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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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通史編4(近・現代1)
(県立弘前医学校(県立青森医学校))
県立弘前
医学校
(県立青森
医学校
) 明治九年(一八七六)二月二十五日、青森県参事塩谷良翰は、県会での医学生教育,置カセ生徒ヲ教育セント要ス」として県内各大区から五〇〇〇円の大金を集め、さらに県税金を投入して弘前に
医学校
,医学生の指導者として、東京
医学校
卒業の中村良益を招聘し、十年三月一日青森県立弘前
医学校
を親方町に開設した,これに不服の弘前人士は、政治力を使って
医学校
の弘前への奪還を策した。 ,しかし、再移転した弘前
医学校
も、十八年三月三日、県の財政不足のため廃止された。 / 県立弘前
医学校
(県立青森
医学校
)
通史編4(近・現代1)
(弘前市経済改善への提言)
このため、県庁、
医学校
、師範学校を弘前ヘ移転すべきことを主張している。,特に
医学校
の弘前移転については次のように述べている。,
医学校
ハ、明治九年県会ニ於テ当弘前ニ設立ノ義決議ニ及、既ニ開校ノ処、何等ノ訳ナルヤ一昨十一年冬右校青森,ヘ移セリ、抑
医学校
タルヤ医術ヲ研究スル原因ニシテ一日モ欠可カラサルハ論ヲ俟タス、当弘前町ノ儀ハ人家稠密,ヲ是非当町ヘ移校ノコトヲ望ム処ナリ (同前) 士族の子弟の就学の機会確保のためにも
医学校
の弘前移転
通史編4(近・現代1)
(郷田県令と保守派)
郷田兼徳県令 阿部は、明治十一年四月青森県師範学校予科を卒業し、短期間教師をし、まもなく青森県
医学校
監事
通史編4(近・現代1)
(出家と禅画)
忠三の長兄忠雄は佐藤ドクトルと言われた有名な医師、十歳年上だが、東京慈恵
医学校
卒業後、ドイツのミュンヘン
通史編3(近世2)
(幕末期の市域)
その後、安政五年(一八五八)には古学校(旧稽古館)構内に
医学校
が創立されたほか、文久二年(一八六二)には
通史編4(近・現代1)
(明治十四年の巡幸)
この代巡による奨励を受けた学校は、県立師範学校分校、同女子師範学校、中津軽郡立中学、県立
医学校
、東奥義塾
通史編4(近・現代1)
(青森県立弘前中学校の変遷)
明治二十五年六月二十日の夕刻、旧弘前
医学校
(明治十八年廃止)の建物を試用していた尋常中学校は生徒控所から
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