締ハ専ラ区内人民ヲ勧誘シテ務テ学区ニ就カシメ、且(かつ)学校ヲ設立シ或ハ学校ヲ保護スベキ事或ハ,学区取締は弘前、中津軽郡、西津軽郡を包含する第三中学区内に十人ないし十二、三人あって、弘前の最初の学区取締,学区取締は区役所(注、大区小区制の役所)の吏員で、自宅で執務したが、明治八年から区役所に常勤するようになった / 学区取締(とりしまり)
通史編4(近・現代1) (郡区町村編制法への移行)

郡区町村編制法への移行 新政府の打ち出した旧習打破、文明開化の諸政策は、単に旧来の厳しい身分的規制や,しかし、明治十一年(一八七八)七月二十二日に郡区町村編制法が公布された際に、政府は次のように拙速な開化政策,そして、大区小区制を廃して、郡、町村が行政単位として復活し、府県、町村に対しそれぞれ住民の参加する議会,写真6 中津軽郡初代郡長 笹森儀助  この郡区町村編制法によって、第三大区一小区から六小区は中津軽郡,、第二大区一小区から一〇小区及び五大区一小区は南津軽郡となった。 / 郡区町村編制法への移行
通史編1(古代・中世) (特殊な行政区画)

特殊な行政区画 なお津軽半島部は、陸奥湾側が外浜(そとのはま)、日本海側が西浜(にしのはま)というように,こうした「浜」とか「島」という特殊な行政区画が設けられたのは、そこを普通に「郡」には編成できない何らかの / 特殊な行政区画
通史編5(近・現代2) (和徳地区小学校統合問題)

和徳地区小学校統合問題 弘前市に合併前の旧中津軽郡和徳村には、明誠(撫牛子)、静修(大久保)、養正(,三校統合は市村合併以前の和徳村議会で決定済みであり、すでに用地も買収されていたが、用地が明誠地区に片寄,りすぎているという理由から、静修、養正地区から猛反対を受け、統合校舎建築は挫折していた。,市教委は最初から難問を抱えた地区に、学校統合第一号の校舎を建設しようとしていたわけである。  ,市教委は三地区の世論聴取を行ったが、明誠地区を除いて静修も養正も三校統合には賛成であったものの、予定の / 和徳地区小学校統合問題
通史編5(近・現代2) (中弘地区の合併推移)

中弘地区の合併推移 町村合併促進法の施行を受けて、県は県下一四ヵ所に自治相談所を設けた。,弘前市と中津軽郡一六村の意向とは別に、県ではむしろ中弘地区は中規模合併の方向が望ましいという見通しを立,中弘地区は①弘前市、清水村、和徳村、豊田村、堀越村、千年村、②大浦村、岩木村、駒越村、③藤代村、高杉村,中弘地区の合併問題は県との構想の違いもあって、なかなか進まなかった。,、中弘地区一帯の合併計画は大幅な修正となった。 / 中弘地区の合併推移
通史編1(自然・原始) (平野南縁の地形区分)

平野南縁の地形区分 図20は平野南縁における水系と流路距離二キロメートル未満の小河川を省略した等高線,この地域の地形区分を上位から花巻面、黒石面、平賀面、常盤面、そして田舎館面の五面に区分し、各面の地形的 / 平野南縁の地形区分
資料編1(古代・中世編) (五 東目屋地区の中世城館の特徴)

五 東目屋地区の中世城館の特徴 一、二でも述べたように、東目屋地区は弘前市内でも特に中世城館跡が密集,図43 坂本館跡の現状写真と模式図(新館地区) 図44 大浦城周辺及び東目屋地区の城館分布, 坂本館の存在は、こうした東目屋地区の歴史にある時点で一つの変動が生じたことを暗示している。,そうした問題も含め、東目屋地区全体の城館の詳細については、今後の研究課題であろう。 / 五 東目屋地区の中世城館の特徴
資料編1(古代・中世編) (一 東目屋地区の中世城館と領主の歴史)

一 東目屋地区の中世城館と領主の歴史 弘前市の飛地となっている東目屋地区には、規模は小さいが数多くの,ここではその中から、①国吉館跡、②坂本館跡の二つを取り上げ、さらに東目屋地区全体の城館相互のネットワーク,東目屋地区の城館について考える際、注目されるのが「十二人屋形城衆」の伝承である。,このうち、①②は東目屋地区、③④は西目屋地区の大字名を名字としており、⑫の関惣右衛門は「城代」として、,第三節大浦城跡の項で述べたように、岩木山麓から目屋地区にかけての地域は、西浜と津軽平野を結ぶ戦略的要地 / 一 東目屋地区の中世城館と領主の歴史
通史編1(自然・原始) (市街地の地形区分)

市街地の地形区分 図27は、弘前市街地および岩木川以北の水系と流路距離一キロメートル未満の小河川を省略,開析扇状地の北縁を大きく湾曲する形で浸食し、比高一五~三〇メートルもある急崖で谷底平野に位置する城西地区と / 市街地の地形区分
資料編1(古代・中世編) (五 乳井地区の城館群と宗教的領域)

五 乳井地区の城館群と宗教的領域 二で述べたように乳井茶臼館を築いたのは、戦国時代に乳井を本拠とした,乳井地区全体の遺跡を記した図51から分かるように、茶臼館・古館・乳井城は、いずれも聖地である乳井神社、,図51 乳井地区の中世城館と寺社・集落の分布  興味深いのは、近世の「乳井通り」=中世の奥大道が,乳井地区の「寺内」は近世の呼称であるが、これまで見てきたようなこの地域の街道の配置、寺社の分布、城館の,そして、天正七年(一五七九)、津軽に侵攻した檜山勢が乳井地区を占領し、この地を基地として駐屯したのも、 / 五 乳井地区の城館群と宗教的領域
資料編1(考古編) (1.時代区分と弥生土器の編年)

1.時代区分と弥生土器の編年 我々は、この時代の変遷を理解しやすくするために、前・中・後期の3期分類,先のⅠ期初頭には北九州において弥生文化が成立し、その最初の土器として板付(いたつけ)Ⅰ式(福岡市博多区板付遺跡出土 / 1.時代区分と弥生土器の編年
通史編4(近・現代1) (城西小学校創立)

城西小学校創立 下町学聯区が袋町に設置した自彊小学は十四年四月十日焼失した。,表19 中津軽郡各学区及び其聯合区域等(抜粋)    中津軽郡      表中教授等科欄内中ハ中等科初,ハ初等ノ略符ニシテ町村名欄内○ハ学校所在ノ地トス 学聯区名 学区名 校数 学区内町村名 学校名 等科,土手町学区 和徳学区 亀甲学区 下町学区以上五学区内ニ高等小学科ヲ教授スル一校ヲ置ク 第一学聯区 富田学区,二 ○富田、紙漉町 富田 中初 富田分校 中初 小沢学区 一 ○小沢、坂本 小沢 初等 悪戸学区 一
通史編4(近・現代1) (学制の実施)

それによると、全国を八大学区に分け、一大学区を三二の中学区に分け、さらに一中学区を二一〇の小学区に分け,学制実施に当たって、青森県は第七大学区に属し、県内は左の四中学区に分かれていた。,第一四中学区 青森、東津軽郡、南津軽郡、北津軽郡 第一五中学区 弘前、中津軽郡、西津軽郡 第一六中学区,第一四中学区 青森(現長島小学校)、平内、黒石、木造、十三、五所川原、板柳 第一五中学区 白銀(現朝陽小学校,)、和徳、鰺ヶ沢、深浦 第一六中学区 七戸、野辺地、三本木、田名部、大畑、大間、川内 第一七中学区
通史編4(近・現代1) (大成小学校創設)

大成小学校創設 十七年(一八八四)五月布達の学区改正により、これまで土手町、松森町、鍛冶町の三学区は,廃され、それらが包含されて新しく「土手町学区(第二学区)」となった。,したがって土手町学区は学区内に蓬莱、知類、敬業の三小学校を有することになった。,一学区に一小学校が例で、三校では多すぎ、経費もかかるので、三校合併案が地域住民から持ち上がった。,三校合併案は十七年十一月学区町村聯合会(「学区町村聯合会」とは学聯区ではあるが、三校とも隣接村落〔清水村
通史編4(近・現代1) (神官僧侶会議での県の方針の伝達)

を開かん事、是民間之急務というへきなり、各区戸長始村吏等よろしく注意いたし、尚実地に就き、各区村々有志之者,また、弘前を含む第三大区の証券印紙売捌人は次のように決定された。,一小区 葛西宇八郎 藤岡幸太郎 今村要太郎 竹内半左衛門  二小区 溝江万蔵 三小区 一戸久之亟  ,四小区 神市太郎  五小区 東海吉兵衛  六小区 藤田豊三郎 七小区 三浦能定  八小区 久保田唯男,このようにして、新しい大区小区制下の行政が出発した。
通史編4(近・現代1) (時敏小学校の創設)

時敏小学校の創設 大成小学校の聯合創設に刺激され、第四学区(亀甲学区)が、学区内にある亀甲、盈進の二小学校,第四学区は十七年の学区改正以前には亀甲学区(笹森町、長坂町、蔵主町、大浦町、田町、田茂木町、禰宜町、若党町,、小人町、春日町、馬喰町、亀甲町の一二ヵ町)と盈進学区(親方町、百石町、百石町小路、一番町、東長町、元寺町,それが十七年の改正により、一つの学区となった。,一学区に二校を置いて学資金を二分するよりも、一校を設置して資金を集中し、学校設備の充実を図った方がよいと
通史編4(近・現代1) (市制施行と小学校)

写真101 和徳小学校校舎 (明治22年新築の四層楼)  また、従来の学区は、校名を番号に換え,、弘前市第一学区(朝陽)、弘前市第二学区(大成)、弘前市第三学区(和徳)、弘前市第四学区(時敏)、弘前市第五学区,(城西)と称されることになり、学校維持権は引き続き学区会が持つことになった。  ,したがって、経費を学区会に頼らざるを得ず、学区会は学区住民に割賦して学校を維持するが、そのため市当局より,学区会の意向が教育を左右した。
通史編5(近・現代2) (都市計画の開始)

これは、町村合併の結果としての行政区画の変更を組み込んだ見直しであり、都市計画区域は、弘前市行政区域の,一部と岩木町行政区域の一部になった。,昭和四十六年(一九七一)には、弘前広域都市計画区域が設定された。,新しい区域は、弘前市、岩木町の行政区域の一部のほか、藤崎町、尾上町の行政区域の全部及び大鰐町、平賀町、,田舎館村の行政区域の一部が加えられた。
通史編5(近・現代2) (文京小学校の創設)

同校の前身は松原小学校で、学区は中野、三嶽(みたけ)、松原地区一帯で、同地区は自由学区として、児童は第二大成,自由学区の児童数は六〇四人に上り、松原小学校PTAは三十六年八月、自由学区解消を市教委に陳情していた。,市教委も事情を了承し、三十九年四月一日をもって自由学区を解消して、中野の市立商業高校跡地に一校を新設することを,同校はその後逐年校舎を建築したが、学区一帯が住宅地として急激に発展したため、児童数も急増し、その都度校舎
通史編5(近・現代2) (北小学校創立開校)

同校学区は弘前市の北部に位置し、岩賀地区、清野袋地区、向外瀬地区、それに新興住宅街の宮園地区、青山地区,、神田地区の一部からなっている。,昭和五十二年宮園団地の造成事業から始まり、北地区町会全体で二五〇〇戸を超える市内有数の住宅団地になっていて
通史編4(近・現代1) (青森県における衆議院議員選挙)

青森県における衆議院議員選挙 第一回衆議院議員選挙は明治二十三年七月一日に行われたが、小選区制、連記法,選挙区は、第一区が定員二人で東郡・上北・下北・三戸郡、第二区は定員一人で北郡と南郡、第三区は定員一人で,大正九年五月の第一四回及び大正十三年五月の第一五回総選挙は、選挙権は直接国税三円以上となり、選挙区は第一区青森市,、第二区弘前市、第三区南郡、第四区中郡及び西郡、第五区東郡及び北郡、第六区上北・下北両郡、第七区三戸郡,となり、各区から一人宛の代議士を選出した。
通史編4(近・現代1) (最初の県会)

、戸長、学区取締及び名望人を召集して議事を為すとあり、塩谷良翰参事は翌九年二月二十五日の県会の開会式で,二月十日に公選された名望人県会議員は各大区から一人だが、現在の弘前地域(第三大区)で一番札は山田登、二番札,同じ第三大区のだれかと交代したのだろう。,スル者ヲ、各大区ヨリ、一人ヅツヲ印封投票セシメ、区戸長ニテ取集メ、之ヲ県ニ送達シ」長官面前で開封、多数決,他の大区の公選名望人は一番札か二番札かのうちどちらかが出席していた。
通史編5(近・現代2) (四 戦後から市制百周年までの津軽選出国会議員)

このときの選挙は全県を一区とし、定員七人に対して三八人の立候補者があり、制限連記制で実施された。,青森地方区からは四人が立候補し、外交官から転じ、後に参議院議長も務めた佐藤尚武が一位で当選し、六年議員,からなる二区(定員三)の中選挙区制となった。,二区には一三人が立候補し、旧弘前市域の投票率は七二・九七%であった。,この中選挙区制は、平成六年(一九九六)に小選挙区・比例代表併用制へ選挙制度が変わるまで続いた。  
通史編5(近・現代2) (ひばり幼稚園)

小沢地区は、昭和四十七年に桜ヶ丘住宅団地の造成が完工、分譲が開始されるとともに、大開地区も市街化区域への,編入に伴い人口が増え、当地区への幼稚園の創設が待ち望まれていた。
資料編1(古代・中世編) (五 縄張りからの問題点)

石川城の中心は「大仏ケ鼻城」地区なのか「内館」地区なのか。,おそらく当初、大仏ケ鼻城地区か内館を中心とした地区の、どちらか一方が造られ、後に他の地区が増設されたのであろう,石川城の中心部、すなわち南部氏の津軽支配の政庁はどこかであるが、城郭の縄張りから判断すれば、大仏ケ鼻城地区よりも,鼻城はいわゆる「詰の城」として機能したことになるが、大仏ケ鼻城内部の平場の役割、岡館・猿楽館・月館地区の,むしろ、最初に選ばれたのが大仏ケ鼻城地区で、高信はそこに入り、のちに津軽支配の政庁として、「内館」を中心
通史編4(近・現代1) (第五十九国立銀行の創設)

明治十年第十月十二日                            大道寺繁禎  第一、二、四、五大区並三大区各小区区務所宛,国立銀行創立願 私共、申合、明治九年八月中御頒布相成候国立銀行条例を遵奉し、青森県管下第三大区一小区陸奥国津軽郡弘前本町一番地, 横島彦八 印 青森県士族 第三大区一小区陸奥国津軽郡徳田町九番    蒲田昌清 印 青森県士族,第三大区一小区陸奥国津軽郡相良町二十七番  松野幹  印 青森県士族 第三大区一小区陸奥国津軽郡若党町百一番,   芹川高正 印 青森県士族 第三大区二小区陸奥国津軽郡富田村三番   大道寺繁禎 印          
通史編5(近・現代2) (南中学校の開校)

学区は松原、千年、大和沢の各小学校学区および文京小学校学区の一部で、市の南に位置し、りんごの生産を主とする,学区内の人々や生徒父母たちは、南中学校を「地域の学校」という認識で、創立時から協力を惜しまなかった。
資料編2(近世編1) (協力機関及び協力者一覧(各機関・個人ごとに五十音順、敬称略))

京都府立丹後郷土資料館(京都府宮津市) 熊野奥照神社(青森県弘前市) 国立国文学研究資料館史料館(東京都品川区),東京国立博物館(東京都台東区) 市立函館図書館(北海道函館市) 大東急記念文庫(東京都世田谷区,青森県岩木町) 長勝寺(青森県弘前市) 敦賀市立図書館(福井県敦賀市) 東京大学史料編纂所(東京都文京区),東京都立中央図書館(東京都港区) 東北学院大学(宮城県仙台市) 東北大学附属図書館(宮城県仙台市,) 国立公文書館内閣文庫(東京都千代田区) 弘前大学附属図書館(青森県弘前市) 福岡市博物館(福岡県福岡市
通史編4(近・現代1) (第二大成尋常小学校の創設)

大成小学校は他校に比して児童数が多く、校舎は狭隘(あい)を極めて、増築することは学区民の話題になっていたが,一九二 四〇四 城 西 二〇八 一九六 四〇四 明治三十四年度『弘前市事務報告書』  そこで第二学区会,は、市会の決議に従って品川町七一番地に一校を新設したが、同一の学区に建てられた小学校なので校名を同じくし,第二大成尋常小学校は三十五年四月に開校したが、同じ日に学区制度(学区会による学校管理制度)が廃止されたので,また、第二大成の通学区域は第一大成と同じであることから、男子児童は第二大成、女子児童は第一大成に入学するようになった
通史編5(近・現代2) (弥生小学校の創設)

弥生小学校の創設 弥生地区は旧船沢村に属し、昭和十一年に開拓の鍬が下ろされたが、その当時の同地区児童,しかし、冬期の通学は困難をきわめ、欠席者が続出するので、同地区の人々は昭和十九年分校設立の請願を始めた,県からは教師さえ確保できれば季節分校を認可するというので、同地区の人々は折から疎開帰郷中の前田昌宏(元小学校教員,前田は教師就任を快諾、地区集会所を教室に、りんご箱を机にした学習が、十九年十二月一日から翌年三月末まで,ところが、地区の人々は児童全員の分校入学を希望し、本校への通学を拒否したため、村当局は教師二人を雇って
通史編4(近・現代1) (中弘政社の誕生)

第三回総選挙の当選者は、第一区源晟(あきら)・工藤行幹、第二区榊喜洋芽、第三区菊池九郎、第四回は第一区源晟,・白鳥慶一、第二区工藤行幹、第三区菊池九郎である。
通史編1(古代・中世) (竪穴から掘立柱へ)

図35 中崎館遺跡の遺構変遷 Ⅰ期 居住区内に区画性が薄弱で小さい掘立柱建物跡が数棟存在するだけである,Ⅱ期 南側と北側に区画性を有する溝が構築され、掘立柱建物跡・竪穴建物跡・井戸跡が一体化した関係を有する,Ⅲ期 大きな溝を掘り込んで居住空間の区画性を高め、多少大きめの掘立柱建物跡と井戸跡によって居住空間を構成,Ⅴ期 これまでの区画性とはまったく異質な状況であらわれ、大型の掘立柱建物跡を基本にした区画性がみられるようになる,Ⅵ期 Ⅴ期の方形区画を継承しながら一種の屋敷割を示す状況が認められる。  
通史編1(自然・原始) (気候境界と地域特性)

気候境界と地域特性 青森県の気候は、日本列島内では北日本または東北地方北部に区分され、日本の気候区(,重要な気候境界ともなっている八甲田山系で区分される気候区は「日本海側気候-津軽地域」と「太平洋側気候-,この気候区分が藩政時代の行政区分と大差がないのも興味深い。,東西に大別された気候区も、特有の異なった地形や海陸分布から形成される特性により、北部、南部または津軽西部,気象庁では、防災業務上の都合などから、青森県を行政区画で整合し、予・注・警報の地域分けをしている(図57
通史編4(近・現代1) (弘前市青年団分団の結成)

右の趣旨に沿って全国的に青年団の設置が急がれることになったが、弘前市は大正八年(一九一九)九月、各学区ごとに,学区内の勤労青少年たちは早速入団を勧誘された。,市内各学区ごとに設立をみた市青年団分団は学区の小学校長を分団長とし、その小学校の施設を利用して活動を始,平常の事業としては運動部と弁論部を置き、小学校の教員や学区内の有志が指導に当たった。
資料編1(考古編) (4.垂柳遺跡)

りされた各区の水田の形状と数は表12にあるように均一化していない。,m2 検出水田面積の平均m2 Ⅰ区 15 116.69 19.22 2.44 7.8 Ⅱ区 82,Ⅳ区 225 1,642.73 21.66 2.98 9.58 Ⅴ区 91 508.21 14.44,3.20 7.91 Ⅶ区 18 68.28 8.48 0.19 3.79 Ⅷ区 160 579.90,7.96 1.11 4.44 ※備考 Ⅵ区は水路のみであり、水田跡は検出されていない。
通史編4(近・現代1) (弘前市立弘前幼稚園)

弘前幼稚園設置の経過を同幼稚園沿革は「弘前第二学区の区会議員大高歳行、今村嘉三郎、花田直太郎、野村忠兵衛,福田忠之進、松木彦右衛門、雨森音次郎、小坂重吉、佐藤才八その他有志相寄り、明治三十五年四月一日の弘前市学区区会廃止,これに対し松木彦右衛門より金参百円を醵(きょ)出する旨の申出あり、さらに区内有志の熱心な賛助ありて、これを,弘前幼稚園は学区民の有志の手で設置され、それを弘前市に寄附したものである。  
通史編5(近・現代2) (第三大成小学校の創設)

それに伴い、第一大成と第二大成の学区を改正して、新たに第三大成学区を編成することにした。,結局、第一大成から松森町、楮町、新楮町が第三大成に移り、第二大成から富田町をはじめ富田地区一帯及び取上地区,が移ってこれを学区とした。,一方、第一大成から品川町の一部、山道町、住吉町、紙漉町、桶屋町、銅屋町、南川端町が第二大成学区に移った
通史編5(近・現代2) (東小学校の創立)

同校は城東地区の市街化に伴い、これまでの学区を変更して和徳小学校、豊田小学校、第一大成小学校からの四三二人,同校学区内を国道七号が通っているため交通量が非常に多く、県内でも有数の交通事故多発地区となっていた。
通史編5(近・現代2) (幹線道路建設)

国道七号は、平成元年に高田地区が四車線化し、東北縦貫自動車道大鰐・弘前インターチェンジへのアクセス道路,写真223 和徳地区土地区画整理事業施行区域と国道7号  県営の農道事業としては、弘前南部地区広域営農団地農道,(アップルロード)が、昭和五十四年度に完成をみ、弘前市南部地区の環状路線としての役割を発揮しているが、,また、石渡地区の県道交差部(変則五差路)の改良促進を働きかける。,⑨高長根山総合開発地区への連絡幹線道路である県道弘前鰺ヶ沢線・県道五所川原岩木線等は、高杉地区で変形十字路
通史編5(近・現代2) (弘前市建設計画の出発)

市村合併に当たっては「中弘地区市村合併促進協議会各部会決定事項」が準備された。,表53 中弘地区市村合併促進協議会決定事項(部分) 産業経済部 農業委員会を市の区域を二つ以上に分けて,置くとすればその区域及選挙による委員の定数及学識経験者から選出する委員の定数を何人とするか又一農業委員会,を現在の県農業改良普及地区の区域を区域とし三つの農業委員会を置くものとする。  ,三、都市計画実施に伴ふ商業地区の設定と育成。   弘前地区の観光資源をいかに利用整備すべきか。
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