機関トップ
資料グループ
テキスト一覧
年表一覧
キーワード一覧
弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
トップページ
詳細検索
詳細検索
目録
テキスト
年表
キーワード
その他(トップページ等)
検索条件を追加
目録
テキスト
年表
キーワード一覧
その他(トップページ等)
AND
OR
NOT
年号変換
閉じる
検索結果
: 68件
辞書ファセット
○○○
△△△
10件
20件
50件
100件
(並べ替え)
テキストタイトル(昇順)
テキストタイトル(降順)
ページタイトル(昇順)
ページタイトル(降順)
掲載ページ(昇順)
掲載ページ(降順)
/ 2ページ
通史編2(近世1)
(近世の十三湊)
近世の
十三湊
近世の
十三湊
(とさみなと)は、弘前城下の町年寄を務めた松井家の由緒書などから、安藤氏の,退転後も、十六世紀の中ごろにはその機能を回復しつつあり、十七世紀の初めには、新たに十三町、
十三湊
の再建,この時期の
十三湊
は、「川湊(かわみなと)」(正保・承応年間にはすでに「川湊」と称される湊へと変貌していた / 近世の
十三湊
通史編1(古代・中世)
(一 十三湊と津軽)
一
十三湊
と津軽 津軽地域と他地域との交易を考えるとき、物資の窓口として
十三湊
(とさみなと)は特筆すべき / 一
十三湊
と津軽
通史編1(古代・中世)
(十三湊空白の百年)
十三湊
空白の百年
十三湊
の発掘調査で出土する遺物には、一五世紀末から一六世紀代の遺物がほとんど認められないという,写真169 普正寺遺跡 とくに、近年の調査で
十三湊
と関係が深いとされる北海道余市(よいち)町の,いずれにしても、今後の発掘調査によって具体的な
十三湊
盛衰の姿を発見できるものと思われる。 /
十三湊
空白の百年
通史編1(古代・中世)
(湊の最盛期)
湊の最盛期 文献を裏づけるように、発掘調査の成果は多種多様な
十三湊
の断面をみせてくれる。,図44
十三湊
の図 現在までの調査結果からすると、
十三湊
遺跡は、南北に区分する土塁の北側と南側,また出土遺物の面からみても、北奥の遺跡の中で
十三湊
は際立った特色がある。,
十三湊
の約半分である。,図45
十三湊
と境関館の出土陶磁器比率の比較 (外側は
十三湊
,内側は境関館) このような瀬戸製品
通史編1(古代・中世)
(湊の始まり)
十三湊
周辺におけるこの時期の出土遺物はそれほど多くないものの、山王坊(さんのうぼう)遺跡から出土したと,伝えられる瀬戸四耳壺(しじこ)(写真168)は蔵骨器という性格上、
十三湊
周辺に居住した人々の葬制に、火葬,この資料は一二世紀末に瀬戸で生産されたことは確実で、全国的にも出土例が少ないことから、
十三湊
の成立と周辺,このことは一四世紀後半には、
十三湊
と日本海経由で瀬戸内海までの広域な流通経路ないしは人的交流の道が存在,もしこの「津軽船」が
十三湊
を主要湊とする船であると考えると、船の所有形態は別にしても、北条得宗管轄下の
通史編2(近世1)
(中世の北国海運)
(もとよし)・能登輪島(わじま)・越中岩瀬(いわせ)・越後今町(いままち)・出羽秋田とともに奥州津軽
十三湊
,図106.酒田市山居倉庫の荷物積み出し場 さて、津軽
十三湊
は、「十三往来」や「
十三湊
新城記」などの,記述から(資料古代・中世No.一一四二・一一四三)、平安末期に起源があるとされる(古田良一「津軽
十三湊
,の生産と流通」国立歴史民俗博物館編『中世都市
十三湊
と安藤氏』一九九四年 新人物往来社刊)。 ,④や⑤にいうように、安藤氏の退転により、中世の
十三湊
はその機能を失い終焉を迎えたともいえる。
通史編2(近世1)
(十三小廻しの成立と町の盛衰)
承応二年(一六五三)の「津軽領道程帳」(弘図古)の
十三湊
の項にも、同じようなことが記されているが、特に,つまり、
十三湊
は湊口が浅いために、積み荷は日本海上で降ろして空船状態にしてから入湊し、沖番所などのある,こうした各湊津への規定が
十三湊
に最も早く出されたのは、このころの津軽領内で、
十三湊
の比重が大きかったことを,つまり、藩にとって、米・材木を運漕する、津軽平野の大動脈である岩木川舟運の終着地としての
十三湊
の重要性,十七世紀の後半には、入湊する船舶の極端な減少により、
十三湊
は衰退していたようである。
通史編1(古代・中世)
(一六世紀の湊)
一六世紀の湊 それでは一六世紀に
十三湊
に代わりうる湊は、どこに存在したのであろうか。 ,このように一六世紀の陶磁器の動きをみると、主体となる交易港は
十三湊
ではなく、外浜を支配していた浪岡北畠氏,また日本海域では
十三湊
に代わって、鰺ヶ沢町の種里(たねさと)城を中心とした地域や深浦町の元城(もとしろ
通史編1(古代・中世)
(後方羊蹄の所在地)
その地名の由来である崖山(がけやま)とは
十三湊
北方の権現崎(これまた日本海交通における格好のランドマーク,写真36)であり、そのふもとの大船団碇泊のための格好の港である岩木川河口の
十三湊
こそ、シリペシであろう
通史編2(近世1)
(材木移出)
もちろん、この材木が
十三湊
から移出されたとはいえないが、十三川湊・中師(蟹田)・今別・小湊のいずれかの,これは主に、
十三湊
からの材木移出と、山から材木を
十三湊
へ切り出す際の手続きとに分かれており、 ①材木,このように、貯木場を設置して、価格変動に応じた材木の移出を可能にした
十三湊
は、同じように材木を移出する
通史編1(古代・中世)
(一 「日の本将軍」安藤氏)
永享八年(一四三六)四月、「奥州
十三湊
日之本将軍」安藤康季(やすすえ)が後花園天皇の勅命を受けて、前年三月
通史編2(近世1)
(町年寄の由緒)
慶長十一年(一六〇六)に家督を継いだ三代目の松井助左衛門のときに、
十三湊
の再開発に着手し、そのほかにも,これらの開発に従事した松井家は、津軽氏の領国形成に不可欠の要素であった、岩木川舟運・
十三湊
、ひいては、
通史編2(近世1)
(西廻海運と領内の整備)
」体制の成立がその一つであるが、これは、岩木川流域の津軽の穀倉地帯からの米穀が、舟運(しゅううん)で
十三湊
,はじめは、主に
十三湊
の町船・岩木川河岸の川舟がそれを担っていた。
通史編1(古代・中世)
(津軽奪還を目指して)
(もりすえ)の甥にあたる潮潟重季(うしおがたしげすえ)の嫡子政季(師季)(まさすえ(もろすえ))は、
十三湊
,このことから、師季の保護は、南部氏が
十三湊
安藤氏にかわる安東(この時期に「安藤」から「安東」に氏の表記,一方、
十三湊
を追われ蝦夷地に逃れた安藤盛季(もりすえ)の子息康季(やすすえ)は、そののち津軽に戻ったが
通史編3(近世2)
(公娼と私娼)
鰺ヶ沢については、寛文十二年(一六七二)に「十三小廻(とさこまわ)し」体制(
十三湊
(とさみなと)〈現北津軽郡市浦村,
十三湊
は中世では全国の「三津七湊(さんしんしちそう)」の一つに数えられるほどであった。
通史編1(古代・中世)
(舶載と国産)
一四世紀後半から一五世紀の状況は、弘前市内の境関館や、尻八館(青森市)・志苔(しのり)館(函館市)そして
十三湊
,図46 15・16世紀における北日本の陶磁器出土遺跡 ただ、前述した
十三湊
の動きを別にすれば、
資料編1(考古編)
(-中世Ⅰ期(12世紀代)-)
中崎館遺跡・内真部遺跡・蓬田大館遺跡・浪岡城内館跡・独狐遺跡・
十三湊
遺跡等であり、そのほとんどは津軽地方
通史編1(古代・中世)
(秋田家系図)
住二津軽一」と注し、その後さらに「此間七十余年、某名不レ詳故不レ記」、次の愛秀(旧記云、自二此時一初住二
十三湊
一
通史編1(古代・中世)
(得宗領・安藤氏との関わり)
津軽にも「清藤家由緒書断簡」(尾上町)などのように、唐糸の漂着先を
十三湊
とするものがある。
資料編1(考古編)
(4.発掘調査以外の遺跡)
さらに県内における消費動向として
十三湊
、久米川、石上神社、飯詰城、野脇、水木館の各遺跡資料と伝世資料を
通史編2(近世1)
(一 青森開港と初期海運)
津軽弘前藩では、これら津軽領内の物資交易のため、従来の
十三湊
のほか近世初期に青森・鰺ヶ沢・深浦等の湊も
通史編1(古代・中世)
(中世の農民)
当市域では「農村」の具体的な姿はまだ確認されていないが、県内では市浦村の
十三湊
遺跡町屋地区のさらに南側,写真201
十三湊
調査区検出遺構 戦乱と飢饉が繰り返し起こり、領主の支配も不安定になりがちだった
通史編2(近世1)
(由緒書から)
親方町に住んでいた竹内勘六の由緒によると、先祖嘉右衛門は、高松の出身で、天文年間(一五三二~一五五五)に
十三湊
通史編1(古代・中世)
(安藤氏の所領)
「湊」については、それを
十三湊
とする説と、下北半島の内に求める説とに分かれるが、配列のみからいうと後者,近年では
十三湊
説が有力である。 「関」は現在の深浦町。
通史編1(自然・原始)
(地形の概説)
図5 沖積低地の地形(模式図)(海津,1994より転載) 写真3
十三湊
遺跡がある砂州は十三湖
資料編1(古代・中世編)
(第三節 宝篋印塔)
中里町・市浦村などに多く、
十三湊
を拠点に活動した安藤氏の支配地で、多く造立されたと見ることができる。
通史編2(近世1)
(岩木川舟運)
現弘前市三世寺)、湊(現五所川原市湊)、大泊(現五所川原市藻川(もかわ))、蒔田(まきた)(現金木町蒔田)、
十三湊
,領内の米や木材は各地の川湊に集められ、
十三湊
まで輸送された。
通史編1(古代・中世)
(沈黙交易)
あるいはこの岩木川河口付近は、中世の
十三湊
がそうであったように北方と南方との交易の拠点で、渡嶋蝦夷と粛慎
通史編1(古代・中世)
(地方色を顕す古代の津軽地方)
津軽地方に集中し、弘前市境関館遺跡・浪岡城内館跡・青森市内真部(うちまっぺ)遺跡・蓬田村大館遺跡・市浦村
十三湊
遺跡
通史編1(古代・中世)
(安藤氏の特殊な氏族結合)
津軽においては安藤氏は、藤崎や
十三湊
に代表されるように、重要な水上交通の拠点を支配していた。
通史編1(古代・中世)
(仲麻呂鬼伝説)
さらにまたこの系譜には、「盛季 安藤太津軽
十三湊
安大納言」の項に、「長髄百代之後胤也」と記されていることも
通史編1(古代・中世)
(安藤氏の没落)
そして、その経過は嘉吉三年(一四四三)十二月に盛季(もりすえ)(盛季は当時の当主ではない)が
十三湊
を南部氏
通史編1(古代・中世)
(第三節 南北交易と「境界地域」津軽)
十三湊
をはじめとする港湾遺跡や城館の発掘調査の結果から、従来の貧困な北のイメージには似つかわしくない豊
資料編1(考古編)
(4.15世紀の様相)
図13 浪岡城跡出土瓦質土器 主要な遺跡としては、市浦村
十三湊
遺跡・伝山王坊跡・檀林寺跡・二ツ
資料編1(考古編)
((4)12世紀代)
この時代の本県の遺跡は、青森市内真部(うちまっぺ)遺跡、弘前市境関館遺跡、浪岡城内館跡、市浦村
十三湊
遺跡
通史編1(古代・中世)
(「津軽(郡)中名字」と浪岡北畠氏)
十三湊
一帯は江流末郡に含まれるが、
十三湊
のほかは二つの地名が載るだけであり、馬之郡は三つの地名が載るのみである,中心地大浜は、古代末から鎌倉期にかけて奥大道と夷島渡航との結節点として成立したが、この地が発展したのは、
十三湊
通史編1(古代・中世)
(有間浜の所在)
の伝える中世の北津軽の郡名とされる江流末(えるま)郡の音に近いことから、岩木川河口の北津軽郡市浦村の
十三湊
付近
資料編1(考古編)
(5.16世紀の様相)
その事は、染付や美濃瀬戸大窯期の資料をまったく出土しない
十三湊
の資料に端的に現れ、16世紀の空白の「湊
通史編1(古代・中世)
(嘉元鐘銘文に登場する鎌倉武士)
その四人に続く「安倍季盛(すえもり)」は、時代からみて『
十三湊
新城記』(史料一一四三・写真114)に、,写真114
十三湊
新城記 とするとその間に入る「沙弥行心(ぎょうしん)」も、配列からみて津軽曽我氏
資料編1(考古編)
(第2節 中世・近世の考古学研究略史)
彼は『東北地方石器時代遺跡調査予報』*2の中で
十三湊
に触れ、「高麗焼土器片」が採集できることを記述している,(後略)』 と、
十三湊
周辺から中世の陶磁器が多量に掘り出され、各地に保管されていることを記述している,なお同じころ、下北を中心に考古学研究を進めていた橘善光も、中世資料の発表を始め*7桜井も
十三湊
に関する
通史編2(近世1)
(津軽地域の確保と蝦夷荒)
これによって、
十三湊
(とさみなと)を含む岩木川下流域の地域を掌握することになり、日本海交易につながる経路
資料編1(古代・中世編)
([十五世紀])
●この時期、『時衆過去帳』に北奥羽住人の名が多数記され、下国安藤氏や合浦・
十三湊
住人の名も見える。,●永享八年(一四三六)四月、「奥州
十三湊
日之本将軍」下国安藤康季、後花園天皇の勅命を受け若狭国羽賀寺の,●嘉吉二年(一四四二)、下国安藤盛季、南部義政に敗れ
十三湊
を追われるという。
通史編1(自然・原始)
(日本海沿岸海域に震源のある地震)
正史にないため、
十三湊
で何万人もが溺死したという伝承を確認する手だてはない。
資料編1(古代・中世編)
(三 板碑の造立者とその時期)
安藤氏は中世のある時期に拠点を
十三湊
に移すが、それ以後、西海岸地方の板碑文化が盛行したのではなかろうか
資料編2(近世編1)
(はじめに)
また付録として、弘前城下、青森湊町、鯵ヶ沢湊町、
十三湊
町、深浦湊町、藤崎(ふじさき)村、岩舘(いわだて
資料編1(古代・中世編)
(第二節 五輪塔)
平泉まで来た五輪塔の文化は、奥大道を北上し外ノ浜へ、また下之切道を通り
十三湊
まで続いていたと考えることが
通史編1(古代・中世)
(一 古代における北奥の宗教世界)
まず、「蝦夷管領」津軽安藤氏の祖たる「東夷の酋長」「六箇郡之司」の安倍氏は、その政治的拠点の
十三湊
に広,『津軽一統志』が「古跡」として「
十三湊
当城北小泊崎並其中間者山也。,中略)是ノ境ノ之佳景(カケイ)三王坊ト云フ人所ノレ著ワス之十三往来ニ詳カニ見ヘタリ(下略)」と紹介した
十三湊
,こうとはしなかったが、この山王坊も中世安藤氏の祖たる古代安倍氏の世において、他の寺院と同様に天台宗寺院として
十三湊
,南限を示す境界でもあり、その支配版図のなかに、藤崎・碇ヶ関・大鰐地域という一大拠点とともに、いま一つ
十三湊
通史編2(近世1)
(家中払米の展開)
このように、青森をはじめとして鰺ヶ沢・小泊・
十三湊
など領内の各湊から松前へ藩士の米が家中払米として積み
通史編1(古代・中世)
(一 中世寺院の建立)
この一五世紀の末葉の油川は、「日ノ本将軍」安藤氏の従前の拠点
十三湊
に代わって、奥大道の終着点であると同時,このような、夷島と津軽との交流を、
十三湊
を拠点とする「蝦夷管領」安藤氏は、幕府の現地執行者として、また
資料編1(古代・中世編)
((2)戦国時代の「石川城(石川大仏ケ鼻城)」)
永享四年(一四三二)、三戸の南部氏は
十三湊
の下国安藤氏を攻めて、蝦夷島(北海道)へ敗走させ、その後の数度
/ 2ページ