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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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通史編2(近世1)
(浅利騒動と津軽氏)
この間、文禄三年末に上洛し、翌文禄四年六月ごろに帰国した秋田実季は、弟忠次郎英季(ふさすえ)と
南部信直
,
南部信直
は、この文禄四年の状況を、八月八日付書状で「比内・檜山、人ゆ(行)きゝなく候」と、八月初めに比内,図36.津軽氏の浅利氏擁護を示す
南部信直
書状案 この文禄四年の戦闘において頼平が頼みとしたのは,為信は、天正十八年に
南部信直
から独立を果たす際に秋田実季と講和し、実季が比内から南部勢を排除する際に支援
通史編2(近世1)
(湊合戦と惣無事令違反)
いでいた豊島九郎通季(みちすえ)(高季(たかすえ))が、湊家嫡流を称して戸沢盛安(とざわもりやす)・
南部信直
,
南部信直
は、これを好機として比内を制圧した(南部勢は、阿仁米内沢(あによないざわ)にまで進出するが、四月,八月二日付の秀吉の朱印状は、
南部信直
に対して為信をはじめ檜山城主の実季とともに上洛するよう命じた(資料古代,、八月二十日付で前田利家は、この秋か来春に秀吉が出羽・奥州両国の仕置のために出馬するであろうことを、
南部信直
通史編2(近世1)
(北奥羽の大名の動向)
天正十五年(一五八七)六月十九日、前田利家は、
南部信直
に対して血判誓紙をしたためて、秀吉にとりなすことを,このように、
南部信直
は、前田利家との好(よし)みを通じて、豊臣政権とも結びついてゆくようになる。,北奥地域では、史料の信憑性の問題はあるが、天正十五年四月ころから、
南部信直
が斯波へ進発しようとしたという,天正十六年七月ころまでは、目立った動きはみえないようである(「七月十七日付
南部信直
宛葛西晴信書状」)。
通史編1(古代・中世)
(津軽独立に向けて)
為信の行動は、
南部信直
(写真200)が着々と地歩を固め、権力強化を進めているのをみての行動であったという,写真200
南部信直
さらに、天正十三年(一五八五)三月には外浜油川城を攻略し、それに続いて高田
通史編2(近世1)
(伏見作事板の運上と太閤蔵入地)
慶長二年正月二十五日、
南部信直
の子利直は、作事板を秋田山にて実季から受け取り、京に廻漕する旨の朱印状を,また、翌慶長三年、秋田・仙北の大名・小名衆とともに伏見作事板運上の秀吉朱印状獲得を待ちわびていた
南部信直
,三月廿七日(朱印) 南部大膳大夫とのへ (盛岡南部家文書) 図31.
南部信直
,へ杉板伐採と廻漕を命じる豊臣秀吉朱印状 このように
南部信直
は、秋田・津軽・南部領内のいずれの山,からでも杉を伐採し敦賀まで廻漕するよう命じられているが、同年分の「於秋田御材木入用之帳」には
南部信直
が
通史編2(近世1)
(二 浅利騒動への加担)
、単に一地方の大名領内の問題に終わらず、豊臣政権を構成する奉行や有力大名のほか、周辺の大名津軽為信や
南部信直
通史編2(近世1)
(伏見木幡山城の築城)
慶長二年(一五九七)十一月に糠部郡を出立し、陸路により武蔵国を経て同年十二月二十五日に伏見に到着した
南部信直
,この「御材木」は、伏見作事板のことであるが、この作事板運上の秀吉朱印状を受領するために
南部信直
は伏見へ,またこの時、
南部信直
だけではなく、仙北の小名衆や秋田実季も伏見作事板運上の朱印状下付を待って伏見に詰めていた
資料編1(古代・中世編)
([十六世紀])
●天正十年(一五八二)、三戸城主
南部信直
、弟政信を波岡城に入部させ、津軽郡代にするという。,
南部信直
、櫛引八幡宮に参詣。,●天正十四年(一五八六)十月三日、小野寺輝道、
南部信直
の滴石(雫石)攻略を賀する。,
南部信直
、津軽より南部領への引揚げ者に対する対策を指示する。,●天正十七年(一五八九)九月三日、蠣崎慶広、
南部信直
に鷹を贈り好みを通ずる。
通史編2(近世1)
(城破(わ)り)
これに先立って、
南部信直
は、七月二十七日に家中の者どもの城をことごとく破却し、妻子を信直の居城である三戸,そして、天正十九年の春には、九戸政実(くのへまさざね)が櫛引清長(くしひききよなが)らとともに、
南部信直
,
南部信直
の場合のように、家中の者どもの城をことごとく破却することが城破りの原則であったとき、ここでの指示,
南部信直
が肥前名護屋(なごや)に在陣中の十二月晦日の段階でも、「在府」については、自分が国元に帰ってから
通史編2(近世1)
(中世の比内浅利氏)
この後、奥羽の地は大浦為信・安東愛季・
南部信直
らとの間で一時的な均衡状態が保たれるが、天正九年(一五八一,この機会を好機とみた
南部信直
は、天正十六年、大館城将五十目(ごじゅうめ)兵庫を抱き込んで比内地方を奪取
通史編2(近世1)
(伏見滞在と派閥抗争)
秀吉政権はすでに妻子の上洛を強制し、天正十八年八月には、奥羽の有力大名である伊達政宗、最上義光、
南部信直
,図38.徳川家康画像 すでに名護屋在陣において、
南部信直
は天正十五年以来一貫して取次として接点,「南部修理大夫」「南部中務少輔」は南部氏のだれか不明であるが、「南部大膳大夫」は
南部信直
のことであり、,さらに
南部信直
の屋敷と津軽為信の屋敷が極めて近接していることは、注目に値する。,なお
南部信直
も伏見作事板の秀吉朱印状を発給されているが、この朱印状を受け取るまで、信直は再三にわたって
通史編2(近世1)
(奥羽大名の名護屋参陣)
名護屋への参陣の途中に京へ到着し(『多聞院日記』天正二十年二月二十五日条)、三月十七日には、伊達政宗・
南部信直
,関東・奥羽の大名衆は、翌文禄二年三月には渡海が命じられる予定であり、
南部信直
はそのため正月から渡海準備,加賀宰相前田利家の配下には
南部信直
・本堂忠親(ほんどうただちか)、蒲生氏郷の配下には最上義光・大崎義隆,すでに秀吉は、九戸一揆鎮圧によって、津軽為信、
南部信直
、そして「日の本」領主蠣崎(松前)慶広らの大名衆,誓紙の中に、津軽為信・
南部信直
らの署名と花押が認められ、蒲生氏郷(がもううじさと)・最上義光(もがみよしあき
通史編2(近世1)
(名護屋における「日本之つき合」)
における「日本之つき合」 文禄元年四月ころに名護屋参陣を果たし、それから約一ヵ月過ぎた五月二十五日、
南部信直
,さらにそれから半年を過ぎた十二月晦日、
南部信直
は、国元の重臣楢山帯刀(ならやまたてわき)へ宛てた書状で,
南部信直
は、この名護屋で常に「上衆(かみしゅう)」(西国大名)とつきあってみたが、西国大名は遠国の大名,図18.
南部信直
書状にみえる「日本之つき合」 名護屋城周辺の大名の陣屋配置を示したのが、図19,この同じ丘陵上、為信の陣屋から約六〇〇メートル南西へ下った所に
南部信直
の陣屋、同じく南東へ約八〇〇メートル
通史編2(近世1)
(一 検地・人質徴収・城破(わ)り・刀狩り)
すでに、前年の天正十七年八月二十日付の前田利家(まえだとしいえ)が
南部信直
(なんぶのぶなお)に宛てた書状
通史編2(近世1)
(九戸一揆の背景)
図8.
南部信直
画像 九戸政実はすでに、戦国末期の南部晴政の代から南部氏の家督をねらっており、信直,和賀・稗貫郡でも一揆が起こり、一揆勢は浅野長吉配下の浅野忠政が配置されていた鳥屋ケ崎城を襲撃し、
南部信直
通史編2(近世1)
(秋田安東実季の名護屋参陣)
秋田を出立し名護屋に到着したのか不明であるが、文禄元年十二月晦日付の楢山剱帯(ならやまたてわき)宛ての
南部信直
書状
通史編2(近世1)
(知行安堵と検地)
ひたち))・岩城貞隆(いわきさだたか)(岩城)・戸沢九郎(とざわくろう)(出羽仙北(でわせんぼく))・
南部信直
,和賀・稗貫ではなく、遠野(とおの)、久慈(くじ)だとする説があり、和賀・稗貫は九戸(くのへ)合戦の後に
南部信直
通史編1(古代・中世)
(安藤愛季の津軽侵略)
そして、
南部信直
にとっても、天正九年には愛季が鹿角に出陣し南部勢と戦っていることなど、為信との和約は必要
通史編2(近世1)
(豊臣再仕置軍の奥州下向)
図10.為信に対し九戸一揆の成敗を命じた豊臣秀吉朱印状 浅野長吉が
南部信直
の家臣東朝政(ひがしともまさ,この後、
南部信直
はひたすら秀吉軍の奥州下向に最後の望みをかけつつ、領内の有力な領主である野田氏に、久慈氏,に任じられていたことから、仕置軍がすでに奥羽まで兵を進めているにもかかわらず、天正十九年八月中旬まで
南部信直
通史編2(近世1)
(九戸一揆の意義)
その間、
南部信直
は、領土を割(さ)きとられた私怨を晴らすため、為信襲撃の許可を得ようと浅野長吉の陣所を
通史編2(近世1)
(鷹献上による豊臣政権との折衝)
為信は、前述のように出羽国の湊・檜山合戦の混乱に乗じて
南部信直
に反旗を翻し、天正十七年八月の段階で、豊臣政権,あるいは
南部信直
からの独立であったのか、豊臣政権への服属の意志の表明であったのかはわからないが、本懐と
通史編2(近世1)
(浅利頼平の怪死)
その後、比内は実季の弟であり
南部信直
の娘婿である秋田英季がその支配に当たることになった。
通史編2(近世1)
(北奥羽の領知確定)
この七月の仕置によって、出羽国仙北郡角館城主戸沢光盛や
南部信直
は秀吉の領知朱印状を得ることができたが、,この朱印状と同日付でほぼ同文の朱印状は、奥羽の地では秋田実季・
南部信直
・小野寺義道に発給されているが、
通史編2(近世1)
(人質徴収)
さらに、七月二十七日には
南部信直
も妻子の在京を命じられ(資料近世1No.一六 なお、以下の記述は長谷川前掲書
資料編2(近世編1)
(【解説】)
本章における編年体史料の開始は、天正十七年八月二日、北奥三戸の領主
南部信直
が、秋田檜山(ひやま)の安東氏,このことは、
南部信直
をはじめとする北奥羽の大名が豊臣政権へ上洛を連絡することによって、服属を公式に表明
通史編2(近世1)
(刀狩り)
南部領では一戸(いちのへ)での「刀かり」が課題の一つとなっていたようであり、当時肥前名護屋に在陣中の
南部信直
通史編2(近世1)
(浅利頼平の比内帰還)
比内帰還 翌天正十八年(一五九〇)、津軽での独立化を図る大浦為信は、安東実季・九戸政実と結び、ついに
南部信直
通史編2(近世1)
(知行安堵)
知行安堵 豊臣政権による検地が実施されようとしたころ、天正十八年(一五九〇)七月二十七日に陸奥の
南部信直
通史編2(近世1)
(掲載図版・写真の典拠・所蔵一覧)
佐賀県立名護屋城博物館蔵 14 同上 15 同上 16 東京国立博物館蔵 17 金沢市 尾山神社蔵 18
南部信直
黒印状,浅利頼平領内村数覚書写 慶長2年9月3日付 東北大学附属図書館蔵秋田家文書 能代市史編さん室写真提供 36
南部信直
書状案写
通史編2(近世1)
(関ヶ原の戦いと津軽氏)
攻囲する軍勢として、蒲生氏郷、最上義光、木村重茲に属する一手として秋田実季、前田利家に属する一手として
南部信直
資料編2(近世編1)
(編年史料 (天正十七年~明暦二年))
編年史料 (天正十七年~明暦二年) ●天正十七年(一五八九)八月二日、豊臣秀吉、
南部信直
へ朱印状を下,●天正十七年(一五八九)八月二十日、加賀金沢城主前田利家、
南部信直
へ書状を遣わし、大浦為信に叛逆の動きあること,●天正十八年(一五九〇)七月二十七日、豊臣秀吉、
南部信直
へ朱印状を下し、南部内七郡を安堵する。,●天正十九年(一五九一)七月二十日、伊達政宗、九戸政実と
南部信直
の間を調停せんとする。,●天正十九年(一五九一)七月二十二日、
南部信直
、家臣野田某へ書状を下し、九戸一揆討伐の上方衆平泉到着と
資料編1(古代・中世編)
(第一章 綱文・史料一覧)
南部信直
、櫛引八幡宮に参詣。,… 津軽一統志・永禄日記・封内事実秘苑 337 ●天正十三年(一五八五)四月、
南部信直
の将名久井日向守,…………………………… 永禄日記 340 ●天正十四年(一五八六)十月三日、小野寺輝道、
南部信直
の滴石,
南部信直
、津軽より南部領への引揚げ者に対する対策を指示する。,…………………… 盛岡南部家文書 344 ●天正十六年(一五八八)八月五日、仙北の本堂道親、
南部信直
の
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