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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編2(近世1) (近世の十三湊)

近世の十三湊 近世の十三湊(とさみなと)は、弘前城下の町年寄を務めた松井家の由緒書などから、安藤氏の,退転後も、十六世紀の中ごろにはその機能を回復しつつあり、十七世紀の初めには、新たに十三町、十三湊の再建,この時期の十三湊は、「川湊(かわみなと)」(正保・承応年間にはすでに「川湊」と称される湊へと変貌していた / 近世の十三湊
通史編1(古代・中世) (一 十三湊と津軽)

一 十三湊と津軽 津軽地域と他地域との交易を考えるとき、物資の窓口として十三湊(とさみなと)は特筆すべき / 一 十三湊と津軽
通史編1(古代・中世) (十三湊空白の百年)

十三湊空白の百年 十三湊の発掘調査で出土する遺物には、一五世紀末から一六世紀代の遺物がほとんど認められないという,写真169 普正寺遺跡  とくに、近年の調査で十三湊と関係が深いとされる北海道余市(よいち)町の,いずれにしても、今後の発掘調査によって具体的な十三湊盛衰の姿を発見できるものと思われる。 / 十三湊空白の百年
通史編1(古代・中世) (湊の最盛期)

湊の最盛期 文献を裏づけるように、発掘調査の成果は多種多様な十三湊の断面をみせてくれる。,図44 十三湊の図  現在までの調査結果からすると、十三湊遺跡は、南北に区分する土塁の北側と南側,また出土遺物の面からみても、北奥の遺跡の中で十三湊は際立った特色がある。,十三湊の約半分である。,図45 十三湊と境関館の出土陶磁器比率の比較 (外側は十三湊,内側は境関館)  このような瀬戸製品
通史編1(古代・中世) (湊の始まり)

十三湊周辺におけるこの時期の出土遺物はそれほど多くないものの、山王坊(さんのうぼう)遺跡から出土したと,伝えられる瀬戸四耳壺(しじこ)(写真168)は蔵骨器という性格上、十三湊周辺に居住した人々の葬制に、火葬,この資料は一二世紀末に瀬戸で生産されたことは確実で、全国的にも出土例が少ないことから、十三湊の成立と周辺,このことは一四世紀後半には、十三湊と日本海経由で瀬戸内海までの広域な流通経路ないしは人的交流の道が存在,もしこの「津軽船」が十三湊を主要湊とする船であると考えると、船の所有形態は別にしても、北条得宗管轄下の
通史編2(近世1) (中世の北国海運)

(もとよし)・能登輪島(わじま)・越中岩瀬(いわせ)・越後今町(いままち)・出羽秋田とともに奥州津軽十三湊,図106.酒田市山居倉庫の荷物積み出し場  さて、津軽十三湊は、「十三往来」や「十三湊新城記」などの,記述から(資料古代・中世No.一一四二・一一四三)、平安末期に起源があるとされる(古田良一「津軽十三湊,の生産と流通」国立歴史民俗博物館編『中世都市十三湊と安藤氏』一九九四年 新人物往来社刊)。  ,④や⑤にいうように、安藤氏の退転により、中世の十三湊はその機能を失い終焉を迎えたともいえる。
通史編2(近世1) (十三小廻しの成立と町の盛衰)

承応二年(一六五三)の「津軽領道程帳」(弘図古)の十三湊の項にも、同じようなことが記されているが、特に,つまり、十三湊は湊口が浅いために、積み荷は日本海上で降ろして空船状態にしてから入湊し、沖番所などのある,こうした各湊津への規定が十三湊に最も早く出されたのは、このころの津軽領内で、十三湊の比重が大きかったことを,つまり、藩にとって、米・材木を運漕する、津軽平野の大動脈である岩木川舟運の終着地としての十三湊の重要性,十七世紀の後半には、入湊する船舶の極端な減少により、十三湊は衰退していたようである。  
通史編1(古代・中世) (一六世紀の湊)

一六世紀の湊 それでは一六世紀に十三湊に代わりうる湊は、どこに存在したのであろうか。  ,このように一六世紀の陶磁器の動きをみると、主体となる交易港は十三湊ではなく、外浜を支配していた浪岡北畠氏,また日本海域では十三湊に代わって、鰺ヶ沢町の種里(たねさと)城を中心とした地域や深浦町の元城(もとしろ
通史編1(古代・中世) (後方羊蹄の所在地)

その地名の由来である崖山(がけやま)とは十三湊北方の権現崎(これまた日本海交通における格好のランドマーク,写真36)であり、そのふもとの大船団碇泊のための格好の港である岩木川河口の十三湊こそ、シリペシであろう
通史編1(古代・中世) (一 「日の本将軍」安藤氏)

永享八年(一四三六)四月、「奥州十三湊日之本将軍」安藤康季(やすすえ)が後花園天皇の勅命を受けて、前年三月
通史編2(近世1) (材木移出)

もちろん、この材木が十三湊から移出されたとはいえないが、十三川湊・中師(蟹田)・今別・小湊のいずれかの,これは主に、十三湊からの材木移出と、山から材木を十三湊へ切り出す際の手続きとに分かれており、 ①材木,このように、貯木場を設置して、価格変動に応じた材木の移出を可能にした十三湊は、同じように材木を移出する
通史編2(近世1) (西廻海運と領内の整備)

」体制の成立がその一つであるが、これは、岩木川流域の津軽の穀倉地帯からの米穀が、舟運(しゅううん)で十三湊,はじめは、主に十三湊の町船・岩木川河岸の川舟がそれを担っていた。
通史編2(近世1) (町年寄の由緒)

慶長十一年(一六〇六)に家督を継いだ三代目の松井助左衛門のときに、十三湊の再開発に着手し、そのほかにも,これらの開発に従事した松井家は、津軽氏の領国形成に不可欠の要素であった、岩木川舟運・十三湊、ひいては、
通史編1(古代・中世) (津軽奪還を目指して)

(もりすえ)の甥にあたる潮潟重季(うしおがたしげすえ)の嫡子政季(師季)(まさすえ(もろすえ))は、十三湊,このことから、師季の保護は、南部氏が十三湊安藤氏にかわる安東(この時期に「安藤」から「安東」に氏の表記,一方、十三湊を追われ蝦夷地に逃れた安藤盛季(もりすえ)の子息康季(やすすえ)は、そののち津軽に戻ったが
資料編1(考古編) (-中世Ⅰ期(12世紀代)-)

中崎館遺跡・内真部遺跡・蓬田大館遺跡・浪岡城内館跡・独狐遺跡・十三湊遺跡等であり、そのほとんどは津軽地方
通史編1(古代・中世) (秋田家系図)

住二津軽一」と注し、その後さらに「此間七十余年、某名不レ詳故不レ記」、次の愛秀(旧記云、自二此時一初住二十三湊一
通史編1(古代・中世) (舶載と国産)

一四世紀後半から一五世紀の状況は、弘前市内の境関館や、尻八館(青森市)・志苔(しのり)館(函館市)そして十三湊,図46 15・16世紀における北日本の陶磁器出土遺跡  ただ、前述した十三湊の動きを別にすれば、
通史編3(近世2) (公娼と私娼)

鰺ヶ沢については、寛文十二年(一六七二)に「十三小廻(とさこまわ)し」体制(十三湊(とさみなと)〈現北津軽郡市浦村,十三湊は中世では全国の「三津七湊(さんしんしちそう)」の一つに数えられるほどであった。
通史編2(近世1) (一 青森開港と初期海運)

津軽弘前藩では、これら津軽領内の物資交易のため、従来の十三湊のほか近世初期に青森・鰺ヶ沢・深浦等の湊も
資料編1(考古編) (4.発掘調査以外の遺跡)

さらに県内における消費動向として十三湊、久米川、石上神社、飯詰城、野脇、水木館の各遺跡資料と伝世資料を
通史編1(古代・中世) (得宗領・安藤氏との関わり)

津軽にも「清藤家由緒書断簡」(尾上町)などのように、唐糸の漂着先を十三湊とするものがある。  
通史編2(近世1) (由緒書から)

親方町に住んでいた竹内勘六の由緒によると、先祖嘉右衛門は、高松の出身で、天文年間(一五三二~一五五五)に十三湊
通史編1(古代・中世) (中世の農民)

当市域では「農村」の具体的な姿はまだ確認されていないが、県内では市浦村の十三湊遺跡町屋地区のさらに南側,写真201 十三湊調査区検出遺構  戦乱と飢饉が繰り返し起こり、領主の支配も不安定になりがちだった
通史編1(古代・中世) (安藤氏の所領)

「湊」については、それを十三湊とする説と、下北半島の内に求める説とに分かれるが、配列のみからいうと後者,近年では十三湊説が有力である。  「関」は現在の深浦町。
資料編1(古代・中世編) (第三節 宝篋印塔)

中里町・市浦村などに多く、十三湊を拠点に活動した安藤氏の支配地で、多く造立されたと見ることができる。
通史編1(自然・原始) (地形の概説)

図5 沖積低地の地形(模式図)(海津,1994より転載) 写真3 十三湊遺跡がある砂州は十三湖
通史編2(近世1) (岩木川舟運)

現弘前市三世寺)、湊(現五所川原市湊)、大泊(現五所川原市藻川(もかわ))、蒔田(まきた)(現金木町蒔田)、十三湊,領内の米や木材は各地の川湊に集められ、十三湊まで輸送された。
通史編1(古代・中世) (地方色を顕す古代の津軽地方)

津軽地方に集中し、弘前市境関館遺跡・浪岡城内館跡・青森市内真部(うちまっぺ)遺跡・蓬田村大館遺跡・市浦村十三湊遺跡
通史編1(古代・中世) (安藤氏の特殊な氏族結合)

津軽においては安藤氏は、藤崎や十三湊に代表されるように、重要な水上交通の拠点を支配していた。
通史編1(古代・中世) (沈黙交易)

あるいはこの岩木川河口付近は、中世の十三湊がそうであったように北方と南方との交易の拠点で、渡嶋蝦夷と粛慎
通史編1(古代・中世) (安藤氏の没落)

そして、その経過は嘉吉三年(一四四三)十二月に盛季(もりすえ)(盛季は当時の当主ではない)が十三湊を南部氏
通史編1(古代・中世) (第三節 南北交易と「境界地域」津軽)

十三湊をはじめとする港湾遺跡や城館の発掘調査の結果から、従来の貧困な北のイメージには似つかわしくない豊
資料編1(考古編) (4.15世紀の様相)

図13 浪岡城跡出土瓦質土器  主要な遺跡としては、市浦村十三湊遺跡・伝山王坊跡・檀林寺跡・二ツ
通史編1(古代・中世) (仲麻呂鬼伝説)

さらにまたこの系譜には、「盛季 安藤太津軽十三湊安大納言」の項に、「長髄百代之後胤也」と記されていることも
資料編1(考古編) ((4)12世紀代)

この時代の本県の遺跡は、青森市内真部(うちまっぺ)遺跡、弘前市境関館遺跡、浪岡城内館跡、市浦村十三湊遺跡
通史編1(古代・中世) (「津軽(郡)中名字」と浪岡北畠氏)

十三湊一帯は江流末郡に含まれるが、十三湊のほかは二つの地名が載るだけであり、馬之郡は三つの地名が載るのみである,中心地大浜は、古代末から鎌倉期にかけて奥大道と夷島渡航との結節点として成立したが、この地が発展したのは、十三湊
資料編1(考古編) (5.16世紀の様相)

その事は、染付や美濃瀬戸大窯期の資料をまったく出土しない十三湊の資料に端的に現れ、16世紀の空白の「湊
通史編1(古代・中世) (有間浜の所在)

の伝える中世の北津軽の郡名とされる江流末(えるま)郡の音に近いことから、岩木川河口の北津軽郡市浦村の十三湊付近
通史編1(古代・中世) (嘉元鐘銘文に登場する鎌倉武士)

その四人に続く「安倍季盛(すえもり)」は、時代からみて『十三湊新城記』(史料一一四三・写真114)に、,写真114 十三湊新城記  とするとその間に入る「沙弥行心(ぎょうしん)」も、配列からみて津軽曽我氏
資料編1(考古編) (第2節 中世・近世の考古学研究略史)

彼は『東北地方石器時代遺跡調査予報』*2の中で十三湊に触れ、「高麗焼土器片」が採集できることを記述している,(後略)』  と、十三湊周辺から中世の陶磁器が多量に掘り出され、各地に保管されていることを記述している,なお同じころ、下北を中心に考古学研究を進めていた橘善光も、中世資料の発表を始め*7桜井も十三湊に関する
通史編2(近世1) (津軽地域の確保と蝦夷荒)

これによって、十三湊(とさみなと)を含む岩木川下流域の地域を掌握することになり、日本海交易につながる経路
資料編1(古代・中世編) ([十五世紀])

●この時期、『時衆過去帳』に北奥羽住人の名が多数記され、下国安藤氏や合浦・十三湊住人の名も見える。,●永享八年(一四三六)四月、「奥州十三湊日之本将軍」下国安藤康季、後花園天皇の勅命を受け若狭国羽賀寺の,●嘉吉二年(一四四二)、下国安藤盛季、南部義政に敗れ十三湊を追われるという。
通史編1(自然・原始) (日本海沿岸海域に震源のある地震)

正史にないため、十三湊で何万人もが溺死したという伝承を確認する手だてはない。
資料編1(古代・中世編) (三 板碑の造立者とその時期)

安藤氏は中世のある時期に拠点を十三湊に移すが、それ以後、西海岸地方の板碑文化が盛行したのではなかろうか
資料編2(近世編1) (はじめに)

また付録として、弘前城下、青森湊町、鯵ヶ沢湊町、十三湊町、深浦湊町、藤崎(ふじさき)村、岩舘(いわだて
資料編1(古代・中世編) (第二節 五輪塔)

平泉まで来た五輪塔の文化は、奥大道を北上し外ノ浜へ、また下之切道を通り十三湊まで続いていたと考えることが
通史編1(古代・中世) (一 古代における北奥の宗教世界)

まず、「蝦夷管領」津軽安藤氏の祖たる「東夷の酋長」「六箇郡之司」の安倍氏は、その政治的拠点の十三湊に広,『津軽一統志』が「古跡」として「十三湊 当城北小泊崎並其中間者山也。,中略)是ノ境ノ之佳景(カケイ)三王坊ト云フ人所ノレ著ワス之十三往来ニ詳カニ見ヘタリ(下略)」と紹介した十三湊,こうとはしなかったが、この山王坊も中世安藤氏の祖たる古代安倍氏の世において、他の寺院と同様に天台宗寺院として十三湊,南限を示す境界でもあり、その支配版図のなかに、藤崎・碇ヶ関・大鰐地域という一大拠点とともに、いま一つ十三湊
通史編2(近世1) (家中払米の展開)

このように、青森をはじめとして鰺ヶ沢・小泊・十三湊など領内の各湊から松前へ藩士の米が家中払米として積み
通史編1(古代・中世) (一 中世寺院の建立)

この一五世紀の末葉の油川は、「日ノ本将軍」安藤氏の従前の拠点十三湊に代わって、奥大道の終着点であると同時,このような、夷島と津軽との交流を、十三湊を拠点とする「蝦夷管領」安藤氏は、幕府の現地執行者として、また
通史編1(古代・中世) (藤崎城と中世都市)

いずれにしても十三湊安藤氏が没落しても、その後も津軽の地には安藤(安東)氏の庶子系が生き残って、南部氏
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