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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編5(近・現代2) (弘前幼稚園類焼)

したがって昭和三年度卒業者は仮園舎の護国館で卒園式を挙行した。,この年の卒園者で弘前幼稚園卒園者は一〇二八人となって、一千人の大台を超えた。,落成竣工を祝って同園卒園者および父母有志は滑り台、ブランコ、砂場を備え付け、雛人形、五月人形、幼児の家一屋
通史編5(近・現代2) (青森県の賃金動向)

初任給(に対する)賃金倍率では、大卒男子では三五~三六歳位、勤続年数一三年で初任給の約二倍、又高卒は三四,初任給を学歴別に見ると、「大学卒・男子」が一二万二七三〇円、「高校卒・男子」九万七〇一八円、「同女子」,が九万四五八七円となり、前年と比較してみると、「大卒男子」が四・〇%、四七二六円の上昇、「高卒男子」は,一・三四%、一二八七円上昇となり、「高卒男子」の伸びが低い。,一方、「高卒女子」は四・七五%、四二八七円と近年にない伸びを示した。  
通史編5(近・現代2) (弘高通信教育部の誕生)

「教養を高める」は「高校卒業の資格を得たい」に変わってきた。,新聞は、全国初の試みとして四ヵ年計画で高校卒業資格を与えることを大々的に報道した。,昭和三十年、高校卒業資格授与が文部省から認可され、通信教育が発足して以来の新記録、応募者九〇〇人、入学,三十一年三月、通信教育にとっては記念すべき卒業式が行われた。,弘前高校通信教育が実施されてから八年目にして、最初の卒業生が二人誕生した。
通史編5(近・現代2) (幼稚園の廃園)

同幼稚園は平成十年三月二十二日卒園式挙行のあと閉園式を行った。,写真145 弘前幼稚園最後の園児11人と保護者・職員(平成9年7月)  最後の卒園生一一人が、声,さようなら、さようなら、弘前幼稚園」で、これまでの卒園者四九〇二人を一一人が代表して言った観があった。
通史編3(近世2) (帰田法(きでんほう)とは)

帰田法(きでんほう)とは よって、明治三年六月以降、藩としての最大の問題は士族・卒の困窮化をいかにくい,だけは彼らに残し、あとは強制的に藩が廉価(れんか)で買い上げるか、または献納(けんのう)させて、士族・卒の,しかし、弘前藩の場合は田地配賦とともに従来の家禄支給も約束されており、士族・卒にとって圧倒的に有利なもので
通史編5(近・現代2) (東北女子短期大学の開学)

143 柴田学園本部と東北女子短期大学(上瓦ヶ町・昭和25年ごろ)  昭和二十七年三月には、被服科卒業生,また、生活科の卒業生には栄養士の資格が与えられた。  ,定員は五〇人で、卒業者には教職課程の履修によって幼稚園教諭二級普通免許状、また、保母課程の履修によって
通史編4(近・現代1) (青森県立弘前女子師範学校)

その後入学者が増えたものか、十三年度『青森県学事年報』によると生徒数三五人になっていて、卒業者は一二人,女子師範学校への入学志望者の減少、入学したものの教科についていけず原級に留まる者の多いこと、十三年に一二人の卒業者,を出したきりで、卒業者の出ない現状、さらに学校経費が高額となって県の財政を圧迫したことなどで十八年五月
通史編4(近・現代1) (帰田法の帰結)

明治三年(一八七〇)に弘前藩は、経済的な困難に苦しむ士卒層を救済するため、土地の分与を行うこととし、明治政府,これによれば、士族卒は家禄の削減により、家計が苦しい者が多いので、土着を促すために、余裕がある田畑を購入,田畑を売却、献納した者は三八九人であり、その内訳は士族、卒が一〇四人、町在または市在と呼ばれる農民は二八五人,これを見れば、献納や売却の主体は農民であるが、士族、卒の土地も集められていたのである。  ,一士族ノ方向ハ憂中ノ最モ大ナルモノニ付過日旧藩ノ総体ヲ左ニ陳ス 士族元卒総員四千三百五十六名之内、方向
通史編5(近・現代2) (青年学校令の制定)

尋常小学校卒業者は普通科に、高等小学校卒業者は本科に入学し、本科卒業者はこれと相当する教養ある者とともに
通史編5(近・現代2) (音楽教育の先達)

楠美恩三郎(くすみおんざぶろう)(明治元-昭和二 一八六八-一九二七)は東奥義塾に学び、東京音楽学校師範部を卒業,青森県女子師範学校を経て、東京女子師範学校を卒業、音楽取調掛の第一回府県派出伝習生として音楽を学んだ。
通史編5(近・現代2) (市立弘前商業学校の成立)

という形は変わらなかったが、蔵主町から本町の校舎に移転し、昭和十二年三月には、乙種商業学校になって最初の卒業生,当時の卒業生平尾俊三(昭和十七年度卒)の回想にはこう書かれている。,五年生が三本木近郊の排水溝作業に、七月には弘商報国隊として大湊軍港作業部に動員され、翌年の三月に現地で卒業
通史編5(近・現代2) (高校進学の問題)

これら新中卒業生の進路をどうするかが、大きな問題となっていた。  ,中学校を卒業したら、高等学校へ進学するのが筋道ではあるが、新制高等学校は昭和二十三年四月に発足したばかり,つまり新制中学校の卒業生は二十五年まで高校進学を閉ざされるわけである。  ,昭和二十三年度の新中学校第二回卒業生は、一回生より数も多く、進学先について改めて問題となったが、弘前市
通史編1(古代・中世) (奥大道と文物の流通)

『吾妻鏡』によると、奥州藤原氏初代清衡は、白河関から外浜に至る二十日余の道程一町ごとに笠卒塔婆をたて、,史実であるかどうかは疑問であるが、ただこうした一町卒塔婆には先例がある。,『白河上皇高野御幸記』や『中右記』によると、たとえば高野山や熊野山への参詣路に、町数や行程を記した卒塔婆,とすれば、一町ごとに卒塔婆を設置したかどうかは別として、浄土世界、中尊寺を最終目標とする行程路の整備が,また黄金の笠卒都婆を一町ごとに置いたこと自体は疑問であっても、その終着点である外浜の知識をもっていたことは
通史編5(近・現代2) (満州事変から太平洋戦争へ)

この年三月には、現地の神奈川県立第一中学校講堂を会場に卒業式があった。,警戒警報下に、防空頭巾で身を固めたまま挙行されたこの卒業式は、戦時特例により、四年修了で卒業させられたのである
通史編4(近・現代1) (出家と禅画)

この後、県立弘前中学校に入学して三十六年に卒業したが、この間、禅僧千崎如幻の仏苗学園でも学んだ。,忠三の長兄忠雄は佐藤ドクトルと言われた有名な医師、十歳年上だが、東京慈恵医学校卒業後、ドイツのミュンヘン,次兄正雄が陸軍将校という家庭環境で、忠三も中学卒業後、進学のため上京した。
通史編5(近・現代2) (昭和初期の弘前高女)

建築費三〇〇〇円は、卒業生からの寄付とバザーや音楽会の収益で賄われた。,この同窓会館建設を機に、校友会から卒業生部門が独立して同窓会が結成された。  
通史編5(近・現代2) (東門会の創立)

六十次郎は昭和四年東京帝国大学の西洋史学科を卒業したが、在学中に大川周明などの国粋主義者と交遊、卒業論文
通史編4(近・現代1) (弘前高等女学校の開校)

開校式の様子を第一回卒業生山本いしは次のように述べている。,第一高等女学校の第一回卒業証書授与式は、三十七年(一九〇四)三月二十二日に挙行された。,開校のときの五〇人のうち卒業生は三六人であった。,卒業式は午前九時に始まり、永井直好校長から「良妻賢母たるは難し、而して其の難きを知る者は良妻賢母たるを
通史編4(近・現代1) (青年訓練所の設置)

教科は軍事訓練のほか修身公民科、普通学科、職業科を課し、対象となる生徒は小学校卒業者、高等小学校卒業者
通史編3(近世2) (廃藩置県と帰田法の終焉)

同年七月十二日に藩は規則を再び改定し、分与地の士族・卒同士、農民所有地との交換を認め、家禄に応じて在方,もはや弘前藩は消滅し、このままでは戊辰戦争以来、疲弊した士族・卒は何らの救済措置もないまま、先行き不透明,たとえば、同年十一月上旬にはすでに農村移住を願い出ている八三一人の士族・卒の引越代米が大幅に削減され、
通史編5(近・現代2) (家政女学校の創設)

昭和五年には、校名を私立弘前高等家政女学校と改め、七年には師範科卒業生に対しては、無試験検定で小学校家事科本科正教員免許状,創立以来約四〇〇〇人の卒業生を送り出し、柴田やすの「和洋」と並び称され、弘前の女子教育界に大きな足跡を,昭和三十一年三月二十日、鷹ヶ岡女子高等学校は、最後の卒業式の後、引き続き閉校式を挙行し、女子中等教育機関
通史編5(近・現代2) (本部封鎖事件)

しかし、十二月からは一般学生の間には入試や卒業式を控え事態収拾の動きが高まり、大学側の強い姿勢とあいまって,二月中旬以降は平静を取り戻し、三月十六日には卒業式が挙行された。
通史編5(近・現代2) (白取朝陽小学校長の奇禍)

白取は野球部コーチに同校先輩の木村長四郎を迎え、さらに二年三月青森県師範学校新卒の乳井春雄訓導を招聘(, 大正11年少年野球大会での白取校長(左端)  白取校長は、青森県師範学校を明治三十四年三月に卒業
通史編5(近・現代2) (満州事変勃発と小学校)

試みに和徳小学校昭和七年度(八年三月卒業式)卒業生の慰問行事を挙げてみると、六年十月から八年三月までの
通史編4(近・現代1) (弘高女の運動会)

やかなことで、生徒だけでなく弘前市民の間でも楽しみにされていたが、創立十周年の運動会に参加した第七回卒業生石戸谷, 見物人にはもう一つの目的があって、この場をかりてよくよく選定し、その後お百度参りで懇望され、卒業
通史編5(近・現代2) (三浦雄一郎の活躍)

青森市出身だが、弘前高等学校の卒業生という縁から、昭和四十五年五月、三浦雄一郎がエベレスト初のスキー滑降
通史編5(近・現代2) (後藤健次の手紙)

大正十五年三月、日本大学を卒業と同時に第五十九銀行に入社。四月、詩誌「北方詩風」を創刊する。
通史編3(近世2) (戦局の推移と戦費負担の増加)

表17は青森で越冬した弘前藩を含む諸藩の兵員と、それに貸し出された夫卒(ぶそつ)(戦場に徴集された雑役夫,)の数であるが、合計で兵員六六五一人・夫卒五三三七人、総計一万一九八八人と、官軍人数の多さがわかる。,藩 名 藩兵人数 夫卒人数 計  1 鹿児島藩 263 263  2 山口(長州,弘前藩 927 1,125 2,052 14 箱館府役員・兵員 89 87 176 15 各藩兵附随夫卒,にともなう費用 11,820 警備人数348人 11 薪炭・水油・草鞋・縄・苫類代 16,320 12 夫卒徴発
通史編5(近・現代2) (野村三郎と五・一五事件)

青森県立弘前中学校(現弘前高校)二年修了で、大正十四年四月一日東京陸軍幼年学校に入校、昭和三年三月同校を卒業,し、四月一日陸軍士官学校予科入校、昭和五年三月卒業、士官候補生として歩兵第三一連隊(弘前)に入隊、同年十月一日本科生徒
通史編5(近・現代2) (新制高校の発足)

十一月には予科練や少年航空兵等の復員組五〇人が認定卒業という形で卒業している。
通史編5(近・現代2) (善蔵と洋次郎)

野村氏が帰省する二、三ヵ月前、私は、学校卒業以来の浪人生活からようやく浮びあかって現在のミッション女学校,洋次郎が慶応大学を卒業したのが同年三月。
通史編5(近・現代2) (男女共学の顛末)

り分ける入学選抜制度の数次の改正にもかかわらず、三十二年には「七人の侍」と称された全日制男子が最後の卒業生
通史編4(近・現代1) (小学の組織)

一年二級進級が建て前だから半年ごとに試験を受け、合格すると七級に進級、半年ごとに進級を重ねて、下等一級を卒業
通史編4(近・現代1) (生い立ち)

重治は伝道者を志し、恩師本多庸一の青山学院に学んだが、明治二十四年の神学部卒業試験に合格できず退校となった,翌年ムーディ聖書学院を卒業した。ムーディは彼に聖句「エホバは日なり盾なり」を餞別に与えた。
通史編5(近・現代2) (弘前電波高校の開校)

なお、高校設置に伴い、各種学校としての電波学校の方はこの年から新入生を募集せず、四十六年、最後の卒業生
通史編4(近・現代1) (知事辞職勧告)

ルニ足ラサル者居多、中ニ就テ官吏ニ地方人ヲ用ストノコトノ如キハ到底世見ニ見スヘカラサルノコトニシテ、廃卒金一件
通史編3(近世2) (「概略手続」の発表と変更)

これによると、分与地に移住した士族・卒は年貢米を納めれば、残る部分は自分の自由となる。,そう考えれば帰田法は最初から士族・卒の自作農化を意図したともみえる。,さらに、分与地配賦の対象は、原則として家禄一五俵以上の士族・卒とするとされたが、家禄がそれ以下であっても
通史編4(近・現代1) (第三一連隊の壮挙とその後)

三十一連隊昇進者  今回の雪中行軍田代より青森に出つ、嚮(きょう)導の任務を全ふしたる同聯隊第二中隊二等卒小山内福松及第八中隊喇叭,(らっぱ)手二等卒山上与作の二氏は何れも一等卒に昇進せらる     記念徽(き)章  歩兵第三十一聯隊雪中行軍隊
通史編4(近・現代1) (教育令の公布)

では県民の経済力を考慮して、修業年限延長は不可能と判断し、県独自に尋常科十級制度(一年に二級進級し十級卒業
通史編5(近・現代2) (紀元二千六百年奉祝)

学校放送設備一式を学区内有志から贈呈され、第一大成小学校では御真影奉安殿の新築、また、時敏小学校では卒業生
通史編5(近・現代2) (女子高等教育機関の整備)

同校卒業者には、生活科は家庭科家政及び保健、被服科は家政科被服の中学校、高等学校の教員資格が与えられることになっていて
通史編4(近・現代1) (東奥義塾の啓蒙活動)

そのため旧藩主家からの資金援助が妨げられたり、卒業した有為の若者でも官途に迎えられなかったりした。,山鹿旗之進(明治十二年卒)の回顧に、「ジョン・イングは年長者に一通りパリアメンド・ロオ(議会制度)を教
通史編5(近・現代2) (弘前実科高等女学校の変遷)

さらに翌年には、補習科の卒業生には小学校裁縫科専科正教員免許状(無試験)が与えられることになり、これで,同窓生の浅田タマ(昭和二十二年卒)は、当時のことを次のように回想している。
通史編5(近・現代2) (個人作家の活躍)

五所川原市)を父とする工藤哲巳(くどうてつみ)(昭和一〇- 一九三五- 五所川原市)は、東京美術学校卒業後,卒業後は、青を基調とした軽快な色彩の抽象画で高い評判を得、その作品は国内外の美術館の収蔵となっている。
通史編4(近・現代1) (藤田育英社の設立)

藤田育英社の社生となって学業を卒(お)えたものは一〇〇人以上を数えた。
通史編4(近・現代1) (弘前市青年団分団の結成)

対象になった青少年は小学校を卒業したばかりの少年から二十歳までの青年たちであった。
資料編3(近世編2) (●革秀寺 藤代一丁目)

内部には板卒塔婆を巡らし、宝篋印塔が安置されている。
資料編3(近世編2) ([口絵])

一六二号) 弘城出立之図 北蝦夷地陣屋着之図 元喜再ひ兄の墓へ詣、涕泣のあまり新に卒塔婆
通史編4(近・現代1) (県内遊説)

県内遊説 義塾を卒業してなお向学心に燃える生徒は上京し、帝国大学、慶応義塾、同人社などで学んだ。,第一回卒業生伴野雄七郎は中村敬宇の同人社に学び、明治十二年に帰ってきて中央の自由民権運動の動きを伝えた
通史編4(近・現代1) (東奥義塾の再興なる)

東奥義塾の再興なる 大正三年(一九一四)三月、県立弘前中学校東奥義塾は、五〇人の卒業生を送り出したのを,このころ、陸軍大臣から在学中の徴兵延期、卒業後の陸軍幹部候補生としての資格が与えられるなど、公立中学校,困難を乗り越え、独特な校風によって地方教育界に新風を吹き込んだ義塾が、昭和二年三月再びついに第一回の卒業生
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